おかしい、と思ったのはどちらが先か、 それとも同時か。
 朝子はちらりと平良を見た。けれど平良は、じっと美空を見つめたままだった。
「ね、ふたり、どうしたの?」
「……さぁ……」
 どうやら、あのあと何かあったらしい。けれどそれは、まだ朝子に言う必要はない。きっと彼女は、余計なところにまで首を突っ込んでいくだろうから。


そんな 僕らの裏事情



 少し気まずい。本当は自然の流れに任せていたかった。それでもなんとかなる関係だとわかっていたから。
「悠輝」
 けれどそんなわけにもいかなさそうだ。全く、世話の焼けるふたり。それでも、平良は少し安堵していた。ふたりには悪いと思うけれど、これは平良が悠輝に話 しかけるいいきっかけになる。もちろん曖昧なままにして終わることもできる。けれど、曖昧さは結局何の答えも出さないことはわかっていた。
「体育館、行こう」
 ぴくりとも動かないその表情の中に、平良は悠輝の戸惑いやら安堵やら、たくさんのものを見た気がした。
  たとえば美空のように、音楽室を多くの自分が在ったどこか神聖な場所としてその場所を想っているわけではない。平良も悠輝も、それなりの誇りや責任感を 持って部活に励んではいたものの、そこまで執着心は持っていなかったし、どちらかといえば他に入る部活がなかったからこそのバスケ部だった。それでもやは り、ふたりにとって体育館は少しだけ特別な場所だった。
 放課後の体育館は、もちろんバスケ部の練習が行われていて、騒がしいとは違った意味でうるさかった。都合の良いことに、コーチはまだ来ていなかった。
「ちょっと交じらせてもらうよ」
 前部長である平良の声に、後輩たちは戸惑いながらもふたりを受け入れた。
「直接対決、といこうか、悠輝」
 ボールを手にした平良は、挑発的に悠輝を見た。応えはなかったけれど、部活を引退する前にはよく見ていた闘争心に溢れた悠輝の瞳の奥の光に、平良は満足 げに笑ったのだった。

「完全に体力が落ちてる」
 平良は楽しそうに笑いながら言った。体育館の外、火照った体には冷たい冬の空気さえ心地よく感じる。
  はじめは隅の方、互いだけでプレイしていたふたりだったが、なぜかいつしか部員たちが交じり、平良のチームと悠輝のチームといったふうに完全に二つに分か れて場所もコートへと移ってしまっていた。尤も、得点は途中からしかとっていないのでどちらが勝ったのかはわからないままなのだけれど。
 荷物を置き去りにしたままの教室へと戻りながら、平良はぽつりと言った。
「……悪かったな」
「いや。俺の方こそ、ごめん」
 平良は驚いたように悠輝を見た。それは、彼からの謝罪に対してのそれではなかった。
「お前、一人称俺だっけ」
「……いや……」
 一方、指摘された悠輝の方も戸惑っている。元々一人称なんてものは本来自分では対して気に留めるようなものではない。それは平良も分かっていたので、早 々に悠輝からの返答を期待することをやめた。
「お前が俺って言うと、なんか違和感があるんだけどな」
 平良が知っている悠輝の一人称は僕、だった。俺と僕の違いは大きい。一人称を変えたらわかるだろう。それこそ、今のように。からかいを含んだ声で悠輝に そういいながら、平良は少し、思うところがあった。
「俺、には、ない」
 言いにくそうに俺といった悠輝に、平良が小さく笑う。そしてしばらくして、そうか、と言った。もう、少しの燻りもない、澄み切った声だった。
「お前にとって、それだけどっちも、自然なことなんだな」
 それが自身の二つの性格に関してのことだとは、悠輝もすぐにわかった。けれど、なんと答えていいかわからず、黙りこんだまま歩き続ける。悠輝がそんな様 子であっても、平良は全く気に留めていないようだった。
「もしかしたら、どっちが本当もないのかもな」
 平良はそっと、美空の言っていたことを思い出す。誰かが離れていくのが怖い、だから心を開けない。そのために作られた悠輝のもう一つの性格。いや、人格 といってもいいかもしれない。ずっと美空ひとりが知っていた本当の悠輝。それを平良も知るようになって。
「怒ってたと思ってたけど、心配してたのかもね」
  怪訝そうにする悠輝に平良は機嫌よく笑った。誰が言ってやるものか、と思う。知りたいなら自分で気付けばいい。美空に対するのとは違う。悠輝は平良の思い には気づけないだろう。無理だとはわかっているのにそうやって平良は無茶なことを思う。けれど、言ってしまってはつまらないではないか。皆に何も言わない 悠輝をもどかしく思い、怒っていたのではなくて、何も言えない彼を案じていたのだなんて。言ってやるほど平良は優しくはない。
 教室のドアを開けると、音に気付いたのだろう、パッと顔を上げた朝子と視線が合った。
「まだ残ってたんだ」
「だって、ふたりが帰ってこなかったんだもんっ」
 朝子と会話しながら、平良は朝子の前で黙々と教科書か問題集かに向かう美空を見ていた。何も気にしていないようなふりをして、きっと誰よりふたりのこと を案じていたであろう美空に、平良は心の中で笑みを向ける。
「平良君?」
 何かを感じ取ったらしい朝子が不思議そうに首を傾げるのに、平良は優しい笑みと共に意識を彼女の方に戻した。
「うん、俺もなかなか、捨てたもんじゃないと思って」
  悠輝の味方になってやれるのは美空だけではない。きっとそれに彼女はまだまだ戸惑いも不安も感じるのだろう。それは平良に幾ばくかの優越感をもたらした。 美空は悠輝の幼馴染み。クラスの、同年代の誰より悠輝を知っている。だけど幼馴染みは幼馴染みで、親友ではない。その地位にいられるのは今のところ、自分 だけ。必要だと思っていた美空の助けは要らなかった。それが平良に自信を持たせていた。
「え、何が?」
「うーん、朝子には秘密」
「えーっ、何それ、ずるいっ」
 平良は平良で、悠輝とのわだかまりを消した。何も考えなくていい、何の気兼ねもいらない朝子との会話を続けながら、頭の隅で平良は思った。次は君の番だ よ、と。


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