美空は濡れた髪をタオルで拭きながら、机の上のその紙に気付いた。
「忘れてた・・・・・・」
 美空は思い切り顔をしかめた。普通の人間であれば、きっと忘れないだろう。けれど、そこは行事なんてものには無関心の天原美空である。
「何が?」
「―――……勝手に入ってくるんじゃないわよこのへんた―――いっ!!」
 ひょこりと上から見下ろされて美空は叫んだ。近所迷惑顧みず。というより、ご近所さんといえるご近所さんは悠輝の家、つまり大鳥家しかないのだが。
「失礼だなぁ・・・」
 だが、悠輝は全く気にせず窓枠から部屋の中へと入ったのだった。


そんな僕らの裏事情



 悠輝はいつものごとく美空のベッドの上に座ってこちらを見ている。
「美空、せめて髪くらい乾かしたら?」
「いーのよ」
 美空は悠輝に背を向けたまま机の上のプリント類をかき集めていた。
「俺はどっちでもいいんだけど。色っぽいし」
 ノートが、飛んだ。
「危ないなぁ」
 落ちた音がしなかったから、おそらく悠輝がキャッチしたのだろう。そちらを見もせずうまく目的地に投げられるあたり、自分をほめてやりたくなる。
「どうせよけるんでしょ」
 言いながら作業を続ける。美空は振り向きさえしない。
「怪我したら大変だしね」
 悠輝はそんな彼女を見て微笑んだ。
 彼女はいつもそう。心配しているのにしていないフリをして、優しいくせに不器用で。そんな彼女だから、いつも見ていたいのかもしれない。きっと、彼女は 気付いていないだろうけれど。
「ちょっと、アンタは用意しなくていいの?」
「終わってるから来たんだよ?まさか、美空がまだ終わってないとは思わなかったし」
 何か言い返したい、が、うまい言葉が見つからないので感情のままに任せてみる。
「うるさいわねっ。忙しかったのよっ」
「手伝おうか」
 悠輝の声が、明らかに笑っている。何も言ってこなかったら手伝えと言ったかもしれないが、そんな言い方をされては絶対に手伝わせたくなくなる。
「いい」
 速攻で返された。悠輝はただ微笑む。その、あまりに予想と違わない応えに。
「・・・・・・美空、コレは?」
 悠輝が籠の中に入っていたタオルを手に呼びかけた。美空は何のためらいもなく振り向く。悠輝の持つそれに目を留める。
「え・・・? って、私入れなかったっけ・・・」
 慌ててかばんの中を探るが、それはなくて。
「―――投げて」
 綺麗にたたまれたそれは、そんなことをすれば確実にたたまなければならない事になるが、そのちょっとだけの距離を動くのが、非常に面倒だ。
「取りに来て?」
 ムッとした美空はツカツカと彼に歩み寄る。満面の笑みの悠輝が憎たらしくて仕方がない。が、こんなちっぽけな事で争う気にもなれない。だから、素直に ―――とはいえないかもしれないがかなり譲歩して取りに行ってやったのに、だ。
「ってちょ―――っ」
 悠輝は奪い取ろうとした美空の手からタオルを遠ざけた。
「何」
「さぁ」
 楽しそうな瞳。全く意地が悪い。逆の立場なら同じことをしたであろうに、美空はそれを考えもせず、苛立ちを見せる。怒ったほうが負けと、知ってはいるけ れど。
「遊ばないでくれる?」
「遊んでないよ」
「遊んでるでしょ、思い切り」
 そんな会話をしながら、美空はタオルを取り返そうとし、悠輝は渡そうとしない。
「悠輝―――ひゃっ」
 ずる、とカーペットの上で滑って。慌てて“何か”をつかみ・・・。
「痛・・・・・・」
 そのままベッドの上に倒れこんだ。
「大丈夫、美空?」
 それは、悠輝の腕だった。
「―――…っ」
 かなり近くに悠輝の顔がある。美空は慌てて立ち上がった。その顔は真っ赤。
「今更・・・」
 悠輝がそう苦笑する。
「―――タオル」
「はい」
『美空ーっ上がるわよー』
 階段の下から、美空の母親の声がする。
「あ・・・じゃあ、俺帰るよ」
「―――そう」
 なんだか、気まずい。
「じゃあ、おやすみ、美空」
「おやすみ」

 悠輝はいつもより早めに消灯された美空の部屋を見た。
「わかってるの?わかってないの?」
 自分の家のベランダを乗り越えて、すぐそこの窓を開ければ、美空がいる。そのベランダから、悠輝は今は姿の見えない美空を想った。
「君は―――」
 ふっと自嘲の笑みを漏らした。まだ眠る気にはならない。
『―――…っ』
 驚くほど真っ赤になっていた。全く予想外だ。
「君にとっての俺は、何なんだろう」
 手を伸ばせば窓が開けられて、簡単に中に入ることができるのに。美空は自分がこの窓から入ってくることを知っていて、鍵をかけたことがない。だからこ そ、入ることができない。
「遠いね、君は―――」
 だんだん、冷えてきたかもしれない。
「おやすみ、美空」
 星がきらきら輝いた。
 明日は、修学旅行。



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