「お疲れ様」
「……悠輝」
突如始まった記念撮影の後、なかなか解散しようとしないクラスメイトたちにため息をつきながらも一応最後まで付き合った美空は、一度荷物を音楽室に取り
に行っていた。
「朝子は平良と帰った」
まだ学校だからだろうか。悠輝の顔に笑みはない。美空はそれを音楽室の運動場に面した窓の前で確認した。
そんな
僕らの裏事情
「帰らないの?」
悠輝が美空の隣に立った。窓の桟に手を置いて運動場を見つめ続ける美空は、答えない。
その光景はいつも見ていたもの。朝子が休憩と称して遊びに来たときや、少し疲れた時はいつもこの窓から運動場を眺めていた。その先には体育館もある。
「美空。疲れてるだろ」
夕焼けの赤い光がふたりを包む。悠輝は美空を言葉では促すけれど、決して無理に連れて帰ろうとはしない。
「ねぇ」
「うん?」
呼びかけた美空は、ただそれだけで何も言おうとしなかった。けれどそれが美空の複雑な気持ちの全てを表しているようで、悠輝にはその続きは必要なかっ
た。
今日くらい、美空だって甘えていいはずだ。今日までずっと吹奏楽部の部員としてがんばってきた彼女を、悠輝はきっと誰よりよく知っている。こんな小さく
て可愛らしい我侭くらい叶えてやりたい。それは悠輝にとって難しいことではないのだから。
ただ、今たくさんのことを考えているであろう美空の隣にいる、きっとそれだけでいい。それ以下でもそれ以上でもなくて、それがちょうどいい。美空にとっ
ても、もしかすると悠輝にとっても。
「違和感があるわね」
「え?」
美空は運動場を眺めたまま、くすりと笑った。
「去年も一昨年も、この時間はまだ吹いてたもの」
秋の、一時期特定のこの明るすぎるほどの光に包まれる時間。このくらいの時間は、ちょうど部活時間の終わる頃で、残って練習する美空以外の部員は楽器を
片付けている頃。
「その上、隣にあんたがいるなんて」
ほんの少し、美空の笑顔が歪む。それに気付いたけれど、悠輝は何も言わなかった。
昼間は暑くても、夜になれば途端に涼しくなってしまう風が美空の長い髪を揺らした。運動会のためにポニーテールに結われたそれの先がかすかに悠輝のうな
じを掠めた。
「あぁ、もう」
ため息と共に、美空が結わえていたゴムを解いた。まとまっていた髪はすぐに個々に宙に散らばる。
「まとめてた方が邪魔じゃないだろ」
「そんなことないわよ、重くて頭は痛くなるし、毛先がくすぐったいったらないわ」
そうは言っても、幼馴染みの悠輝であっても、美空の髪が短い時など見たことがない。彼女いわく母親の趣味らしいが、今では美空自身その方がしっくりくる
のだろう。それはそれで悩みもいろいろあるようだが。
美空が愛しそうに目を細めて運動場を見つめた。
「さぁ。帰るわよ」
笑ってそう言うと、美空は窓に背を向けた。机のひとつに置いていた自分のかばんを取って歩き出す。
「ちょっと、悠輝?」
「今行く」
悠輝は美空が閉めようともしなかった窓に手をかける。彼女の立っていた位置に立って、運動場を見下ろした。自然と笑みがこぼれる。
「鍵閉めるわよ」
金属の触れ合う音がする。一組になっている音楽室と準備室のふたつの鍵が美空の手の中で悠輝を促した。
「中から開けられるけどね」
「あら、鍵穴に鍵をさしたままにすれば、鍵が邪魔で開かないのよ」
美空が悪戯っぽく笑う。呆れて悠輝は早々に窓を閉めた。
「誰に仕掛けたの? 朝子?」
「あぁ、やったわね」
この様子では他の人にもしていそうだ。思いついたようにこんな小さな悪戯をするのだから、本当に彼女はたちが悪い。思わずため息をついてしまった。
「早くしなさいよ」
待たせていたのは自分のくせに、いざ帰るとなると急かすのは美空のほう。けれどそれでも、絶対にひとりで先に帰ってしまわないのだから、結局彼女は優し
い。
悠輝が音楽室から出ると、美空はドアを閉めて鍵を閉めた。あまりならないはずの音が、やけに響いたように感じた。そっと鍵を引き抜いて、鍵を返すために
まずは職員室へ向かう。会話はない。僅かに漂う哀愁には気付いていたけれど。
「失礼します」
「天原さん……。部長、お疲れ様」
職員室に入ると、そこには吹奏楽部の顧問の姿もあって、一番に声をかけてくれた。
「お疲れ様です。お世話になりました」
「まぁ、音楽の授業はまだあるけどね」
顧問の教師が笑うので、美空も笑った。
「遅くならないうちに……ってもう結構遅いけど、気をつけて帰ってね」
「はい」
再び失礼しますと言って職員室を出る。これで美空の部長としての役目は完全に終わったことになる。職員室のドアの前で、美空の唇から僅かな吐息が漏れ
た。
「美空」
「さぁ、帰るわよ」
美空が悠輝を見た。いつもと少しだけ違う、少しだけ無理をして作った笑顔。
「あぁ」
それから思わず視線をはずせなくなってしまって、美空が歩き出したことを残念に思ったが、そんなことを口に出せるはずはない。変なところで変に鋭い美空
に気付かれないうちに、悠輝は彼女の隣に戻った。今はまだ、このポジションでいい、そう思いながら。
「あぁ嫌な予感がするわ」
誰もいない階段を下りながら、美空が呟いた。ただでさえ静かなのだから、隣にいる悠輝にそれが聞こえないはずはない。
「何?」
美空が盛大なため息をついた。
「母さんよ。夕飯何作ってるんだか……」
悠輝は簡単に想像がついてしまう天原家の食卓の様子を思い浮かべ、ついふきだした。
「今日は美空の部活生活が無事に終わったことのお祝いかな」
「やめて……」
お祝い好きな子供っぽい母親を持つと苦労する。額を押さえた美空をまとう空気がそう告げていた。
「一人娘だから心配なんだよ」
「どうだか……。あの人夫に大丈夫よぉ、美空ちゃんにはゆうちゃんがついてるもんっ……とか言ってたわよ……」
悠輝は苦笑するしかない。
「大体、いい歳した大人がもん、なんて付けるんじゃないわよ……」
「美郷さん、下手すると子供いる歳には見えないけどね」
本人はその童顔を気にしているらしいのだが、他の母親からはうらやましがられていることだろう。
「娘から若さ吸い取ってんのよ」
「それって美空が吸い取られてることになってるけど」
いいのと聞く前に美空が口を開いた。
「間違ってないと思うわよ……」
確かに美空は大人びているところがあるけれど。
けれど悠輝は思う。きっとあの人は普段はふわふわしていても、やるときにはやる人なのだろうと。芯がしっかりしている人でなければ、美空のような娘が生
まれるはずはない。
「大変だね」
「人事ね」
すぐさま帰ってきた切り替えしに、悠輝は何とも言えず苦笑でごまかした。