美空は一瞬、声をかけるのをためらって しまった。その校庭を見下ろすその背中が、なんだか悲しげに見えたから。だがすぐにそんなもの消え去ってしまう。
 今更、遠慮なんてない。それはそうだ。一体何年の付き合いだというのか。どんな強引さでも、それがふたりの仲を引き裂くことなど出来得ることではない。
「馬鹿じゃないの」
 けれど何より、そんな躊躇をほんの一瞬でも抱いた自分が、なぜかいつもと違うものに見えて。それがなぜかいつものふたりを違うものに変えようとしている ものであるかのように感じて。
 美空は思わず悪態をついていた。


そんな 僕らの裏事情



 悠輝が肩を揺らした。
「……み、そら……」
 振り向いた悠輝と美空の視線が痛いほどに絡み合う。
 美空は何も言えなかった。悠輝がこんな反応を返してきたのは、はじめてだったからだ。いつだって、彼は美空のことを分かっているようで、それが美空には たまらなく悔しかったというのに。
 何も言えないまま、美空はそこに立ちつくしていた。悠輝も動かない。美空のことをじっと見つめたまま、そらすことはないけれど、近づいてくることも、な い。
「何、よ」
 悠輝は答えない。
 苛立つ。わけがわからないことだけが、美空にはよくわかっていた。
 いつだって。
 そう、いつだって、悠輝は美空を見て微笑んでいたのに。たとえそれが表に表れておらずとも、美空にはそのくらいわかっていた。怒っているときも、心配し ているときも、美空にはそれがそうであるとわかっていたのに。
 今は何も、わからない。
 急に悠輝が知らない人のように思えた。何を考えているのかわからない。以前は、そんなことがあっても美空はただ苛立つだけだった。だが今は違う。それ が、怖くて怖くて仕方がない。なにかもう、取り返しのつかないことになるような、そんな気分がして、焦る。
「美空……」
 悠輝の表情がさっと崩れ、美空ははっとした。糸が切れたように、それはいつものふたりだった。
「だから、何よ?」
 もう、何を言っても大丈夫だ。何も恐れることはない。硬く張りつめていた緊張が、ゆるりとほどけていく。
「俺は、間違ってるかな」
「私の答えは必要なの?」
 美空は肩をすくめながら悠輝の隣に立った。悠輝はずっと黙っていた。
 悠輝は苦笑して、そうだね、と答える。
 はず、だった。
「必要なんだ」
 空気が張った。美空は、自分の横顔に突き刺さる、真剣すぎるまなざしを感じた。
「必要なんだ、美空」
 それは、美空から、声も思考回路もとっさの反応も、全て、全て奪ってしまった。
「俺は、間違ってる? あいつらに何も言わない俺は、ただ臆病なだけなのかな」
 背筋が、ぞっとした。この声は誰のもので、それを受け取っているのは、誰なのか。一秒、二秒、時が経つにつれて、思考回路は固く停止していく。
「美空に答えを求める俺は、卑怯だと思う?」
 さらに追い打ちをかけられる。
 こんなはずではなかった。美空は悠輝を元気づけに来たのであって、こんな風に感情を爆発させるために来たのではない。今頃ふたりはもっと明るい気持ちに なっているはずであって、こんな風に互いを困らせているはずはない。
 冷静に。冷静にならなければ。
 答えを求められないことに焦れていたのではなかったのか。こんな日を、待っていたのではなかったのか。
 美空は必死に頭を動かす。
 けれど。
「……答えてくれないんだね」
 その言葉に、美空の中の何かが、崩れた。
「いい加減にしてよ!」
 美空はキッと悠輝をにらみつけていた。もう、止まらない。止まれない。
「あんたは私に、考える時間も、整理する時間も、あんたのこと……あんたのこと、わかろうとする時間すら、くれないのっ?」
 違う、こんなことを言いたいのではない。美空はそう、ただ、いつもの悠輝でいてほしいだけ。
「あんたは私がすぐにでも、あんたが望むような答えあげられるんだとでも思ってるの? 私が何も考えてないとでも思ってんのっ?」
 悠輝の眉がひそめられた。
「わかるはずないじゃない、あんたが自分でもわからないことが、私にわかるって、あんた本当にそう思ってんの? ねぇ、答えなさいよっ!」
「美空こそ」
 悠輝の声が、冷たく響いた。
 美空ははっと息をのんだ。荒波は収まったけれど、そのあとの損害はひどい。
「……ゆう、き……」
 悠輝は何も答えない。
 美空もなんと言えばいいかわからなかった。謝らなければならないとわかっているのに、妙なプライドがそれを許さない。謝罪も言い訳もできない美空は、た だ立ち尽くすしかない。
 悠輝はそのまま、ゆっくりと屋上を出て行った。
 ばたんと、建てつけの悪いドアの閉まる音だけが、ぽっかり空いた美空の頭に響く。それは確かに美空を現実に引き戻しはしたけれど。
 それでも、美空は追いかけることもできない。追いかけても、どうしていいかわからない。
 わかっている。謝ればいいだけ。そして、一緒に答えを探せばいい。けれど、美空の足は動かない。
「……っ」
 悔しくて、悔しくて、何とかしたいのに、ぐちゃぐちゃなままの頭では、何一ついい考えなど浮かばない。
 こんなにひどい喧嘩をしたのは、どのくらいぶりだろう。もしかしたら、初めてなのかもしれない。
 いつも、譲歩してくれたのは悠輝の方。けれど、今回はそうはいかないとわかっていた。なのに、それでも、美空は何一つできない。そんな自分も嫌で嫌で仕 方がないのに、それでも。
 美空の足も、口も、本人の命令を聞こうとしない。否、美空の持つもう一つの命令にしたがっていた。
 謝りたくない。謝るなんて、格好悪い。
 違う、謝れないほうがずっと格好悪いのに。
 二つの想いは美空の心を引き裂き、たった一歩でさえも踏み出すことをためらわせていた。
「どうしよう……」
 ぽつりと呟いた自分の声が、やけに小さなものに聞こえて、それは美空をさらに追い詰める。
 このままここで待っていようか。そうしたら悠輝は戻ってきてくれるだろうか。いつものように、ごめんと笑って、美空の声にならない謝罪を聞いてくれるだ ろうか。
 きっと無理だ。
 自分から動かなければ。悪いことをしたのは自分のほう。いつもいつも、謝らせるしかできない自分なんて嫌いなのに。それでもまだ、同じように逃げるの か。
 けれど、怯えた美空の心は動かない。
 時間が経てば経つほど、更に固く口を閉ざしてしまう。
 どこか遠くでチャイムの音が鳴った。そうだ、昼休みももう終わり。
 美空は、悠輝のことを頭の隅に無理やり追いやって、考えないようにすることに意識を集中させて屋上を飛び出した。



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