とりあえず夜は寒いので、美空は悠輝を 自分の部屋へと促した。それからなんとなくきっかけがつかめなくて、互いに黙っていた。
「美空ちゃん? 晩御飯、持ってきたんだけど、ここに置いておくわね?」
 部屋の外で、美郷がお盆を床に置く音が聞こえた。やがて足音が階段を下りていった。
「取ってきたら?」


そんな 僕らの裏事情



 自分のことで美空に夕飯を食べさせないわけにはいかないと主張する悠輝 と、まだ夕飯を食べていないという悠輝を置いてひとりで食べるわけにはいかない、まして夕飯より話のほうが大事だと主張する美空。
 ひととおり話が先だ夕飯が先だの口論をしたふたりは、とりあえず廊下に置かれたそれを中に取り込むだけ取り込んでそれから話をしようということで結論に 達した。
「母さん……」
 廊下に置かれたそれを見た美空は深くため息をつく。
「どうかしたの?」
「どうやら、私たちは無駄なことをしてたみたいだわ」
 お盆を持つと両手がふさがるだろうからとドアを押さえていた悠輝が廊下を覗き込む。
「……これって」
「ふたり分、でしょうね」
 一人用の土鍋と箸がふたつずつ、お盆に乗っていた。ご丁寧にレンゲつきで。もちろんお茶と土瓶も乗っている。思わず悠輝は美空を見た。美空は肩をすくめ る。
「美郷さん、俺がいるの気付いてたんだ……」
 美空が悠輝が来ていることを母親に伝えていたのなら、あの口論には至らなかったはずだ。
「みたいね」
 ほのかな脱力感。けれど自然と笑みがこみ上げてくる。
「だったらはじめからそう言いなさいよね」
「わざとだったりして」
 そう言われていたとしたら、どうなっていただろう。もしかしたら逆に気まずくなっていたかもしれない。けれど美空はそれをきっぱりと切り捨てた。
「ないわね。自分がふたり分作るのが当然だと思ってたら、あの人それが他の人にとっても当然だと思うはずだもの」
 自分の常識は他人の常識。
「美郷さんらしい」
 あんたはどっちの味方よと言いたくなったが、その気力すら奪われた気がする。
「まぁいいわ、さっさと食べましょ。あんたも夕飯まだだって言ってたわよね?」
「……まぁね」
 美空はお盆を持ち上げ、悠輝の抑えているドアからそれを室内に持ち込んだ。
 ふたりは勉強机とは別の丸いテーブルに向かい合わせに座る。
「……なんて簡易な」
 土鍋のふたを開けた美空は思わず呟いた。
「暴言だよ、美空」
 予想はしていたが、中身はうどんだった。もっとも、互いにそれほど食欲がわかなかったのでそのくらいでちょうどよかったのだが。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます……」
 そういったものの、美空はため息をついてしばらく箸を付けようとはしなかった。
「美空、大丈夫? 猫舌でしょ?」
「うるさいわね、余計なお世話よ」
 少し、いつもの空気が戻ってくる。そうすると、今の状況は今の状況で、なんだか切ない気もしてくる。
「まだ結構熱いよ、気をつけて」
「わかってるわよ……」
 けれど、飲み込んだそれはとても温かくて、心まで温まるような気がした。
「ねぇ、美空」
 ふと、悠輝が顔を上げた。
「何よ?」
「……俺、俺は」
 美空が湯のみを手にし、お茶を一口飲んだ。そして顔をしかめる。
「熱い」
「……美空」
 苦笑する。けれど心から笑えない。
「何?」
 美空は苦々しくため息をつきながら、湯のみをテーブルに置いた。
「うん。……俺さ、あそこの家の子じゃないんだって」
「……は?」
 美空は一瞬、心臓が凍ったかと思った。悠輝の静かな言葉が、美空の頭の中を駆け巡る。何度も反芻する。けれど、どうがんばっても意味は一つにしか取れな かった。
「大鳥のご両親が、あんたの生みの親じゃない、ってこと?」
「……そうらしいよ」
 何も言えず、ただ生唾を飲み込んだ。頭の中が真っ白になる。
「ねぇ、美空、覚えてる? 俺たちが初めて会ったときのこと」
「あの公園でのことね?」
「そう。あの時俺たちは保育園に通う前だったよね」
「そうね」
「じゃあなんで、それまで家の隣の俺たちが出会わなかったか、不思議に思ったことはない?」
 確かに家が隣で、それも同い年とあれば、もっと前から、それも互いの家で会っている可能性のほうが高いはずだ。
 けれど美空はそれを認めたくなかった。認めてしまったら、もっと悪いことも認めなくてはならなくなる、気がして。
「……私、昔は外にもあんまりでなかったもの」
 今でこそ風邪もそれほどひかなくなった美空だが、昔は体が弱く、よく喘息を起こしていた。
 確か、ふたりが出会ったあの日は、あまり外に出ないのも身体に悪いからと外に連れ出され、一緒に来ていた美郷を置いて帰ったのではなかったか。幼い頃の 記憶なのでとても曖昧なのは仕方がない。
「俺も、今日まで……さっきまでそうだと思ってた」
 お互いに、どこか釈然としないものは残るが、会わなかったものは会わなかったのだからとそれほど気にしたことはなかった。
「でも、さっき話を聞いて思い出したんだ。俺、あの日初めてあの家に来たんだ」
 頭の中がぐらぐらして、耳を塞いでしまいたくなる。
「でも、すぐにそんなことどうでもよくなった。美空に会えたから。だから、俺、忘れてたんだ……そんなこと」
 悠輝の真摯な瞳から自分のそれを逸らしてしまいたくて、けれど絡めとられたように逸らせない。
「……変だね。絶対認めたくないって思ってたのに、俺……美空に話してたら、認めた気になってくるよ」
 美空は何ひとつ言い返すことは出来なかった。
 いくら己にとても近しいとはいえ、所詮は他人のことである自分ですらこれほどの戸惑いを感じるのに、当の本人である悠輝になれば、一体どれだけの思いが 押し寄せてきたことだろう。
 そう考えると、何も言えない自分がもどかしい。けれど、下手なことも言えなくて、頭の端々に巡る言葉を口にすることは躊躇われた。
「でも、そんなことどうでもいいんだ。だって、実の子供じゃなくたって、あの人たちは俺を育ててくれた。そうだろ?」
「……えぇ」
 嫌だ、もうこれ以上聞きたくない。嫌な予感、シグナルレッド。それがどうでもいいというのなら、今悠輝をこれほどまでに気落ちさせている原因は他にある はずなのだ。
 けれど、やめてという言葉は、声になる寸前に悠輝の真剣な瞳の前に消えた。沈黙の中に受け取った何も言わなくていいから聞いてほしいという声よりも、真 剣すぎるが故に感じる怯えに声が出せなかったのだ。
「美空……」
「悠輝」
 つられるように名前を呼び返すと、悠輝が切なそうに笑った。心臓がぎゅっと締め付けられる。
「美空、俺、本当の両親のところに、行かなきゃいけないみたいなんだ」
「ゆ、うき……」
 美空の予想していた中で、一番最悪の言葉だった。一番言ってほしくない言葉だった。
「東京、だって」
 遠すぎる。眩暈を感じた。ここから東京へ行くには、一時間以上かけて車で空港に行った後、飛行機に乗らなければならない。
「どうして? どうして、今更……。おじさまやおばさまは納得してるの? 悠輝、あんた……っ、それでいいのっ?」
「いいわけないだろ、俺だってここにいたいよ、美空や……父さんや母さん、平良、朝子、みんなと別れるのは嫌に決まってるだろ!」
 悠輝がこんなに大声を上げたのを見たのは初めてだった。驚いたけれど、美空も自分の激しい感情を抑えられない。
「だったら!」
「けど!」
 互いの声がかぶる。感情のままに話していたふたりは、それ以上何も言えなくなる。
「悠輝……だったら」
 揺れた声。それは悠輝の心も美空の心も揺さぶった。
「それだけじゃないんだ。俺……俺は、綾路コーポレーションの、跡取りになるんだって」
「跡取り……って……」
 綾路コーポレーション、聞いたことがある。確か、貿易関係か何かの会社ではなかったか。
「俺には双子の兄がいて、その人がいたから、俺は大鳥の家に養子に出されたんだって。母さんは今の社長の妹で、子供が産めない体だったから」
「待って。だから、ってどういうこと? それって、それってあんたが……」
「多分、邪魔だったんだと思う。双子だから、跡継ぎの問題にならないようにって」
 どこかの小説や、昔話ではあるまいし。美空はそんなことが本当にあるとも思っていなかった。万が一にもあったとしても、自分にはまったく関係ない遠い世 界のことだと思っていた。
 そんな話はそれを自分が言わせてしまったのかと思うと、そんな自分にも腹が立つ。
「でも、じゃあ、なんであんたが……」
 訊きながら、頭に予測がちらついている。それでも、明確な答えをもらわなければ納得できるものもできるはずがない。
「俺の兄って人は、病気なんだって。治る病気じゃないし、もう何年も生きられないって、だから」
「でも、あんたが跡を継ぐとしても、それは全然先のことでしょ! 何も今から……」
 もう、美空も悠輝もどうしていいのかわからなくなっていた。納得したくない、だから問うて、返しているのに、そうしてそれをひとつひとつ納得させてい く。そんな矛盾にも苛立ちが増す。
「なんか、やることがたくさんあるって。勉強しないといけないこととか、出てなきゃいけないパーティとか……」
 そんなことで、そんなことのために、自分たちは引き裂かれようとしているのだろうか。
 別れなど、考えたことは一度もなかった。たとえば高校が違っても、家に帰ればすぐ隣にいる。ずっと傍にいた存在。
 これからもずっと傍にいるものだと、知らないうちに過信していた。いつかは理解したことかもしれない、けれどそれはもっと先のことになるはずだった。
 どんなにいろいろなことを知っているつもりでも、理解しているつもりでも、ふたりにはそうでないことのほうがずっと多かった。
「拒否、できないの?」
 悠輝は答えない。
「嫌だって、行かないって言いなさいよ! 悠輝、ねぇ!」
 それでも言いながら、美空にはわかっていた。結局子供ひとりの力など、横暴な大人の前には無力なのだと。それでも、抵抗して欲しかった。
「言った、よ……」
 嘘をつくことも出来た。もう一度そう訴えることも出来た。けれど、それは出来なかった。それは結局、悠輝自身がもうどうしようもないとあきらめているか らだった。言っても無駄だとわかっているからだった。
 そして美空もそれを悟った。自分が行くと、言いたかったけれどどうしても言えなかった。
 不幸なほど、ふたりはそういうことばかり知っていた。あきらめることを、あきらめなければならないことがあるのだと知っていた。
「……じゃあ、行くの?」
「……うん」
 そして、嫌で嫌で仕方がなくても認めなくてはならないことがあるということも。
 ふたりはもっと抵抗していいはずだった。それほど大人にならなくてもいいはずだった。けれど、もうふたりはそんなふうには戻れない。
「いつ?」
「……引っ越すのは、卒業式の後」
 お互いにあきらめてしまえば、後はもう、変わらないいつものふたりだった。
「じゃあ、高校は、向こうなのね?」
「……そうだって」
「そう……」
 ふと悠輝が視線を落とした。
「食べよっか。伸びるし。もう、遅いかもしれないけど」
「……そうね」
 それが何に対する肯定だったのか、美空自身にもわからなかった。



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