あの、美空が光林高校への進学を決めた
日から、再びフルートの音が聞こえるようになったことに悠輝は安堵していた。彼女がそこに、すぐ近くにいるのだと感じられるからだ。
「行ってきます」
「はい、いってらっしゃい、美空ちゃん、ゆうちゃん」
そして悠輝も運動会前のあの日以来、ドアのところまで美空を迎えに来るようになっていた。おそらく一番喜んでいるのは悠輝を自分の息子のように可愛がっ
ている美空の母親、美郷だろう。
そんな
僕らの裏事情
「そういえば、あんた、あれから進路変えてないの?」
「あぁ……うん」
思い返す夏の日。美空とは一度進路の話をしていたのを思い出す。
その吹奏楽のレベルについていけるかわからないからと彩波高校に行くと言っていた美空。美空は頑固だから進路を変えるようなことはしないと思っていたけ
れど、どうやらそれは悠輝の思い過ごしだったようだ。
出来れば同じ高校に行きたい、そう思っているのも事実だが、やはり美空が少しでも後悔しないでいてくれるのが一番嬉しい。
「あぁ、受かったらまたあんたと一緒なのね……」
それが嫌なのかと訊きたかったけれど、そんな勇気など持ち合わせてはいなかった。けれどおそらく、この表情からみて嫌というわけではない、と思いたい。
少しうんざりしているといったところか。
「受かったらね」
「やめてくれる、受からないみたいじゃないの」
確かに、と悠輝は苦笑する。受からないと思ったら、きっともうそこで終わりだから。互いに気付いてはいないけれど、そういうところはふたり、よく似てい
る。
旧道から出て国道を横切る信号で止まる。もう悠輝の顔に笑みはない。
「あぁもう、よくひっかかるわね、ここ」
「信号ここしかないのにね」
ふたりの通学路に信号はひとつしかない。国道に付けられたそれを超えればまた旧道に戻るからだ。
「……更にむかついてくるからやめてくれる?」
車が信号が青になったので走り出す。ふたりの前を、黒い車がふたりが来た方向へ走り抜けていった。
やがて歩道の信号が青になる。
「あ、美空ーっ! 悠輝くーんっ!」
信号の先に朝子と平良の姿が見えた。
「おはよ! ねね、さっきの車見た? なんかすごいかっこよかったぁ」
朝からテンションの高い朝子に平良が苦笑する。美空はため息をついた。
「見てないわよ車なんて。何、あんた車に興味あるの? やめときなさい、あんたは事故るわ」
「ひっどぉいっ!」
自然と美空と朝子、悠輝と平良に分かれて歩き出す。
「いろいろ、影響受けやすいからね、朝子は」
「……あぁ」
冷たいとも取れる返事をしてきた悠輝を横目で見て、平良は笑った。だが悠輝は何も言わない。
「何、って聞かないの?」
「大体わかる」
「あ、そう」
平良は半ば予想していた返答に笑いを堪えるのが必死だ。不意に前を歩いていた朝子が笑顔で振り返った。
「平良君、なんか機嫌いいねー」
あんたもね、と言おうとして、美空はやめた。平良が機嫌がいいことで更に機嫌のよくなった朝子のテンションの矛先が自分に向けられるのは勘弁してほし
い。
「わかる?」
「わかるー!」
「……なんかうざいわ」
思わず美空は呟いた。えぇーっと不満の声を漏らす朝子を適当にあしらう。
「聞いたよ、最近機嫌いいと思ったら、美空も光林行くって?」
朝子と美空の意識が完全に自分たちからそれたのを確認して、平良は小声で言った。普通の音量で言ってもよかったのだが、そうすると朝子が話に入ってくる
だろうから、やめた。
悠輝からの返事はない。
「よかったね。とりあえずこれを機会にさっさと告白すれば?」
「……っ」
急に平良が笑みを消した。
「わかるよ。あれだけ美空のことばっか見てたら。幼馴染みを心配する目じゃない」
美空たちのほうが歩くのが早いので、いつの間にか少し離れてしまっていた彼女の背を、平良は見つめた。
「言わないと、多分美空は、一生お前の気持ちに気付かないよ」
「……わかってる」
振り返ってこちらを向いて、早くと叫んで手を振る朝子に笑顔だけを返す。
「だから、言わないの?」
「……、あぁ」
そう、そのつもりだった。けれど悠輝の中のその想いは、今では少し変わってしまっていた。
彼女に振り向いてほしい。こっちをみて、自分だけをその瞳に写してほしい、だなんて。美空への想いを自覚してから、こんな風に思ったことなど一度もな
かったのに。
「どうかしたのーっ?」
「ちょっとね、すぐ追いつくからちょっと先行ってて?」
「わかったぁっ」
平良と朝子の会話の終わり、美空がちらりと振り向いて、視線が一瞬だけ交わった。
「俺は……美空のこと幸せに出来るの、悠輝しかいないと思ってるよ」
悠輝がほんの少し顔をしかめた。
「冗談なんかじゃない。これだけお互いにわかりあってるのにさ、他の人のことなんて、見れると思う? 他の人で、足りると思う?」
「……それは美空が決めることだ」
平良が苛立たしげにため息をついた。本当に、もどかしくて仕方がない。
「いい加減にしなよ、悠輝はそうやって美空のことばっかり考えてるけどさ、それじゃ自分がしんどいだけだよ?」
「構わない」
それは、即答。平良は思わず次の言葉を忘れてしまった。
「……悠輝……」
どうしてそこまで想っているなら、自分で美空を守り続けようと思わないのだろう。
確かにこの先の長い人生で、何が起こるかわからないのは事実。今は仲の良い恋人同士であっても、十年後、二十年後、隣にいるのは違う人かもしれない。確
かに恋人同士の関係は終わってしまうかもしれない。けれど、その後でも幼馴染みという事実が崩れることはないはずだ。
「結局、悠輝は先に進むのが怖いだけなんじゃないの?」
「……そうかもしれない」
あぁ、本当に不器用な人だ。どうして美空のことになれば何でもわかるのに、自分のことになればまったくわからなくなるのだろう。そう、だからこそ。
「でも、悠輝には美空が必要だ」
「……あぁ」
「わかってるなら」
「ちょっとあんたたち」
少し遠いところから美空の声がした。そちらを向けば、眉間にしわを寄せた美空と、心配そうにしている朝子の姿。
「さっきから雰囲気悪いけど喧嘩でもしてるわけ?」
美空がゆっくりと近づいてくる。
「喧嘩じゃないよ、大丈夫」
平良の言葉に、美空がちらっと悠輝を見た。気をつけていたつもりだったが、まさかさっきの会話を聞かれてはいなかっただろうか。少し心配になる。
「朝子が心配するから、口論するなら彼女のいないとこでしなさい」
それから美空はため息をついて少し視線をさまよわせる。
「よかったわね」
「は?」
まったく予想外の言葉に、平良は間抜けな声を出した。
「喧嘩できる相手がいることはいいことだわ」
そう言って、足早に朝子の元に返ってしまった。
平良は思わず笑みをこぼした。
「負けるね、美空には」
「あぁ」
「……だから、かな?」
悠輝が美空のことを想うのは。平良は答えがないことに機嫌をよくして、朝子の元に駆け寄っていった。
「……そうだよ」
だから、その答えは聞かれることはなかった。もっとも、平良のことだからわかっているのであろうけれど。
「ちょっと、あんたなにぼーっとしてんのよ、置いてくわよ」
美空の呆れた声にハッとする。いつの間にか立ち止まってしまっていたらしい。
「そういうんだったら立ち止まってあげようよ、美空……」
「あんたも歩いてるじゃない」
「そ、そうだけどっ」
かすかに聞こえてくる会話に心の中で苦笑して、そんな風にしか笑えない自分にため息をついて、悠輝は三人を追いかけた。
その頃。
「兄さん……?」
悠輝の母親である夏美は、予想外の客を家に迎えていた。