いつもどおりの、特に何もない、けれど
どこかあたたかな一日の終わり。
「じゃあ、また明日」
「えぇ」
いつものように美空を家の前まで送り届け、悠輝は隣の自宅のドアを開けた。
そんな
僕らの裏事情
「……どうしたの?」
美空はダイニングのテーブルに着き、なにやら考え込んでいる母親の姿を見つけて、そう訊ねた。基本的に明るい彼女がここまで思いつめているのも珍しい。
「母さん?」
「……美空ちゃん……、おかえりなさい」
弱々しく顔を上げて、美郷は娘を見上げた。その瞳が少し、困惑に揺れている。
「ただいま」
美空は隣接しているリビングに鞄を放り投げ、美郷の前の椅子に座った。
「何かあったの?」
「……うん、ちょっとね」
しばらくの間があったのは、本当のことを言うか言わないか迷ったからだろう。
「何?」
「母さんの口からは言えない。ねぇ、美空ちゃん。今日はね、ずっと部屋にいてあげて。ご飯も部屋に持っていってあげるから、ずっと、いてあげて」
わけがわからない。それとこれと、一体どんな関係があるというのだろう。
第一、何故部屋にいなければならないのか。それも、美郷の言葉からして誰かのために。それは誰だろう、とそこまで考えて。
「母さん……?」
思い当たる人物などひとりしかいない。
悠輝だ。
「ねぇ、母さん、どういうことなの」
美郷は答えない。けれどそれがますます美空の肩に重くのしかかって、美空は急いで立ち上がって二階の自分の部屋に駆け上がった。
やはり悠輝が窓から自分の部屋に来ていたことは知られていたのかと思ったが、そんな冷静な思考もすぐに吹き飛んでしまう。
勢いよくドアを開けたが、悠輝の部屋の明かりはついていない。それがますます美空の不安を掻き立てる。
「悠輝……」
窓に駆け寄って、けれど呼んでも返事が返ってくるはずはない。
大鳥家を尋ねようかとも思ったが、その間に悠輝が部屋に戻ってくるかもしれない、そう思うと部屋にいるしかなかった。
とてもじっとしていることなど出来ないのに、そうしているのが得策だというのは、とてもつらい。美空は焦りを抑えようと拳を握った。爪が刺さって痛かっ
たけれど、それで少し気が紛れるような気もする。
そのとき、ノックの音がした。
「美空ちゃん」
悠輝が来たのだろうか。チャイムを鳴らさないことなど普通なので、可能性はある。
美空がドアを開ける前にそれは開いた。顔をのぞかせたのは美郷。
「鞄、下に置きっぱなしだったから……。ご飯、作るね」
どうやら悠輝とは直接関係ないらしい。美空はため息をついた。
少しあからさまに落胆しすぎたかもしれない。だが、後悔してももう遅い。それでも、美郷は何も言わなかった。
「まだ作ってなかったの?」
「うん、ごめんね。考え事してたら、いつの間にか時間が経ってたの」
その言葉に、美空は顔をしかめた。この母親は、天然というかどこかズレているというか、ともかくたまに何をしでかすかわからないのだ。
「ちょっと、いつから考え事してたのよ」
美郷は笑って何も言わない。これはかなり長い間考え事をしていたようだ。だが、言わない以上は、変なところで頑固な彼女のことだ、聞いても口を割らない
だろう。それがわかっている美空は早々に具体的な時間を聞き出すことはあきらめた。
「無理しないでよ」
「はぁい。美空に心配かけさせるわけにはいかないもんね。美空、受験生だし」
笑う、それにもどこか覇気がない。
「そうよ、まったく……」
悠輝のことも心配だが、美郷のことも心配だった。だが、もうそろそろ父親の帰ってくる時間だ、彼女は彼に任せたら大丈夫なはず。
「ぼーっとして火傷なんかしないでよ」
「わかってます、大丈夫よ」
本当だろうか。ついて見ていてやりたいが、それでもやはり、美空はこの部屋から動くことは出来そうになかった。
ダイニングに下りていく母親を見送り、美空はベッドに座った。そこからならば、隣の悠輝の部屋の様子がうかがえる。
「何があったの……」
届かない問い。不安や焦りばかりが先走って、体中を渦巻いていく。
どうすればいいのだろう。何をすればいいのだろう。彼のためにしてあげられることはあるだろうか。
「早く、戻ってきなさいよ……っ」
よくないことばかり考えてしまう。マイナスな気持ちが恐怖すら巻き起こす。今すぐ、悠輝の姿を確認したくて仕方がなかった。
ずっと悠輝の部屋を見ていた美空は、目に飛び込んできたそれに思わず立ち上がった。
「悠輝!」
彼の部屋の電気はついていない。けれど窓は開いて、悠輝の姿がベランダに現れた。
美空は急いで自分の部屋の窓を開けた。
「美空……」
息を呑む。悠輝は見たこともないような表情をしていた。絶望と困惑の入り混じったようなそれを前に、美空は何も言えなかった。彼の名を呼ぶことすらも。
「美空」
「……何があったのよ……」
悠輝はベランダから動こうとしない。いつもなら躊躇いなく美空の部屋に入ってくるのに。
「ねぇ、悠輝……」
心が破裂しそうだった。予想はしていても、何とかなる、何とかできると漠然と思っていたのに、それは完全に裏切られた。何も出来ない、何も言えない、何
も、何も。
「俺……どうしたらいいんだろう」
鼓動が跳ねた。嫌な方向に。悠輝がこんなふうに弱音を吐くのは、もしかしたら初めてではないだろうか。
「悠輝……」
思わず手を伸ばしていた。少し身を乗り出して、ベランダの柵に置かれた悠輝の手に重ねる。今にも泣きそうなのに潤んでもいない瞳と美空のそれが重なる。
言葉にはすることは出来ないけれど、だからこそ伝わるものがある。今きっと、互いに同じような思いでいるのだと。
「話して……」
聞くことしか出来ないかもしれない、それでも、何も知らなければ出来ることがあったとしても何も出来ないのだから。
悠輝がうなづいた。