美空がフルートを吹いていないことには 気付いていた。当然だ、彼女がそれの練習をしたいなら家でするしかない。そうなれば当然、悠輝の耳にも届くはずなのだから。
 けれど悠輝は何も言わなかった。きっと自分が何を言っても、美空の心を動かすことなど出来ないとわかっていたからだ。これは美空が自分で解決しなければ ならない問題。手を出すことなど許されない。手を貸したくて仕方がないけれど。
 でも、どうしていいかわからないのもまた、事実。


そんな 僕らの裏事情



「ね、美空、帰りに音楽室寄っていかない?」
 引退してから何度かは顔を出していたが、それはいつも朝子の誘いがあったからだ。大抵美空は断らない。彼女自身も行きたいと思っているからだ。
「いいわよ」
 だから今日もいつものようにいつもの答えを返す。
「やったぁ!」
 もう引退した身なのだから、あまり顔を出しては彼女たちのやりたいように出来ないだろう、と美空は一番初めに顔を出しにいった帰りに朝子に告げていた。 それは朝子も納得したので、一ヶ月に二度も行けばいいほうだ。
 一度由宇夏が練習を見に来てほしいと言ってきたが、それにもその時は行ったがあとは本当に困った時にしか行かないと彼女にも告げている。
 いつまでも甘えているわけにはいかない。彼女たちにも、自分にも。区切りを付けなければいけないと思って言ったことだった。それが少し寂しいと思うとき もあるけれど。

「美空先輩、ここ、ちょっと聞いてください。うまく出来ないんです、だから」
 自分では何が悪いのかわからない。それは美空もよくわかるので、了承する。
 久しぶりに聞く、フルートの音。放課後の補習で吹奏楽部が練習している音は聞こえるが、フルートの音は細いのでほとんど聞こえることはない。思っていた よりも、美空は動揺していた。
「息の入れ方がうまくいってないんだと思うけど」
 けれどそれを悟られるわけにはいかない。努めて冷静に美空はアドバイスした。
「この音でチューニングして。うまく出るようなら、前の音と後ろの音も加える。ロングトーンで」
「はい」
 すぐにもやろうとする彼女を止める。
「自分で練習方法を考えなさい。この部分だけ永遠繰り返してもどうにもならないから」
「はい、がんばります」
 とても真面目な瞳を、まっすぐに見つめ返すことができなかった。

「え、美空、どこ行くの?」
 美空と朝子は三十分ほど音楽室に留まって、今帰るところだった。だが、美空の足は素直に校門へと降りていってはくれない。
「屋上。あんた先帰りなさい」
「え、でも」
 そんなところにこんな時間、一体何の用があるのかと戸惑う朝子に小さく笑みを返す。さすがに無理に作ったものだとわかってしまったかもしれない。だが、 今更どうにもならなかった。
「いいから」
「……わかった」
 それでも朝子はしぶしぶながらうなづいた。
 階段を下りていく朝子を見送って、美空の足は階段を登る。
 立ち入り禁止と書かれているのに、開いている鍵。美空はゆっくりとそのドアを開けた。急に冷たい風が美空を包んだ。
「……はぁ」
 ため息もすぐに風に飲み込まれる。ゆっくりとフェンスに近づいた。しばらく何もせずにただぼうっと運動場を見下ろしていた。
「美空」
「……悠輝」
 わかっていた。彼が来ることは。朝子が話さないはずはない。そうしたら、彼がここに来ないはずはない。わかりきっている自分に軽く呆れを感じたが、嫌で はない。
「ねぇ」
「うん?」
 悠輝が美空の隣に立った。
「私、やっぱり吹奏楽、やるわ」
「……そっか」
 運動場に向けていた視線を、美空に移す。その表情は晴れ晴れとしていた。口に出したらすっきりしたのだろう。
「光林に行く。生ぬるいのなんて嫌よ。やるならとことんやるわ」
「そっか」
 風は冷たいけれど、それが逆に美空を惹きたてているように思える。
「ま、そのためには今練習してる場合じゃないけどね」
 久しぶりに見た、楽しげな美空に安堵する。これでもう、きっと彼女は大丈夫だ。
「美空」
「何よ?」
 ふたり以外には誰もいない屋上。悠輝は笑みをこぼした。
 音楽はよくわからないけど、美空のフルートの音、好きだよ。
「帰ろうか」
「あぁ……そうね」
 本当に伝えたかったこととは違うけれど、それでもいいかと悠輝は思う。言えばきっと、美空は照れて、その笑みを隠してしまうだろうから。
 悠輝がドアを開ける。そこを潜り抜ける前に、美空は無意識に振り返っていた。
「どうかした?」
 開けたドアを支えている悠輝の声にハッとする。どうしてだろう、なんだか名残惜しいような。何か忘れ物をしているような、そんな気がする。何も忘れてな どいないはずなのに。
「なんでもないわ」
「まだいたいなら、いてもいいけど」
 悠輝の誘いに首を横に振る。留まりたいと思う気持ちも確かにあるけれど、これ以上留まってはいけない、そんな気がしていた。
「悠輝……」
 意味もなく彼の名を呼ぶ。
「美空?」
 不思議そうな顔をした悠輝の顔が、うまく見られない。それは頭痛に似た、とても嫌な予感。
「……なんでもないわ」
 けれどそれを言葉で伝えるには何かが足りなくて、できない。それにきっと気のせいだろう。そう思って美空は悠輝と共に屋上を後にした。



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