「もーやだぁっ!」
 朝子が机にへばりついた。教室からは同意の声がちらほら上がる。
 運動会が終わったと同時に、三年生は補習が始まった。一番最後まで部活に出ていた吹奏楽部も部活を引退したためだ。
「何言ってんのよ受験生」
「美空ぁっ」


そんな 僕らの裏事情



「じゃあ、問題解いて、出来た人から持ってきてくださいね。わからない人は 聞きに来て」
 未来が一通りの英文法の説明をした後、教卓の隣にある教師用の机に移動した。今日の補習は英語だ。
 いつもうるさすぎるくらいの教室は、珍しく静かだ。外から部活をしている音や筆記の音しか聞こえない。
 すぐさますらすらと解いて席を立ったのは平良だった。
「はい、全問正解」
 全員に配っているプリントが終わった生徒は、次に用意されているプリントに進むことになっている。それは枚数ごとに難易度が高くなっていく。未来は次の プリントを平良に渡した。
 席に戻る平良と入れ替わりに悠輝や美空も未来のところへ行く。
「朝子、そこ、この例文の応用」
 平良は朝子の席の横を通った時にそう言ってアドバイスをした。
「あ、そっか」
 途端に朝子が笑顔になる。それを平良は振り返ってほほえましそうに笑っていた。

「天原さん、帰り時間ある?」
「……えぇ」
 未来は困った顔で美空を見ていた。その表情で、用件は大体予想がつく。
「じゃあ、職員室に寄って帰ってね」
「はい」
 未来が教室を出て行くと、ちらほら息を吐き出す音が聞こえた。
「つっかれたー」
「帰るかぁ……」
 そんなクラスメイトの声を聞きながら、美空は小さくため息をついた。
「ねー美空何したの?」
「……さぁね」
 朝子の暢気な声にまともな返事を返すだけの気力がなくて、美空はそれだけ言った。後ろで平良が苦笑している。わかってんだったら何とかしなさいよこの 子、と思ったが、それを言う気にもなれない。
「誰か残るー? 残らないんだったらさっさと出て、ここ閉めるから!」
 麗未の催促に、どやどやとクラスメイトが出て行く。その中には美空も混じっていた。
 部活がなくなってから、帰る時間が同じになることが多くなった彼らは、用事のある者は別として、同じ方向の者は同じ方向の者同士、いくつかの集団として ではなくひとつの集団として帰っていた。美空はどれだけ仲がいいんだと思うけれど、それはため息ではなくほほえみを誘う。
「じゃあ、美空、俺ら先帰るなー」
 職員室のある階で、夜宮がそう言って手を上げた。
「悠輝どうすんの、美空待つ?」
「あぁ」
「だよねー」
 その当然だろうといわんばかりの相槌に眩暈を感じる。一体どんな目で見られているのだろう。完全にセットにされている気がする。
「ちょっと、先帰ってもいいのよ、悠輝」
「だめだめ、女の子が夜中にひとりで出歩くもんじゃないよ!」
 美空の言葉に朝子が反論すると、麗未が朝子の肩に手を置いた。そして、清々しいほどの笑みを浮かべる。
「まだ夜中じゃないけどね。しかも出歩くんじゃなくて帰るんだし」
「麗未ぃっ」
 確かに事実、だから何も言えなくて、けれど反論したくて。朝子は情けない声で麗未の名を呼んだ。
「するどいつっこみだね」
 横で桜花が苦笑している。
「いや、……うん、まぁいいけど」
 麗未は言葉の後にため息をついた。普段麗未にあれこれつっこまれているのは桜花なのだ。
「えっちょっ、何?」
「いや何も? さぁ帰るぞ、もう疲れた!」
 さっさと歩き出す麗未に慌てて桜花もついて行く。
「じゃあまた明日ね、美空っ」
「ばいばぁいっ」
 手を振るクラスメイトに小さく振り返して、美空は職員室へ向かおうとした。だが、その前にあの集団に混ざることなく留まっている悠輝を一瞥した。
「あんたねぇ……」
「朝子の言うとおりだと思うけど」
 言葉にうまく表現できない文句も、悠輝にはきちんと伝わっている。
「何言ってんのよ、みんなどうせ最後はほとんどひとりで帰るってのに」
 一緒に帰るといっても、それはそれほど長い時間ではない。ひとりひとりの住んでいる場所はそれぞれに遠いことがほとんどだ。そのうち家の近い者からひと り、またひとりと人数が減っていく。途中で別の道に分かれることもある。美空と悠輝のように、家が隣同士だなどということはめったにない。
「けど、どうせ隣だろ」
 そう、めったになくとも、隣は隣。それに一応、教師から夜に一人で帰るのはなるべく避けること、という言ったところでそれほどどうにもならない、いわば 教師の義務的なお達しが出ている。
 もっとも、悠輝がいつも美空と帰るのはそんな理由からではないのだが。
「あぁ、もういいわ。行ってくるから、ちょっと待ってて」
 すぐに職員室に入っていった美空は気付かなかったかもしれない。悠輝が目を見開いて驚いたことに。
「……反則だ」
 美空にきちんと待っていてほしいと言われたのは、これが初めてだった。

「失礼します」
「あ、天原さん、こっちー」
 笑顔の未来が美空を手招きした。拓也がその隣の席で苦笑している。
「えっとね、じゃあそこ座ってくれるー?」
「はい」
 心の中でそっと、ため息をついた。未来に対してではない。彼女が今からしようとしている内容のことに対してだ。
「もう少しで三者面談でしょ? 一応その前にと思って」
「はい」
 未来の顔が教師のそれに変わる。
「天原さん、本当に彩波高校でいいの? あのね、別にそこが悪いってわけじゃないのよ、だけど、ほら、せっかく学力的にももっと上を狙えるんだし、吹奏楽 部の強い光林高校のほうが、天原さんには合ってるんじゃないかなって思うの」
 未来が深く呼吸をする。一度に多く話しすぎたのだろう。未来は元々話すことが得意ではないのだ。
「今のところ、彩波にいくつもりです」
「……そっか」
 困ったように笑う未来には申し訳ないと思うけれど、意思を変えるつもりはない。
 朝子には吹奏楽を続けるかどうかはわからないと言ったが、そこに吹奏楽がある限り、美空は入ってしまうであろう自分を容易に想像できた。だからこそ、彩 波高校を選んだのだ。本格的にやって、一体どれだけついていけるのか、自信がない。
「一応、考えといてくれるかな、光林のことも」
「……はい」
 元々考えていないわけではない。悠輝は光林高校に行くといっている。彼と同じところがいいというわけではないが、ずっと傍にいた幼馴染みのことだ、考え たくなくても、自分とは関係のないことだと思っても、やはり考えてしまう。
「まぁ、天原が後悔しないとこが一番いいからな。どうしてもっていうなら、俺たちは何も言えないわけだけど」
 それまで黙っていた拓也が苦笑しながら言った。
「ま、今日はそれだけだから早く帰って寝ろ、じゃなかった、勉強しな」
 美空は思わずため息をついた。受験生の副担任がそれではどうにもならない。
「こら天原。気持ちはわかるがやめてくれ、結構本気でへこむ……」
 あからさまに肩を落とす拓也が可哀想に思えてくるが、自分でフォローするには方法がわからないし、してくれる誰かもここにはいない。
「……帰って勉強することにします。さようなら」
 とりあえず正しいのかどうかはわからないがそう言って頭を下げた。
「はい、さようなら」
「……気をつけて帰れよ」
 状況がわかっているのかいないのか、にこにこ笑っている未来に更に追い討ちを食らったのだが、それを慰めてくれる人はいない。拓也はあきらめて自分で自 分を慰めながら、なんとかそう言ったのだった。



 back top next