「おはよう」
 ドアを開けた瞬間聞こえた声に、美空は思わず身をすくませた。
「悠輝!」
 普段ならば、律儀にも門の外で待っている彼が、ドアの隣に身を預けていたのだから驚くのも無理はない。
「あらーゆうちゃん久しぶりねーっ」
 急にテンションの高くなった己の母親にため息をつき、美空は悠輝に行きましょうと促した。ここで彼女に捕まっては遅刻する。授業にではない。運動会の打 ち合わせや吹奏楽部の朝練習にだ。


そんな 僕らの裏事情



 あんたどうしたの、めずらしいわね。
 そう言おうとしたのに、それは言葉にはならなかった。どうしてか、言ってはいけない気がして。
 そもそも、それほど大したことではないはずだ、門で待っていた彼がその中まで入ってきたことなど。どうせ元から幼馴染み、チャイムも鳴らさず互いの家に 入っていくのだ、気にすることなどひとつもないではないか。美空はそう自分を納得させた。
 だが、困ったことに今日はいつにも増して会話がない、というより話題が思いつかない。普段からそこまで会話をして学校まで行っているわけではないが、昨 夜が昨夜であったので少々気まずい。
 そのままほとんど話さないまま校門の前までついてしまった。
「今日は吹奏楽?」
「そう、ね。そのつもり」
 悠輝に聞かれて少し動揺したが、何とかうまくごまかせた、気がする。いつもどおりの、少し冷たい対応。まったく可愛げがないと自分でも思う。一体誰に似 たのだか……どちらかといえば笑顔であることの多い両親を思い浮かべ、美空は軽くため息。
「美空?」
 無表情の悠輝がほんのわずかに顔をしかめた。すっかり己が自分の世界に浸っていたことに気付いた美空は慌てて現実に戻ってきた。
「なんでもないわ」
 悠輝は答えない。それがどういう意味合いを持つのか、美空にとってはいつもの彼でない今は知りようがなくて強烈な不安に襲われた。けれど聞き返すことな ど出来ない。
 このプライドの高さも美空を困らせる。けれどそれにまだ打ち勝つことはできず、仕方がないとあきらめている部分すらある。
 ふたりは黙って校舎まで歩いた。三階の端にある教室に入ると、そこにはもう、いくらか机の上にかばんが置いてあった。
「じゃあね」
「……あぁ」
 かばんを置いたふたりはそこで音楽室と運動場に分かれる。その様子だけを見れば、いつものふたりだった。

「おはよう」
「おはようございます!」
 開け放された音楽室のドアを潜ると、由宇夏の明るい声を筆頭にいくつかの声が返ってくる。相変わらず朝子の姿はないけれど。大抵彼女は時間ぎりぎりに やってくるのだ。
「おはよう、早いわね」
 いつもより人数もそろっている。それが少し寂しい気もするけれど、もう大丈夫。美空は音楽室の奥にある準備室から自分のフルートを取ってきた。
「……駄目ね、私も」
 結局悠輝に助けられてばかりだ。それを思うと少し悔しいが、今回ばかりは素直に感謝しようと思う。そんなことでチームワークを崩すわけにはいかない、そ れは美空が一番よくわかっていることなのだから。
「え、先輩何か言いました?」
「なんでもないわ。それより、練習するわよ」
 部員たちが目を合わせ、笑いあう。
「何よ……」
「最後まで、ついていきますよ、美空先輩っ!」
 思わず何もいえなくなる美空に、それを言った由宇夏や周りの部員たちも照れくさそうにしている。美空はまったくもう、と呟いた。
「おはよーございまぁす」
 突然ドアのほうから明るい声。美空の唇から、気が抜けてため息が漏れる。
「あ、朝子先輩……」
「え、何……なんかあった?」
 音楽室にいる全員の視線を浴びた朝子は少しばかり後退りした。その様子に部員たちが苦笑を漏らす。
「いえ、最後までがんばりましょうね!」
「え、あ、うん」
 美空は肩をすくめて朝子を見た。
「ほら、早く準備しなさいよ」
 そう、結局は彼女もいなければ始まらないのだから。



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