ふたつの机をくっつけて、向かい合ったふたりはけれど視線をあわせてはいなかった。互いに俯いたまま問題集に向かっている。教室にはもうふたりしかいな い。鞄だけは四人分残っているけれど。
「ねぇ、美空、悠輝君と喧嘩した?」
 けれど、待てど暮らせど美空からの返事はなかった。それは肯定の意味の否定の言葉より、ずっと重かった。だって前者は美空の常套手段なのだから。


そんな 僕らの裏事情



 朝子や平良と別れて、ふたりきりで薄暗い道を歩く。ふたりは何も話そうとしなかった。会話のきっかけも内容も、見つけることができないまま、家の明かり がふたりを出迎えた。
「……じゃあ、ね」
 悠輝を見ないままそう言って門に手をかけた美空の腕を、悠輝は自覚もなしに掴んでいた。随分と久しぶりに彼女に触れた気がする。頭のどこかの冷静な部分 がそう告げて、悠輝は動揺してその手を放してしまった。
「何、よ」
 動揺し、戸惑っていた美空の表情が、だんだん訝しむようなそれに代わっていく。
「悠輝?」
 家から洩れる光が、それに背を向けている美空の顔に影をもたらしているはずなのに、悠輝、と自分の名を呼ぶ美空の唇の動きが、悠輝には随分とはっきり、 そしてスローモーションのようにゆっくりと見えた。ぐらっと一瞬視界が揺れた。
「ちょっと、どうしたの?」
 再び聞こえた美空の声に、悠輝ははっと我に返った。
「なんでも、ない。ごめん、おやすみ」
 悠輝はそう早口に美空に告げると、素早い動きで彼女に背を向けた。これでは逃げているも同じこと。それに、話さなくてはいけないことがある、できるだけ 早いうちに。わかっていたけれど、どうにもこうにも無理そうだった。
「ちょっ、何よ、何なのっ?」
 確実に届いているはずの美空の声は、そのまま星の輝きはじめた空に消えた。
 ひとり取り残された美空はしばらくそのまま悠輝の消えていった隣の家のドアを見つめていたが、やがて不機嫌そうな顔で悠輝の部屋の方を睨みつけた。

 あらおかえり、と母親の声がする。けれど悠輝の耳にはほとんど届いていなかった。悠輝はそのまま二階の自分の部屋へと駆け上がり、勢いよくドアを開け た。そしてその勢いのままそれを閉めると、背中の方からバタンと音がしてやっと、少しだけ落ち付いたのだった。
  悠輝、と自分の名を呼ぶ美空の声。それを紡ぐ唇。まるであらゆる傑出した技巧を結集して作られた崇高なる美術作品か、それとも異なる世界に住まう人間にあ らざる存在か。なんにせよ、そう、愚かしく穢れた人間には触れることが許されていないもの。よく見なれているはずの美空が、悠輝にはそんな風に見えた。
 けれど人間は、許されざるものにこそ惹かれるもの。悠輝の手はそのぬくもりを求めようとした。両の腕にそれを閉じ込め……何度もあの声に名を呼ばせるの もいい、だけどそれより、触れたいと思った。その、唇に。できれば自分の唇で。
 ぱっと悠輝の頭に先程の自分の名を呼ぶ美空の顔がフラッシュバックした。ずるずるとドア伝いに座り込む。顔に手をやると、偶然にも手のひらに当たった頬 が熱くなっているのを感じて、慌てて離した。
「何、やってるんだよ……」
  ずっと好き、だったけれど。キスしたい、なんて。考えなかったわけじゃないけれど、考えないようにはしていたのに。だって美空は決して自分のものではない し、これから先だってならない可能性の方が高いわけだから、せめていつまでも幼馴染みという関係を円満に続けていくためにも、そんな美空を汚すようなこと などは、悠輝は絶対にしたくないと思っていた。思っていた、のに。
 挙動不審な自分を美空は変に思っただろう。探りを入れられたらどんな反応を返 せばいいのか。いや、入れられないかもしれないけれど、変なところで変に鋭い美空だから、もしかしたら。第一、こんな場合ではないのに。そんなことより今 は美空とのあの微妙な、居心地の悪い空気を何とかすべきであって、そんな時に、そう、寄りにも寄ってどうしてこんな時に美空に見惚れるのだろう。
 いろいろなことがぐるぐると悠輝の頭の中を駆け巡り、混乱が混乱を呼ぶ。悠輝は大きく溜息をついた。

「えぇー、でも美空ちゃん、頭いいじゃない、大丈夫よ」
「まぁ、吹奏楽、ちゃんと続けたいし、がんばるけど。どうなるかなんて分かんないわ」
「大丈夫よぉ、昔から美空ちゃんってしっかりしてるし頑張り屋さんだし。でもそう思うと不思議よね、一体誰に似たのかしら」
 リビングには紅茶の良い香りがふうわりと漂っていた。テレビからは楽しげな話し声やら笑い声やらがしていたけれど、ふたりの女には少しも影響を与えてい ない様子だ。
「……それは私のセリフよ」
「でも、美空ちゃんがもう高校生だなんて、なんか信じられないな。昔はほんっと小さくて、体も弱かったし、いつも心配してたのよ」
「そんなの私のせいじゃないわ」
 その時、二階から誰かが降りてくる足音がした。けれどふたりには聞こえているのかいないのか、少しの変化も見られない。
「そうね、仕方ないって言ったら仕方ないもんね。でも元気に育ってくれてよかったわ」
「……ありがと」
「もーっ、かわいいなぁっ」
 足音はリビングの前で止まり、そのままそのドアを開けた。
「客? ……っ、美空?」
「あれ? 悠輝、どうしたの? めずらしいわねぇ、下に降りてくるなんて」
 動揺する息子をよそに、母親と幼馴染みは平然としている。
「おばさん、おかわりもらっていい?」
「いいわよー、この紅茶美味しいでしょう、本場ものよー? あ、悠輝もいる?」
「……いい」
  確かに、美空がいつの間にか家にいて母親と紅茶なりお茶なりコーヒーなりを飲んでいるなんて光景は過去に何度も見られたものだったけれど、ここ数年は美空 が部活で忙しかったためにほとんどありえないこととなっていた。それも、よりによっての今日だなんて、これはもう、わざとに違いないと悠輝は確信した。
「あぁ、そういえば」
 不意に美空がそう呟いてカップをテーブルに戻した。
「私、悠輝に話があるんだったわ。ティーセット、借りていってもいい?」
「もちろん、好きにしちゃって」
 こうして悠輝は美空に追いつめられてしまったのだった。


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