こんなに暗い夜明けでも夜明けとい うものなのだろうか。あの日から一体何度こんな朝を迎えただろう。望んだのも、選んだのも姫自身。わかっているからこそ、賢い姫は己に戸惑うしかなかっ た。
「愚かな……」
 なんと愚かな己であることか。


自 由の鳥 君の翼   捌


 月陽はあまりにも簡単に屋敷に迎え入れられた。ほとんどのものが皆、彼を若君と呼んだが、古株の中には月陽と呼んでいる者がいることを姫は知っていた。 だれも本来の主の名など呼びはしない。その姿がないことを憂うことなどはしない。中には本当に気づいていない者もいるだろう。それにしてもこの不変は一体 どこから来るというのか。これではまるで、今までの主が偽りの、あるいは仮の主であったかのようではないか。
 姫にとってこの屋敷は知らない場所だった。己より後に奉公に上がった町娘より、その意味ではこの屋敷は知らない世界だった。姫は今まで同じような、けれ どまったく違う屋敷で育てられたのだから。
「奥方様、若様がいらっしゃいました」
 姫はうなづく。やがて月陽が姿を見せた。その姿をじっと見つめる。やはり、誰がなんと言おうと、どのような反応をしていようと、姫にとって彼は月陽であ り、他の誰でもなかった。そして、自分が嫁いだのは彼ではない。
「どうした?」
 姫が嫁いだ相手は、こんなに優しく笑う人ではない。だが姫が選び取ったのは彼だった。
「何でも、ありませぬ」
「そのような顔はしておらぬ」
 月陽は快活に笑った。だがふとまじめな顔になる。
「嫁いだ男が恋しいか」
 姫の肩がぴくりと跳ねた。平然としていられなかった己を悔いる。
 月陽は悲しげに笑った。
「良い、それで」
「若様?」
 月陽が姫の前に肩膝をついた。何かあると女の勘が告げる。姫は居住まいを正した。
「賢い娘だ」
 月陽はもう笑ってはいない。
「別れだ、姫。俺にはこの屋敷は合わない。前の暮らしの方が性に合っている」
 姫は黙っていた。
「我らはよく出来ていてな。おそらく元はひとつであったのだろう。顔は似ているが性格は正反対だ」
 その我らという言葉が月陽と月影を指しているのはすぐにわかった。けれど、名前は出せない。姫はくっと唇を噛んだ。
「この屋敷も財産も、全て俺は半身に譲った。だがそれは仕方なくではない。姫、俺は確かにお前を愛しているが、だからといって己を殺すような真似は出来 ぬ」
 今度は姫も動揺のひとつも見せなかった。中級とはいえ姫も武家の娘なのだ。
「俺にはここは耐えられない。それに姫、何よりお前が愛しているのは俺ではなかろう」
 姫は答えない。だが、決して瞳を逸らすようなことはしなかった。
「俺はこの館の本来の跡取りを探し出し、連れ戻す。もう戻っては来ぬ」
 月陽が立ち上がった。
「お待ちください」
 去っていこうとする月陽を姫が引き止める。それは縋るような声ではなかった。月陽は立ち止まったものの、姫を振り返ることはしない。それでも姫は先を続 けた。
「それを良しと思わない方がいらっしゃるのでは?」
「……よく出来た奥方だ」
 それにも姫はぴしゃりと返す。
「真面目にお聞きくださいませ。一度戻ってこられた以上、また出て行けば反感を買います。このままではこの家は二つに分かれてしまいまする」
「時が解決しよう。それにそういったことはあやつの方が得意でな。先ほども言ったとおり」
 姫が立ち上がった。月陽へと歩みを進める。姫は月陽を己と向き合わせた。
「引き止めたのはわたくし。この責任はわたくしにもありまする」
「だからなんだ? それに答えたのは俺だ」
 姫と月陽の視線がぶつかる。確かにお家をまとめるには月影の方が合っているのかもしれない。だが、月陽はどこか人を惹き付けるものをもっているのだ。
「どのようにして出て行かれたのです?」
 家督を継ぐのがどちらであれ、ひとりよりふたりいるに越したことはないはずだ。
「家督を月影様に譲るとでも置手紙を置いて黙って出て行かれたのではございませぬか?」
 月陽は答えない。それが答えであった。
「己の望むようにしたいなら、周りを納得してからなさいませ。あなた様にそれが出来ぬはずはございませぬ」
 しばらく静寂が続いた。負けたのは月陽のほうだった。
「お前はどうしたいのだ」
「わたくしは、この家に嫁した身。それにおふたりがどちらであろうと関係はござりませぬ。この家の為にこの身を尽くすのが我が役目なれば……」
「そのような建前など聞いておらぬ!」
 鋭い声が姫の言葉を遮った。
「……そなたはよく出来すぎておるな。そうさせたのはわれらかもしれぬが。女子は強い」
 姫は月陽を睨んだ。月陽の微かな笑みが消える。
「ひとまず俺は半身を見つけ出して来ねばならぬ。お前の言うとおりだ。だがそれには下準備がそろっておらぬ」
 月陽の手が姫の両頬を包んだ。口付けかと思ったがそうではない。月陽の顔はそれ以上姫に近づこうとはしなかった。
「お前も整理をつけねばなるまいよ」