美空は思い切り不機嫌ですと語っていた。その雰囲気で。こんなにも悠輝が美空に顔を合わせづらいと思ったのは初めてだった。
「今日のあんた、わけがわからないわ」
  ティーカップを片手にその部屋の中心に在る美空は、そこの真の主よりも断然堂々としていて、悠輝は溜息をついた。この幼馴染みといい、己が母親といい、こ んな夜更け……というほどは更けていないけれども、夜、一応年頃であるはずの少女が、例えそれが幼なじみであってもだ、男の部屋にいるのを何とも思わない のだろうか。いや、思っていたらこんなことにはなっていないけれど。
 これが信頼だとかいう理由なら、まだ救いようもあるのに。やはり自分は美空にとって「男」ではないのかと、落胆した。


そんな 僕らの裏事情



 とはいえ、なんだかんだで美空を部屋に招き入れた悠輝の方も、多少姑息な手段を持ってそこに上がり込んだ美空の方も、一体何から話していいのやら、さっ ぱりわからなかった。
「昼間の、ことだけど」
 悠輝がそう言うと、美空は小さく頷いた。
「ごめん。俺、美空に甘えようとしてた」
「……そう」
 美空は一言だけそう言うと、カップに口をつけた。あまりにもつれない美空の答えに、少々拍子抜けした悠輝はゆっくりと笑みを形作った。
「もう一度、みんなにちゃんと話そうと思う。これ以上重たい空気作るのは、さすがに嫌だからね」
 あの、悠輝が東京へ行くことを告げた日から、皆がそれぞれに余所余所しかった。全員が全員を避けているような空気。けれど誰ももう一度ちゃんと話そうと は言いださなかった。
  なんとなく卒業して、なんとなく別々になっていって、それでも時々会って、そうやって、ずっと一緒にいるということからは離れていっても、会えばまた今の ように仲良く話もできるんだと、おそらく全員が思っていた。それははっきりとそうだというわけではなかったけれど、直感的に、確信的に、思い込んでいたと いってもいい。高校に行く、別々の道を行く、ずっと同じ仲間と同じ時を過ごしてきた彼、彼女たちだったけれど、不安なんてものはなかったと思う。それは子 供の持つなんとかなるだろうという達観、楽観といったものと、何かがあっても最終的には頼りにできる人がいるのだという安心感からだっただろう。
 けれど、悠輝の東京行きの話は、皆が持っていたそれを崩した。
 こうして、突然に、誰かが、消える。自分が、別の世界へと、飛ばされる。
 もしかしたら、家族といるよりずっと長い時間を共にしているのかもしれない。クラスメイトであり、幼馴染みであり、家族でもあり、またそのどれでもな い。ただそこに、当たり前に在る存在。
 嫌 になったり嫌いになったりすることもある。少ない人数の中でも、一番仲のいい子が変わったなんてことは誰もが経験した。でも、そんな風に向ける感情が変 わっても、ただそこに当たり前にいる。そしてこれからも変わる可能性を十分に含んでいた。近くで、遠くで、実際に歩くそれは違っても、同じ未来への道を歩 んでいくのだと。たとえ何かが起こっても、最終的にたったひとりになることなんてない。
 はずだった。
 だけど、それはこの狭い世界の中でのこと。いつか、ひとりの世界に放り出される。ひとりで。解っていたけれど、つきつけられると、怖い。
「そうね、もう卒業だもの」
 もう誰かが号令をかけなければ全員が揃うなんてことはなくなってしまう。だから、その前に。
「ねぇ、美空……」
「もう少し、信じてあげてもいいと思うわ。だって、何年一緒にいたと思ってるの、私達」
 静かな時が流れた。
「小学校で別々になったらそのまま別々になるかもしれないけれど。中学まで一緒なら、これからずっと先だって会うわ、何度でも。そんなの、あんたが、みん なが、どこにいようが関係ない。大人になったら、私達、自由だもの」
 会おうと思う、それは自由意志。自分が会いたいなら、会いに行けばいい。向こうだって会いに来るだろう。
 だから大丈夫よ、とは美空は言わなかった。けれど、悠輝は微笑んだ。
「……朝子にね、言われたわ。私とあんたでも喧嘩するのねって。……よかった、って」
「よかった?」
「……そう。私があんたの絶対的な味方でも、あんたが私の絶対的な味方でもないってわかって嬉しい、んだそうよ」
 いつだってふたりは一緒だったし、ちょっとした揉め事は起していても、はっきりと喧嘩したことはなかった。何かあった時、悠輝はいつだって美空の味方を するし、美空も悠輝の味方をした。
  そんなふたりがうらやましい、あたしも平良君とそんな風になりたいって思ってたけど、絶対に無理なんだとも思ってた。それに、あたしに何かあっても、悠輝 君が大変だったら、美空は悠輝君の方に行くんだろうなって。それって、やだなあって。でも、違うのかなって、思って。ちゃんと喧嘩するんだなぁって、安心 した。あたしの入り込む隙も、少しはあるのかなって。……ごめんね、なんかわけわかんないけど。
「絶対的な味方、か」
「冗談じゃないわね」
「絶対的な戦友なら、ありうるけどね」
「意味分かんないわ、どうしてそうなるのよ」
 味方じゃない。助けるだけじゃない。そんなのでは、満足するような自分たちではないから。今はこう言っている美空にも、いつかその意味を理解してほしい と思う。これから先、どんなに離れても、どんなことがあっても、一緒に戦っていきたいのだと。そうやって生きていきたいのだと。例え恋人としては無理で も、とはとても思えなくなってしまっていたけれど。

「あら、あなた、おかえりなさい」
「あぁ……誰か来てるのか」
「えぇ、美空ちゃんがね。久しぶりでしょう」
 やわらかく笑う妻のその表情に、彼は少なからず安堵していた。
「……安心しちゃった。美空ちゃん、全然変わんないんだもの」
「そうか」
 本当の息子として育てた子を、返せという。押しつけるようにして置いていったくせに。これまで何の連絡もよこさなかったくせに。一体どれだけ振り回す気 なのか。
 実家を捨てるようにして嫁いできてくれた妻を、彼は大切にしていた。それでも実家のことで苦しんでいた彼女を救ったのは、きっと悠輝だっただろう。その 子の存在は、妻と実家を繋ぐ見えない糸だった。それが、こんな形で手繰り寄せられるなんて。
 悠輝は一度も頷かなかった。わかったとも行くとも言っていない。けれど、拒否もしなかった。何も言わないその裏で、行きたくない、だけど行かなくてはい けないんだろうと言われているみたいだった。我儘すら言えない息子。助けてやりたいのに、助けることのできない親。
  隣の娘の存在は、親子にとってとても大きかった。悠輝が美空の前では素直に自分を表現できることを、夫婦は知っていた。それが少し寂しいと思ったこともあ るけれど、優しい息子がそれに悩んでいることも知っていたので、何も言わなかった。できるだけ家族の時間を大切にしようとしてくれている、それだけで充分 だった。
 美空が変わらないでいてくれることは、悠輝が変わらないでいてくれるということ。これから先のことなんて、どうなるか少しも予想ができなくなってしまっ たけれど、きっと何とかなると思えた。それだけが夫婦の希望だった。
「おばさん、あ……おじさん、おかえりなさい。お邪魔してます」
 リビングのドアが開いて、美空と悠輝が入ってきた。悠輝がティーセットを持っているので、美空がもう帰るのかもしれない。
「あぁ。ちゃんと話すのは久しぶりだね、美空」
「そう? 母さん達がいつも何かしら話してるから、全然そんな気がしないけど」
 美空の何気ない一言に、夫婦はさらに安堵した。隣の家も、相変わらずらしい。きっとあちらはあちらでいろいろと動揺しているに違いないのに。
「美空ちゃん、もう帰るの?」
「こら、美空だって悠輝だって受験生なんだぞ」
「そうよねー。今、大変な時だもんね。また来てね、美空ちゃん」
「えぇ、暇があったらね。紅茶ありがと」
「どういたしまして」
 息子が渡してきたティーセットを受取りながら、母は微笑む。
「美空、送ってく」
「ちょっと、隣よ、隣。十歩も歩かないわよ」
「十歩は歩くよ」
 そう言いながらもうふたりは玄関へと向かっている。本当に送っていく気らしい。尤も、小さい頃は美空が女の子を家に送り届けるのは当たり前だとかなんと か主張していたのだが。やはりこの年頃にまでなると変わるらしい。
「うっさいわね、物の例えでしょ。あんたそういうとこ平良に影響されてんじゃないの」
「美空にじゃないの」
「あんた私が性格悪いって言いたいの?」
 そのうち美空のお邪魔しましたという声がした。
「あの子、やっぱり美空ちゃんのこと好きなのかしらね」
「……俺にどう返事してほしいんだ」
「……美空ちゃんがお嫁に来てくれるの、楽しみにしてたのにな」
 寂しそうに言った妻に、けれど夫は何もしてやれなかった。


 back top next