溜息をついた。じりじりと照りつける太陽、熱を孕んだ風。気分がすぐれなくて、また溜息をついた。結っていた髪をほどいたら、ますます暑くなった気がするけれど、頭痛の手前のような嫌な感じは消えてくれた。
空には今日も雲が流れる。
そんな
僕らの裏事情
何もかもが煩わしくて、どうすればいいのかなどわからない。それでも日々は変わることなく続いていって、その先に何があるのかわからないのに生きていくしかないのだ。
見上げた空には、太陽と雲と、それ以外のものは何もない。美空は校舎の屋上から空を見上げていた。美空、親が何を思ってその名をつけたのか、彼女自身は知らない。けれどその名を持つ以上、彼女にとってこの空は己が分身のようなもの。その空に、美空は何を願うのか。
短い昼休み、美空は時々こうしてこの場所で空を見上げていた。特に日が決まっているわけでも、間隔が同じなわけでもない。学校で一番高いこの場所で。いつ
もはきちんと結っている髪を、風に自由に遊ばせて。その顔には何の表情も見受けられない。けれど広いこの屋上で、いつも同じ場所から同じ方向を見ていた。
がちゃりとドアが開いて、美空は小さく肩をすくませる。この屋上は鍵こそ開いているものの、本当は入っていい場所ではない。ゆっくりと振り返ると、そこには男の姿があった。
「は、女?」
目つきの悪い男子生徒だった。口もあまりよろしくない。美空はむっと眉をひそめたけれど、教師ではないことがわかると体勢を戻した。どうやら無視すること
にしたらしい。男子生徒は美空とは逆側のフェンスに背を預けて座り込んだ。特に何かをする様子もない。けれど珍しいのか何なのか、美空の背中を見つめてい
た。
雲が流れていく。校則違反はお互い様というべきか、互いに咎めることはないけれど、その存在を認める様子もない。美空はただじっと動かない。ざっと生ぬるい風が吹いて美空の髪を乱れさせたけれど、美空は動じることなく好きにさせておいた。
そのままふたりは会話もなく、チャイムの音を聞いた。美空はフェンスから離れてドアを開ける。ちらりと男を見たけれど、男は何も言わず、動くこともない。口を開きかけた美空は、そのままドアを閉めた。
「なあ、美空。お前最近おかしくね?」
美空はただ黙って夜宮を睨みつけた。おー怖、と夜宮は肩をすくめる。けれどすぐに真剣な表情に戻った。
「何かあるんならさ。言えよ」
「ないわよ。何も」
不意に夜宮が立ち止った。しばらく歩いてそれに気付いた美空が、不審げに後ろを振り返る。強い瞳とぶつかって、ぐらりと地面が揺れた。僅かに唇を開いた美空は、けれど何も言うことができなかった。それより先に、夜宮がいつものように悪戯っぽく笑ったからだ。
「ま、それならいいけど?」
美空に駆け寄って、その背を叩く。
「ちょっと、痛いわよっ」
怒る美空にも動じることなく、快活に笑って。夜宮は美空を追い越した。その背中に、美空の溜息は聞こえていただろうか。笑顔を作った夜宮は、美空を振り返る。
「ちんたら歩いてると遅刻するぜ?」
立ち止ったのはどっちよ、とぶつぶつ言いながら、急ぐ様子もない美空を待ってやって、夜宮は再び美空の隣を歩き始めた。いつものように。
薄暗い階段をゆっくりと登る。その先にあるのは屋上へと続くドア。ドアの前の踊り場で、美空は立ち止り、ドアノブへと伸ばした手を一瞬躊躇わせた。ぐっと握りこんだ拳の中に、何を込めているのだろう。
重たい音を響かせて、ドアが開いた。決して涼しいとはいえない風が吹きこんできて、美空は眉をひそめた。ドアを潜って、同時に髪ゴムを解く。美空の長い髪
が空に散らばった。狭くはない屋上にぽつり、先客がいる。美空はしっかりとその姿を認めた後、ふいと視線を外していつもの場所へ向かった。
昨日の男子生徒だ。昨日と同じような場所に座り込んでいた彼は、何をするでも何を言うでもなく、ただ美空の背を見上げている。視線を感じないではないだろうに、美空の方も相手にすることはなかった。
藍や吹奏楽部の友人や、そう、友人がいないわけでもない。授業についていけないわけでも、部活動が充実していないわけでもない。入った吹奏楽部では実力の
差を見せつけられた気もするけれど、始めたばかりの部員も少なくなく、この高校を選んだことは後悔していない。不満があるわけではないのだ。ないのだけれ
ど。
二日も続けてこの場所へとやってきたのは初めてだ。梅雨のあける頃、何ともいえない息苦しさを感じてこの場所へと登ってきてから、時々、ほ
んの気まぐれに訪れるようになって、もう一月は過ぎたか。何もかも、全てから解放され、ただ少し感じる罪悪感の中で、美空の見上げる空の先。
グラウンドから聞こえる楽しげな声は、美空に聞こえているだろうか。美空はぎゅっと目を閉じた。そして慌てて開ける。ずくりずくりと内を食い破らんとする闇。心の中に聞こえてくるメロディ。それでも、美空はここから離れることはできなかった。