昼休み。寒いからという理由で、教室を
出て行く者はほとんどいない。
「美空ぁ、また図書室?」
「そのつもり」
けれど美空は本を抱えて席を立った。
そんな
僕らの裏事情
美空はため息をついた。この学校の図書室に置かれている本はほとんど読み
つくしてしまった。
「あれ? 美空先輩」
「由宇夏。珍しいわね、あんた図書室なんて来るの?」
由宇夏は痛いところをつかれたとばかりに苦笑している。
「来ますよぅ、たまに」
「それにしては見かけないけれど」
美空は二日に一度といっていいほど頻繁に図書室を訪れている。今日も一冊借りて帰るところだった。
「たまに、ですもん。でも、美空先輩、めずらしいですよね、ひとりって」
由宇夏が不思議がるのも無理はない。美空は大抵悠輝か朝子と一緒にいるのだから。
「朝子は寒いから教室から出たがらないし、悠輝は……」
そういえば、出てくる時にはすでにいなかった気がする。平良もだ。ということは、ふたりは一緒にいる可能性が高い。
ではどこにいるのだろう。今まではバスケ部の練習に行っている可能性が高かったが、今はもう引退している。練習を見に行くとしても昼より放課後を選ぶは
ず。ならば一番いる確率が高いのは屋上だろう。
「美空せんぱーい。大丈夫ですか?」
由宇夏の声に我に帰る。すっかり存在を忘れてしまっていた。
「……大丈夫よ」
「そうですか?」
心配そうな顔をしている。おそらく由宇夏も悠輝の件を聞いたのだろう。規模の小さい学校だから、噂はすぐに広まってしまう。
「えぇ。じゃあ私、行くわね」
「あ、はい」
笑えるような気分ではなかったが、やはり後輩に会えたことは嬉しいので僅かに微笑む。由宇夏は心なしかほっとした表情でうなづいた。
美空は屋上のドアを開けるのをためらった。きっと二人だけで話がしたいからわざわざ屋上まで来たのだろう。なのに割り込んでいってしまってもいいものな
のか、美空にはわからなかったのだ。
「で、いつまでそうやって黙ってるつもり?」
耳を澄ませば、悠輝の声が聞こえてきた。やはり、今すぐ立ち去るべきだろうか。けれど好奇心が邪魔をする。
「言いたいことあるんだろ」
「……あるよ」
美空は息を詰めた。だめだ、やはり聞くわけにはいかない。引き返そうとしたときだった。
「何で言わなかったの?」
平良の言葉が、美空をひきつけた。美空は顔をゆがめる。何度味わっても慣れることのない、この眩暈を起こすほどの緊張。
平良の言いたいことの予想は大抵つく。そして、それは美空が悠輝の話を聞いてからずっと頭に在り続けていたものにも関係のあること。
「一緒に言ってしまえばよかったじゃないか。本当はこんな性格じゃないんだって」
美空はゆっくりと息を吐き出した。緊張は解けない。けれどだんだん怒りにかき消されていこうとしている。
「一番のチャンスだったと思うよ」
平良の言葉に悠輝は答えていない。それとも、美空に聞こえていないだけなのだろうか。だが、それを考えるほどの余裕は美空にはなかった。
「いつまで隠してるつもりだよ? いつか言うんだろう、それはいつだろうって、俺はずっと思い続けてた。けど、俺が知ってからでさえ、どれだけ経ったかわ
かってる?」
いつも穏やかな平良の、苛立った声だった。
「卒業なんてすぐそこだよ、すぐに俺たちはみんなバラバラになるんだ。まして、お前は東京に行くんだろ? このまま一生、みんなに何も言わないつもりじゃ
ないだろっ!」
今すぐにでもドアを開けてふたりの前に姿を現したい。美空はそんな衝動を堪えるので精一杯だった。
出ていってもいいはずだった。けれどどうしてかそれをしてはいけない気がして、自分でも理由がわからないのに美空はただひとりで耐えていた。
「悠輝だってわかってるんだろ、このままじゃ後悔するって。なのにどうして言わないんだよ?」
悠輝の声は聞こえない。
「悠輝っ」
美空は借りた本をきつく抱きしめた。
「……ちゃんと、考えときなよ」
はっとした。きっと平良はこちらへ向かってくるだろう。そうわかっても、美空は今更踵を返すつもりはなかった。
荒々しいドアの閉まる音と、深いため息。
美空はじっと平良を見つめた。
「……美空」
視線に気付いたのか、平良が美空を見た。いつからいたのか、どこまで聞いていたのかと視線が探ってくる。
「言わないんじゃないわ」
美空がぽつりと言った。平良が目に見えて怪訝そうな表情になる。対して美空は無表情のまま少しも表情をゆるがせることはない。
「言えないのよ……」
「どういうこと? それに聞いてたんだね。人が悪いよ」
いらいらしているのはお互い様のようだった。平良の言葉にもとげがある。
「今までね……私のせいだと思ってたの」
「人の話、聞いてる?」
平良の深いため息。けれどそれに応えてやるほど美空は優しくはなかった。
「私が全然笑おうとしないあいつに、笑ってるほうがいいって言ったから、あいつ、私の前でだけ笑うようになっちゃったんじゃないかって」
深くは考えないようにしていたことだった。事実だったとしたら、美空にはとても重過ぎて背負えないようなことだったからだ。けれど。
「でも、多分違うんだわ。あいつ、あいつ……怖いのよ」
平良はいつの間にか真剣に美空の話を聞いていた。
「誰かに心を開くのが。心を開いた誰かに裏切られるのが。引き離されるのが、怖いのよ」
確証はないけれど、なぜか美空はそうだと確信していた。
「だって、いくら幼くたってわかるものでしょう? 親や兄弟と引き離されて、知らない人ばっかりのところに住むことになったことくらい。本人が忘れてたっ
て、意識のどこかにはあるものだと思う」
だから心を閉ざしたのではないか。美空はそう言っているのだった。
また誰かと引き離されることになった時、自分が傷つくことがないように。家族と別れる寂しさをもう二度と経験しないために。大切な人を作らなければ、失
う悲しさだってないはずだ。
けれど人間は誰しも、誰にも心を開かずに生きていけるほど強くはない。誰かにすがらずに生きていけるほど強くはない。その誰かが、美空だったのではない
か。
「悠輝が、そう言ったの?」
「まさか」
平良が自嘲気味に笑った。
「そうだろうね」
美空と平良はどこか似ている。だからこそ、それ以上互いに近づけない。それは脅威だからだ。だが、逆に言わずとも通じるところも多い。
「……後のことは頼んだよ。あ、でも昼休みもうすぐ終わるから気をつけて」
「わかってるわよそんなこと」
平良は美空の横を通り抜けた。
「……ごめん。どうかしてた」
平良ならば、冷静に考えればわかりそうなものだった。けれど美空は、おそらく悠輝もそれを責めたりはしないだろう。そんなに薄っぺらな関係ではない。
「私に言われたって、困るわ」
互いに背を向けているから、その表情は見えないけれど。大抵の予想はつく。
「そうだね。じゃあ、風邪ひかないようにね」
「ったく、あんたはいつも一言多いのよ」
美空はため息をついた。すでに手はドアノブにかかっている。
「心配してるのになぁ」
「うるさいわねぇ、さっさと行きなさいよ」
「はいはい」
平良の階段をおりる足音が聞こえなくなった頃、美空は屋上の扉を開けた。
もしかしたら、悠輝ではない誰かにこの数日考えていたこの話を、誰かにしたかっただけなのではないかと思いながら。