「月陽とは・・・誰なのです」
 夜更け。姫の呟きに、月陰は身が凍る思いだった。
「何故その名を知っている」


自 由の鳥 君の翼  陸


「名乗ったのです、一昨日やってきた男が」
 月陰の顔がゆがんだのは、姫には見えていない。あたりは真っ暗だから。
「会ったのか」
「はい」
 眠っているはずだった。なのに、姫は起きていた。
 月陰が舌打ちした。
「あれは、誰なのです?」
「知りたいのか?」
「えぇ」
 何故―――?
 そう問うことは、月陰には出来ないことだった。
「秘密は守れるか」
 話したくない。なのに、ひどく話してしまいたかった。
「はい」
「―――死んだ兄だ」
 隣で姫が息を飲むのを感じた。
「霊ではないぞ」
 笑えてきた。姫と話していると、単純なことでも楽しいと思う。
「私の、双子の兄だ。行方不明になって、死んだとされている」
 この屋敷では誰でも知っていること。
「だから、あいつの話はこの屋敷ではされぬ」
「何故・・・」
「本当は生きているからだ」
 それは暗黙の了解。月陽は死んだから、誰も目に留めない。見えているけれど、誰も見ない。見てはいけない。
「ではなぜ、行方不明などと・・・」
「―――私の、所為だ・・・」
 月陰は額の上に手をやった。
 姫が身体を起こす気配を感じた。
「私がこの家を継ぐため。あいつはここを出て行った」
 彼は自分のためだと言うけれども。大名家の跡を継ぐなど、自分の柄じゃないから、と。それが本心でも、月陰は引くわけにはいかなかった。どんな理由にせ よ、追い出してしまったのは自分だから。
 双子だから、相続に綻びが生じるのはわかっていた。でも自分はこの家を継ぐつもりは無かったし、ずっと兄が継ぐものだと思っていた。兄が家を出て行くま で、ずっと。
 本当は、姫を娶るのも自分ではなく兄だったはずだったのに。

「お頭?最近元気がありやせんね」
「そうでもないぞ?なぁに、お前らに心配されるようなことじゃない」
 月陽は草むらに胡坐をかいた姿勢で月を見上げていた。ずっと堅苦しく思っていた、お家。弟のほうが家を継ぐにふさわしいとずっと思っていた。
 ―――だから、家を出た。それを後悔したことは一度だってない。ここが、ここにいる者達が自分の居場所、そしてこれが自分のあるべき姿だと思うから。
「姫・・・か」
 でも、あの夜から考えるようになってしまった。あのまま自分があの家にいたら、自分があの娘を娶っていたのかと。
 馬鹿らしい考えだとはわかっていた。
「厄介だな、双子とは」
 月陽は手に持っていた酒を煽った。すべて忘れてしまえばいいと思ったから。そういう時に限って酔いが回ってこないのはわかっているけれど。

「月陰様―――?」
「何だ」
「後悔するのは、失礼です」
 遠慮の無い言葉に、月陰は怒りに目の前が真っ暗になった。
「お前に何がわかる!」
 次の瞬間、月陰の身体は姫の上にあった。その手が首を捉えようとするのを振り切った姫は叫んだ。
「わかりません、何も!」
「なら―――」
「でも!!」
 まっすぐと、強い瞳が月陰を貫く。
「わかろうとすることなら、出来ます」
 ゆっくりとつむがれる言葉は、あまりに柔らかすぎた。
「貴方が悔やめば、兄上のお気持ちは全て無になること、わかりませんか?」
 言い聞かせるでもなく、宥めるでもない声は、初めてだからこそ戸惑った。
「お前は誰の味方なのだ」
 月陰の髪の毛の先が、姫の頬を撫でた。
「わたくしは―――誰の味方でも、ありませぬ」
 柔らかな声の冷たい口調。
「・・・そうか」
 ひどく苦しいと思ったのは、一体どちらのほうだったのか。ゆっくりと姫の上からなくなった体重は、隣の布団の上に転がった。