外は、一日の終わりを彩る橙に染まろうとしていた。話がある、だから残っていてくれないかと言った悠輝。その悠輝に、夜宮は言っ た。
「断る」
 しばらく唖然としていた教室は。
 やがて笑い声に溢れた。


そんな 僕らの裏事情



「で? 何だよ話って。言っとくけどな、お前の東京行きの話ならもう聞かねぇから」
 不意に夜宮の表情が変わった。見たこともないような真剣さに、悠輝は口を閉ざした。そんな彼を知ってか知らずか、夜宮は悠輝から視線を外さない。
「俺はあんな話もう聞きたくねぇ。お前だってしたくないだろ。だからもうあの話はいい、あれだけで十分だ。けど、すぐに理解しろってのも無理だ。前も言っ たけど、俺はそんな物分かり良くないからな」
 あぁ言い切った、と夜宮は大きく息を吐いて笑った。
 しばらく静かだった教室内に、凛とした、それでいてどこか楽しげな声が響いた。
「ま、そういうこと。これでもあたしら、ちゃんと考えてんだからね。どういう結果が出てくんのかは、わかんないけどねー」
 麗美だった。すぐさま桜花も頷く。
「別に、今生の別れじゃないしねぇ」
 何気ない一言に、皆が息を飲んだ。平良も、美空も。
 その距離は、別れをもたらすものではない。会えないことが、過去を消すわけではない。十年近くをかけて築きあげられた友情や信頼関係が、そうすぐに消え てしまうはずはない。
 あぁそうか、と思った。誰もが、皆。
「そう、だよなぁ。俺らには携帯ってもんがあるしな」
「え、夜宮持ってんのっ?」
「いや、まだだけど」
「東京なんて飛行機ですぐだしねー」
「行ったことあんの?」
「ないっ」
「威張るな!」
「それより桜花よく今生の別れとか知ってたよねー」
 すっかりいつもの騒がしさを取り戻した教室内で、けれどそこだけがぽつりと静かだった。本当は誰より一番笑っていなければならないはずのその人。それに 気づいた平良が声をかけるより先に、動いたのは朝子だった。
「悠輝君。どうしたの?」
 それはあまりの素早さで、おそらくずっと悠輝を見つめ、そして声をかけるタイミングを見計らっていたであろうことが窺える。
「……、れは……」
 うん、と朝子は訊き返した。いつの間にか教室は静かになっていて、俯く悠輝の言葉を皆が待っている。けれど、聞こえたそれは、皆の予想を裏切るようなも のだった。
「おれ、は、俺には、そうしてもらう資格なんかっ」
 やっと絞り出したような声、けれどもうそれ以上のことは言葉にもならないようで、悠輝はただきつく唇を噛んだ。
「……悠輝?」
 誰もが息をひそめる中。問いかけたのは誰だったのか、それはおそらく誰でもなくて、皆であった。
 ただ悠輝の様子がいつもと違うことに気づき、けれど何もできないままで悠輝の言葉を待つしかない。そんなとても短くて長い時間が、どのくらい続いたか。 やっと、悠輝が顔を上げた。
「みんなが知ってる俺は、本当の俺じゃない」
 それはとても冗談にしてしまえるような響きではなくて、誰も何もできないまま、何かが変わる時を窺っていた。
 何かを言えば、変わってしまう。何を言っても、変わってしまう。何かはわからないけれど、何かが。それを変えてしまうのが怖かった。できるなら、このま ま全て、無かったことにしたいくらい。けれど。
「悠輝君は、悠輝君だよ」
 朝子、と声にならないその名を平良の唇が紡いだ。そして朝子の、彼女のものとは思えないほど静かで力強い声に触発されたのだろう、ゆっくりと夜宮が口を 開いた。
「……お前の言ってる意味、わかる気がする。お前、一歩後ろにいたもんな、俺たちの。けど、朝子の言う通りだよな。それだって悠輝だし、俺は……」
 そんなお前を偽物だと思ったことはない。
 そうだよ、とどこからか声が上がる。それはすぐに広がっていった。平良が笑う。ほら大丈夫だっただろうと言わんばかりに。それでも表情の硬い悠輝の肩 に、平良が腕を置いた。
「これからでもいいんじゃない? その本当の俺? 出していくのはさ。今すぐ卒業ってわけじゃないんだし」
「うわ、なんかいいとこどりされた気分だ……」
 半ば本気で悔しがる夜宮に平良がとても綺麗な笑みを向け、それが更に夜宮を悔しがらせる。その様子は皆の笑みを誘った。こうしてまたすぐにいつもの皆に 戻れる。それは誰をも安心させた。
 けれど皆と一緒に笑っていた朝子は、不意にその輪の中に美空がいないことに気づいた。美空の姿を探すと、彼女はただぼんやりと皆を見ていた。その瞳は、 まるで白昼夢でも見ているかのように虚ろで、何の表情も持たないその顔は真白な蝋人形のそれのよう。
 魂の失われたかのような親友の姿に、朝子は恐怖した。不安を吐き出すようにその名を呼ぶ。
「み、そら……?」
 はっと美空の頬に朱が戻った。その瞳が朝子のそれと絡み合い、駆け寄って触れようとした朝子の手を美空は自分でも知らない間にはたき落していた。
「美空?」
 そのとたん、乾いた音と共に肩を揺らした美空は、ぱっと皆に背を向けて走り出したのだった。朝子は痛みを訴える手を庇うことも忘れ、平良を見、悠輝を見 た。
「追いかけ、なくても……」
 いいのかな、という朝子の言葉を平良のそれが止める。
「大 丈夫だよ。きっと美空も複雑なんだよ。今まで悠輝の特別を知っていたのは美空だけ……俺も確かに途中から知ったけど、それは俺だけだったし、やっぱりその 特別は美空だけのものでもあったはずだ。美空だってこうなることを望んでただろうけど、やっぱりいろいろ思うところは……」
「違う!」
 鋭い声と、自分の隣で急に動いた何かに驚いた平良は、思わず言葉を止めた。悠輝だ。それはほんの一瞬の出来事。
「待てよ!」
 そしてその悠輝の腕を、夜宮が掴んでいた。
 それに衝動的に振り返った悠輝も、周りにいたクラスメイトたちも。夜宮の、悠輝の怒りに満ちた表情を見て凍り付いた。ただひとり、夜宮だけが動じていな かった。その激しい感情がそうさせたのだろう。そしてそれは収まることなく悠輝に向けられる。
「お 前は、お前らはいつもそうだ! 悠輝も、美空も、自分たちだけで解ってふたりで解決して、俺たちには何も話さねぇ! 本当のお前とかどうでもいいんだよ、 俺はな、お前らのそういうところが嫌なんだよ! 何だと思ってんだよ俺たちをっ、お前らにとって俺たちはどうでもいい存在なのかよ! 何も話せないような 存在かよっ!」
 ぴりりと空気が尖り、けれど誰もそれを居心地が悪いとは思わなかった。驚きに何もできない悠輝も、含めて。
「……確かにそうだね。さっき夜宮だって言ってたじゃないか。壁を作って、みんなを遠ざけてるのは悠輝、お前だよ」
 平良の言葉と共に、夜宮は掴んでいた悠輝の腕から手を離した。平良の口調は冷たく淡々としていて、ひどく怒っていることが見てとれる。それでも、誰も フォローをいれようとはしない。夜宮や平良の言葉は、それぞれが抱える胸の内を確かに表す言葉だった。
「……ごめん」
「謝ってほしいんじゃねぇよ! ……話せよ。違うって、どういうことだよ。美空は何で逃げていったんだよ」
 じわじわと襲ってきはじめた後悔やら何やらに負けぬよう、夜宮は悠輝を見据えた。自分の言いたいことを口にする。それは一見簡単なことのように思われる けれども、とても怖くて痛いことだった。それは、悠輝にとっては殊更そうだった。
「……逃げて……いや、そうかもしれない。でも、美空は……美空が一番、俺がみんなに自分を隠してることを、気にしてた。美空は……動揺してるんじゃな い。自分が許せなくて、そんな自分が嫌で、誰にも見られたくなかったんだ」
 けれど一度溢れだしたそれは、止まることなく、むしろ加速していくばかりだった。そういえば、平良に己の言う「本当の自分」が知られた時もそうだった、 と悠輝は頭の一部、妙に冷めたそこで思う。
「俺 とみんなのこと、本当によかったと思ってるはずなのに、みんなの中に入りたくても入れなくて、そんな自分が嫌で。でも多分、仕方がないとも思ったと思う。 美空は、変なところで自制をかけてしまう自分のことをよくわかってるから。それでもそんな自分が悲しくて、本当はよかったなんて思ってないんじゃないかと も思って……思いこんで、そんな自分が許せなかった。そこに朝子のことまで叩いちゃって、そんな自分が嫌で嫌で、……ここにいちゃいけないんだって……」
「もういいよっ!」
  悠輝の言葉の勢いが失われていくのを敏感に察しとった朝子が、叫んだ。もういい、ただ本当に、純粋に、もういいと。悠輝の言っていたそれは、驚くほどすん なりと皆の心に入っていった。誰も違うとは思わなかった。自分の中にあった天原美空という人物が、一番適当な言葉で表現されたように感じられた。そう、 皆、知っていた。よく知っていたけれど、わかっていなかった。
「……馬鹿だな、ほんと。一番、美空が一番いなきゃなんないのにな」
「ほんと」
 そういうクラスメイトの言葉に。得たとばかりに夜宮が笑う。
「行くか、みんなで。悠輝、どうせわかってんだろ、美空がいるところ。案内しろよ?」
 そして、夜宮の言葉に、皆が笑った。


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