何もかもが、めまぐるしい。何もかもが、慣れないことばかり。正直、何をしていいのか、どうすればいいのか、わからないことばかりだった。
心のどこかにあるこの虚無感は、そういったことからくるものなのだと、信じていた。信じている。
そんな
僕らの裏事情
友達作りなんて、まともにしたことがなかった。美空の周りには、気が付けば朝子たちがいた。幼いころというのは友達作りにあまり苦労しないものだし、し
たとしても覚えていない。美空にとって友とは、気が付けばそこにいるものだった。
教室が騒がしい。中学の頃もそうだったけれど、それとはまた違う。教室のあちこちから、誰か違う人の声がする。美空は努めて本に集中した。うるさい、気
が散る。この騒がしさは落ち着かない。狭い教室に、どうしてこんなにも人を詰め込むのだろう。それだけ自分のテリトリーが狭くなる。身動きが取れない。自
分の一挙一動、全てが見張られているようだ。
友達を作ろうとしているのか、はじめの頃は話しかけてくることのあったクラスメイト達も、いつかグループができていき、美空には見向きもしなくなった。
必要な時にだけ、そういえばいたような存在になるのだろうと美空は頭の片隅で思った。
入部した吹奏楽部で、多少親しくなった人はいる。けれど美空はまだ、知らない誰かに自分を表現するその仕方を探っていた。新しい環境というものは、案外
面倒なものだ。
チャイムが鳴った。次の授業の担当教師は少しだけ遅れてくるのが常だから、まだみんな、席にはついてもおしゃべりをしている。美空も相変わらず文字を
追っていた。そのうちドアの開く重々しい音がした。その音を聞くたび、この校舎に比べれば、まだうちの中学の方が新しい気がする、と美空は思う。
「起立。礼」
悠輝は。
不意に頭に浮かんだ名前に、美空は激しく動揺した。表には現れていないけれども。何を、思ったのか。否、思おうとしていたのか。本当はわかっている。け
れど、考えたくなかった。それなのに、意識はうまく他に逸れてくれない。
元気にしている? 家族とうまくやってるの? 周りの人は? 無理して笑ってるんじゃない? 今、何を考えているの? 幸せ? 大丈夫? 傍にちゃんと
支えてくれる人は――いるの?
美空は黒板を睨みつけた。頭を使わなければならない数学の授業だったことが、まだ幸いした。
図書室は落ち着く場所のひとつ。昼休みでも、あまり人がいない。少なくとも教室よりは、ずっと。それにここには、中学の頃には知らなかった物語がたくさ
んある。今のところ、だけれど。その世界に集中していると、心なしか心が安らいだ。物語の世界には、美空の生きる世界は交わらないから。美空が交わらせよ
うとしない限り。
「天原さん」
斜め後ろから掛けられた声に、美空は数秒経ってから反応した。なんとなく名前を呼ばれた気がする、というのが本当のところだ。振り返ると、見覚えのある
少女が立っていた。名前は・・・・・・思い出せない。けれど、クラスメイトであることは確かだ。
「あの、ごめんね、邪魔して。でも、あの、いつもいるなって」
少女が困っていることは確かに見てとれるのだが、だからといってどうすればいいのかはわからない。しばらくの沈黙に、美空は思わずため息をついてしまっ
た。
「ご、ごめんなさい」
「別に、構わないけど」
困らせたいわけでもない。ましてや怒っているのでもないのだけれど、相手には恐らくそう伝わっているだろうと美空は思う。それはなかなか大きな虚無感を
与えてくれたけれど、美空はまだ、よく知らない人との会話の仕方がわからないでいた。
よく知りもしない人間相手に、どんな気の使い方をすればいいというのだろう。どこまで踏み込んでいいものやらわからない。だから美空は口を噤むしかな
い。そんな彼女のことをフォローしてくれる人間は、ここにはいなかった。そうして美空は、かつてのクラスメイトたちにいまだに頼ろうとしている自分を嫌悪
したのだった。
「邪魔だなんて思ってないから。・・・・・・座れば?」
美空はちらりと少女が抱えている本を見た。それは美空も読んだことのあるファンタジー小説だった。
「ありがとう」
少女がぱっと顔を輝かせた。それに美空は朝子やかつて自分が率いていた吹奏楽部の後輩たちを重ね合わせてしまい、気付けば笑みをこぼしていた。それを見
た少女が本当に嬉しそうに笑ったことに、残念ながら美空は気付かなかったけれど。
彼女の名は湯川藍といった。それから藍は急激に美空と仲良くなっていったのだった。
窓の外にはもう、星が輝いていた。電車に揺られながら、美空は思う。何かが足りない。そんな気が、する。きっと気のせいだ。新しい生活が始まって間もな
いから。暦はもう初夏へと移ろうとしているのに、それでもまだ、慣れない環境のせいなのだと思ってみる。思っていたい。
「・・・・・・美空」
顔を上げると、朝子がいた。なんだかとても、疲れたような顔をして。
「今日は遅いのね」
「うん、ちょっと色々あって」
朝子はそれだけ言って美空の隣に座った。美空が座っていたのはボックス席で、もう乗客も少ないので向かいの席も空いていたが、朝子は美空の隣に置かれて
いた彼女の鞄を移動させてまで、隣に座りたいようだった。
電車の走る音がする。揺れる車内。会話はない。朝子が美空の肩に頭を乗せた。それでも美空は、何も言わなかった。何も言えないのではなくて、何から話し
ていいのかわからなかった。それでもただお互いのぬくもりが傍にあることだけが安らぎを与える。まるで傷をなめあっているようだと美空は思ったが、やはり
動くことはできなかった。