フェンスに身体を預ける美空は、今にも夕闇の空に溶け込んでしまいそうだった。意気揚々と階段を駆け上がってきたはずなのに、それを見たら誰も、何も言
えなくなってしまっていた。その背中がまるで、はじめて会った人のものであるかのように感じていた。
そんな中、悠輝だけが平然と美空の隣に立った。美空は悠輝を見ようともせず、悠輝も美空を見なかった。それでも、誰もがその光景に安堵した。
「何よ、みんなして」
悠輝が身体の向きを変え、皆の方を向いた。
そんな
僕らの裏事情
「みんな、美空が心配だったんだよ」
悠輝は目を閉じて、静かに笑っていた。
「心配なんて、してもらわなくていいわ」
「またそうやって強がる。悪態ばっかりついてさ」
クラスメイト達が固唾をのんで見守る中、ぽつりぽつりと紡がれていく言葉達。彼らはそんなふたりなんて知らなかったけれど、取り巻く空気はいつもと少し
も変わらない。少しずつ緊張がほぐれていく。
「何よそれ」
「怒られたんだ」
「人の話を聞きなさいよ」
「聞いてるよ?」
あぁそう、それは悪かったわね、どうぞ? 続き。
美空の声は怒っていた。なのに誰もそれを不安には思わなかった。このくらいの不機嫌さには馴染みがないわけではなかったし、それに何より、悠輝の声がい
つもよりずっと楽しげに弾んでいたからだ。
「俺達はふたりで勝手に解決しすぎるんだって」
「はぁ? 何よそれ、どういう意味よ、気持ち悪い」
誰にも見えやしない美空の顔は、きっとひどくしかめられているのだろう。それを思うと、むしろ笑えてくるくらいだった。美空は美空で、やはり誰でもなく
て。知らない人ではなかったのだと。
「さぁ?」
そう言って笑った悠輝にはさすがに驚いたのだけれど。
「美ー空っ」
嬉しそうに朝子が美空に飛びついた。
ちょっと痛いわよ、何すんの。大体、あんた重いのよ。私を潰す気? いい度胸してんじゃない。
何かをごまかすように言葉を重ねる美空は、皆の知っている彼女の中で一番子供らしくて、一番年相応だった。そして、その隣で笑う悠輝も。
誰が最初だったのか、次々に三人に群がって、誰が何を言っているのか、もう誰も全てを理解することはできない。
「なんか勿体ねぇな、後少ししかクラスメイトじゃないとかさぁ」
空に、殊更明るい夜宮の声が響いた。
このままでいたい。誰とも離れることなく、このまま。こうして騒いで、遊んで、たまには喧嘩して、お互いを知っていって。そのまま大人になれたなら、ど
んなに幸せだろうと思う。本当のところはわからないけれど、それでも。そんな風に思えた。だって、誰も知らない人はいない。怖い人はいない。怖いものも、
怖いことも、何もない。時にはそれをつまらないと感じるかもしれないけれど、でもきっと幸せなはずだった。
けれど息をつまらせる暇もなく、ひどく楽しそうな平良が反論した。
「限りがあるからいいんだよ」
けれどそれは少しも心の助けにはならないようで。
「え、何、私らとはもう付き合いたくないって?」
「うっそ、ひっどーいっ」
「平良ってそういうとこ協調性ないよなー」
次々に声が上がる。まるで沈黙は怖いと言わんばかりに。事実、笑ってはいたけれど、誰の顔にも少し寂しさが見えた。そこに、不意に聞こえた言葉があっ
た。
「クラスメイトだけがすべてじゃないってことだろ」
優しい悠輝の声だった。冷たい風を装った美空のそれではなくて、それは確かに悠輝の声。
「そもそも、俺達の関係に名前なんてない。クラスメイトがなくなっても、まだ友達も幼馴染みも残ってるだろ」
少し戸惑いながら、怯えながら、それでも、力強い声は空気を震わせる。そうして、静まりかえった赤い光を見上げ、美空は笑った。腐れ縁の間違いじゃない
の、と。
「こらーっ、お前ら!」
そこにまた、騒がしさがドアを潜り抜けてきた。
「屋上は立ち入り禁止だろ! 騒ぐな!」
「あら、先生? それじゃあ騒がなければ入ってもいいみたいに聞こえますよ?」
皆が驚いてそちらを見ると、そこには担任と副担任が立っていた。便宜上怒っていますと言わんばかりの表情で。
「うわ、新條先生、それって教師失格じゃね?」
だから皆、少しも悪びれた表情など見せない。ただ、少し騒がしさは抑えられているけれど。
「お前らなぁ……」
眉を顰める卓也と、やわらかい笑みを浮かべる未来。ふたりとも、どこか安堵しているように見える。
そもそも、いくら一学年分の人数がいるとはいえど、たかが注意をするくらいのことで担任と副担任がわざわざ揃って顔を出す必要は必ずしもない。それでも
ふたりがふたりでやってきたのは、やはりどちらもが彼らのことを心配していたからなのだろう。いざ卒業という時になって、大きな波をたてられた生徒たち。
思えば、ここに来るまでふたりは彼らに何も話をしなかった。教師らしい言葉のひとつもかけてやらなかった。生徒たちの方はそんな事を気にする余裕もな
かったのだが、ふたりにとってそれがどれだけ苦しいことであったのか、きっと誰も知らない。これから先だって、気付いてくれる日が来るのかどうかもわから
ない。
けれど、ふたりにとって教師とは、言葉をかけてやり、感謝されるような存在ではなかった。感謝されることなどなくてもいい。何気ないことが、考え、苦し
み抜かれてやり遂げられた行動であるということなど知られなくてもいい。ただ、生徒たちがより良い道を探し出し、歩いていく道しるべとなることができれ
ば、それで。そう決めた。
ふたりは、長い時を共にしてきたこのクラスの生徒たちを、本当に、心から信頼していた。彼らなら大丈夫だと。そしてそれは、ふたりに最善の結果を見せて
くれた。生徒たちは誰も知らないけれど。
「ほら、降りるぞ」
良い子のお返事と、それに伴う素直な行動。口々に漏れる声は非常に素行が悪いけれど。
一番後ろ、ドアノブを握る美空は、不意に振り返った。空を染め上げる色は、赤と青の混じった紫色。一番明るい時間が終わり、一番暗い時間へと向かう。け
れど美空は怖くなかった。
「美空ー?」
朝子の声。美空はドアを閉めた。階段は暗い。けれど、美空を飲みこもうとする闇はもう存在していなかった。
「いいの、美空を置いてきて」
意地悪な平良の言葉に、悠輝は笑った。
「俺がいなくても、誰かはいてくれるよ」
平良も笑う。そうして少し、眉を寄せた。