あなたとわたし。
えがお。 |
どきどき。菜々花は俯いたままそこへ
向かった。 その本棚は難しい本ばかり置いてあるので、教師が授業の資料にするくらいにしか使用しない。だから、菜々花もあまり入ることのない棚だ。 (……あ、し…?) ゆっくり、菜々花が視線を上げる。 (わ、わ…っ) そこには、あの日の彼がいた。菜々花の頬がかぁっと赤く染まる。 (寝てる…?) 薄く開いた唇からは、規則正しい吐息。 (また、いた…) いつもいるのだろうか。それとも、偶然? だけどそんなの、誰に聞くこともできない。 菜々花は彼を起こさないように気をつけながら本を棚に戻した。身体が、ぽかぽかする感じがする。 (あともうひとつ…) 本の背表紙の一番下に張られている分類シールと棚に並べられている本のそれを見比べる。 (た、高い…) しばし呆然とする。だが、長い間そうしてもいられない。 (よ、よし…っ) 気合を入れて、本を持つ。基本的に、出すより戻すほうが簡単なのだ。 (ジャンプしたら、起こしちゃうかな…?) ちらっと横目で見て、慌てて視線を戻す。 (わわわ…っ) 慌てて手を伸ばして本を棚に戻す事に集中しようとした。 「も、すこし…っ」 精一杯背伸びして、入れようとするけれど。 (入らない…っ) ぐらっと、視界が揺らいだ。 「きゃ…っ?」 スローモーションで、戻そうとした本につられて出てきた本が落ちてくるのが見えた。 どすんっと尻餅をつく。本が、落ちてくる。 菜々花は目をぎゅっと閉じた。痛みを覚悟する。 その前に、菜々花の身体は浮くような感覚を覚えた。 (あれ……?) 痛みがない。恐る恐る目を開けると、自分の前にいくつもの本が落ちてきていた。 「大丈夫か?」 声が、上から降ってくる。菜々花はぱちぱちと瞬きした。そっと振り向く (えっ―――) そこには、彼の顔があった。 菜々花の頬がぼっと赤くなる。 「おい」 「はいっ」 「…返事速いな…」 彼はくつくつと笑った。 (笑った…) 「おまえ、図書委員?」 何も言えなくて、声が出なくて、菜々花はうなずいた。 「ひとり?」 「…え、っと、もうひとり、男の子が…」 「だったら代わってもらえよ」 彼の言っている事の意味がわからなくて、菜々花は困ってしまった。 「手、届かないんだろ」 ひいていた熱が、再び菜々花の頬に戻る。 (見られてた…っ?) 「おい。大丈夫か? 腰が抜けたんじゃないだろうな」 菜々花はハッとした。彼に抱きとめられたままだ。 慌てて菜々花は立ち上がった。だが慌てすぎてぐらりと身体が揺れる。再び、尻餅をついた。 「何やってんだよ」 彼が笑った。よっこらせ、と言って立ち上がり、彼は菜々花に手を差しのべた。 「ほら」 ためらってためらってためらって、菜々花はその手に自分の手を重ねた。 立ち上がらせてもらった菜々花は、床に散らばった本を見下ろして、ため息をついた。 「これ、どうやって片付けんの」 「え?」 菜々花が首をかしげる。彼は苦笑して、いくつか本を拾い上げた。 「届かないんだろ」 もしかして、手伝ってくれるのだろうか。そんな、まさか…。 「適当でいいのか?」 菜々花が唖然としている間に、彼は本を棚に戻した。 「あ…」 「何かまずいのか?」 「えと…」 菜々花は本をひとつ拾い上げた。 「一番下の、数字どおりに並べるんです…。えっと」 もうひとつ本を拾い上げる。 「こっちとだったら、二番目の数字が、こっちの方が大きいから、こっちが先…」 「…わっかんねぇ。じゃあ、お前が順番どおりに渡せよ。その通りに入れてやるから」 菜々花はうなずいた。座って本を見比べる。その間に彼は適当に並べた本を菜々花に渡した。 しばらく菜々花はひとりで本を並べる作業をした。その間、彼がずっと菜々花を見ていたことなんて知らずに。 「できた…」 「ん、じゃあ渡せよ」 「あ、でも、脚立があるんです…」 言いながら菜々花が立ち上がる。 「…なんではじめから使わねぇんだよ…」 「だ…だって、大丈夫だと思ったから…」 彼がため息をついた。菜々花がうつむく。 「まぁいい。お前、落ちそうだしな…。ほら、渡せよ」 菜々花は素直にうなずいた。 「はい…」 三冊、一度に渡す。ちょっと多いかなと菜々花は思った。 「…重いですか?」 「んなことねぇよ。男だからな」 菜々花はすこしほっとして、ほほえんで再び本を差し出した。だが、彼は受け取らなかった。嫌になったのだろうかと思って、菜々花が声をかける。 「あの?」 「わ、わりぃ」 「…?」 菜々花が本を引っ込める。 「って、何してんだよ」 「あの、嫌なんでしたら、私…」 「ちげぇよ!」 彼が声を荒げて、菜々花の肩がぴくっと跳ね上がる。 「…わりぃ、ちげぇんだ。その…ちょっと、考え事してた。いいから、かせ。嫌なわけじゃねぇから」 「…えぇと…じゃあ…お願いします」 「ん」 おずおずと菜々花の差し出した本を、彼は受け取った。 しばらく会話もなくそれが続いて、とうとう最後の三冊になった。それを彼が本棚に戻し終えたのを確認して、菜々花はほほえんだ。 「ありがとうございました」 「…別に…」 再び会話がなくなる。 「あの、じゃあ、私…カウンターに、戻らなきゃいけないので…」 「…なぁ」 戻ろうとする菜々花の腕を、彼が掴んだ。 「え…?」 「お前、名前は?」 「あ…えと、相崎…菜々花です…」 「菜々花か。ななって呼んでもいいか?」 菜々花はうなずいた。 「俺は、松原元樹」 「もとき…さん?」 「さん、はやめろ」 菜々花は困った顔をした。 「呼び捨てでいい」 「でも…」 菜々花はすこし考えて、じゃあ、と言った。 「もとき、くん?」 「あぁ、それでいい。ちゃんと覚えとけよ。あ、敬語も禁止だからな」 それだけ言うと、元樹は本棚の間を出て行った。 (なまえ…聞いちゃった…) 菜々花は火照る頬を押さえてほほえんだ。 |