待っているだけ、それがどんなにつらい ことなのか、美空は初めて思い知らされていた。
 小会議室の中で、一体どんなことが話されているのだろう。予想はつくけれど、完全に知ることは出来ない。
「……あ、天原、さん」
 小会議室から未来が出てきた。


そんな 僕らの裏事情



 教室への階段を上っている間、悠輝も美空も何も話しはしなかった。
 静かではあるけれど、明かりのついた三年の教室。美空はそのドアに手をかけることは出来なかった。
「……行こうか」
「悠輝……」
 今、この扉の向こうで、クラスメイトたちは何を思っているだろう。もう十年近くも付き合ってきた仲間たち。
「大丈夫なの?」
 悠輝は言葉では答えず、ただ笑った。
 ゆっくりとドアをスライドさせる。中にいた全員の視線が、ふたりに突き刺さる。
「……おかえり」
 平良がほほえんだ。
 悠輝も美空も、入り口のところから動けなかった。朝子が心配そうにふたりをみている。
「悠輝……行きなさいよ」
「……あぁ」
 促す美空の声は、少し震えていた。
 今更、あの輪の中に入ることは出来ない。美空は全てを知っているのだから。けれどこの場からいなくなるわけにはいかない。だから、冷たいドアに背を預け た。朝子がちらりとこちらを見てきたが、すぐに視線は悠輝に移った。
「卒業したら、東京に行くことになったんだ」
 静かな教室内にぽつりと呟かれた言葉。それは一気にざわめきをもたらした。
「東京っ?」
「それって東京の高校行くってことだよな?」
「どういうこと、引っ越すの?」
 そんなに一度に話しかけられても答えられるはずはない。美空は口を挟もうとしたが、それより先に平良の声がした。
「みんな、落ち着いて。ちゃんと話聞きなよ」
 けれど、この場にいるのは所詮は中学生、その言葉を理解こそすれ納得できるほど大人ではない。非難は平良のほうに向けられようとしていた。
「そうだけど!」
「平良は納得できんのかよ!」
「全部話してくれるよ。そうだろ、悠輝」
 悠輝は頷くが、それでも教室は静まらない。
「いい加減にしなさいよ! あんたたちがそうやって騒いでたら、悠輝だって話せるものも話せないでしょう!」
 美空が叫ぶ。一瞬の静寂。
「美空がそんな風に言うのは、美空が全部知ってるからでしょ……」
 それを破ったのは朝子だった。静かに張り詰めた声。美空は言葉に詰まる。眩暈がするほどに頭の中が煮えたぎっていた。
「私だって……っ!」
 それを聞いたときどんな思いだったか。それが彼女に、ここにいるクラスメイトたちに理解できるだろうか。そんなこと、できるはずがないではないか。
「引っ越すわけじゃない」
 けれどそれを口に出してしまう前に、悠輝の声に我に帰った。
 本当に、どうかしている。落ち着かなければ。美空はしっかりしていなければならなかった。悠輝を支えるために。思い込んでいるといってもいいほどに強 く、美空はそう思っていた。
 悠輝の言葉の意味が理解できなかったのだろう。今度は誰も何も言わなかった。
「僕は」
 悠輝がちらりと美空を見る。それに動揺して、美空は何も出来なかった。何が出来るだろうかと、それを考えることすら出来なかった。
「僕の本当の両親のところに行かなければいけないんだ」
 美空は耳を塞ぎたくなった。どうしてこんなにつらいことを、悠輝は何度も口にしなければならないのだろう。どうしてこんなにつらいことを、美空は何度も 本人の口からきかなければならないのだろう。
「本当の、って……」
 平良の真剣な声。
「今の両親は、僕を育ててくれた親なんだ」
「悠輝君……それ、知ってたの?」
 朝子の言葉に、悠輝はただ首を横に振る。
「どうしても、行かなきゃなんないのかよっ」
 夜宮が声を荒げた。
「今まで、お前のこと放っておいた親だろっ! 悠輝の親は、今の親じゃねぇのかよ!」
「夜宮」
 平良が静かに咎める。けれど夜宮は止まらない。
「平良、少し黙っとけよ。俺たちはな、お前みたいに物分りよくねぇんだ。大人じゃねぇんだよ!」
 勢いのままに立ち上がった夜宮が机に拳を振り落とした。
「悠輝も、美空もだ! 何でお前ら、そんな大事なこと抱えてんのに平気な顔してんだよ! おかしいだろ、何でお前ら、そんなっ!」
「平気じゃないわよ! 納得できないわよ私だって! だけどね、そんなこと言ったってどうしようもないことが、この世の中たくさんあるのよ!」
 ぐっと拳を握りこむ。爪が刺さっているけれど、それが気にならないほどに美空は憤っていた。
「わかるかよ、そんなの! 悠輝、お前だって東京行きたいわけじゃないんだろっ?」
「だけど、行かなきゃいけないんだ」
 静か過ぎる悠輝の声は、夜宮に次の言葉を言わせなかった。この中で自分だけが子供のような気がしてきて、夜宮は腹立たしくて仕方がない。
「僕は、綾路コーポレーションの、跡取りにならなきゃいけないから」
 ねぇ、綾路コーポレーションって? 聞いたことある気がする。会社だよね。会社の跡取りってことは、将来は社長?
 クラスメイトたちの声が、ぐるぐると美空の頭の中を回っていく。今すぐに、この場から逃げ出してしまいたい。けれどそんなことなど出来るはずがなく、第 一足が動いてはくれなかった。
「僕には……」
 悠輝の声。クラスメイトたちが一瞬にして静まる。
「僕には、双子の兄がいるらしいんだ。けど、双子だからもしかしたら跡継ぎに問題が出るかもしれない。だから、その会社の今の社長は妹夫婦に僕を養子に出 した」
 誰もが息を潜めてその話を聞いていた。
「けど、その兄が治らない病気にかかってるんだ。だから、僕が代わりに跡継ぎにならなきゃいけない」
「……ね、その話、本当なの?」
 朝子が思わずそう問うてしまうほど、それは現実味のない話だった。そんなこともあるんだと簡単に納得できるような次元の話ではない。まして、都会とはほ とんど関わりのない平和な田舎に住む彼らには。
 悠輝は頷いた。どんなに遠い世界のように思われることでも、実際に悠輝の身に起こっていることには違いない。
「けど……けど、拒否することだってできるんじゃねぇのかよ!」
 夜宮の言葉に、美空は苛立ちを感じた。そんなことを言っても、いくら悠輝が拒否しても、大人は聞きはしないだろう。兄が病気だからと、養子に出した弟を 引き取ろうとするような大人なのだから。
「でも、悠輝は行くって決めたんだろ?」
「平良! お前っ!」
 平良は夜宮に目を向けようともしない。
「あぁ」
「じゃあ、俺たちがどうこう言うことは、できないよ」
 平良の声がゆれた。夜宮もそれに気付いたのか、口を噤んだ。
 もう誰も、何も言わない。
「とりあえず、今日は解散しよ。もう時間も遅いしさ」
 麗未の言葉で、緊張が切れていく。けれど重たい空気はなくなりはしない。
「美空……鞄」
 朝子がそっと差し出したそれを、美空は何も言わずに受け取った。



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