美空はフルートの入ったケースを撫で、 けれどその中身を取り出そうとはしなかった。
 何度も何度も、手を伸ばすけれども銀に輝くそれが蛍光灯の光を浴びることはない。
「練習、しないと」
 そのために、部屋の窓もきちんと閉めたのに。音が漏れて近所、というより悠輝や彼の家族の迷惑にならないようにと考えて。カーテンを閉めたのは、演奏し ている姿を万が一にも悠輝に見られたくないからであるのだが。


そんな 僕らの裏事情



 静かな夜だった。静か過ぎる夜だった。
 悠輝は自分の部屋のベランダの手すりに身体を預け、黙って美空の部屋を見つめていた。普段であれば疾うにやわらかなメロディの音源となっているはずの部 屋を。
 美空の様子がおかしかったのには気づいていたけれど、二人で帰っている時からずっと、悠輝は何も聞き出そうとはしなかった。そうしたところで何の真実も 知り得ないことはわかっているからだ。
 悠輝はゆっくりと息を吐き出した。原因は吹奏楽部関係のことらしい。
 今すぐにでも美空の部屋へ行くことは出来る。いつも美空は部屋の窓の鍵を閉めることはない。いつでも悠輝が入ってこられるように。
 今思えば親は知っていたのかもしれない、否、今も続いていることさえ知っているのかもしれないが、幼い頃から悠輝はよく自分の部屋の窓からすぐ隣の美空 の部屋を訪ねていた。美空が悠輝の部屋へその方法で入ってきたことは一度もないけれど。
 危ないから、ってやめさせられるかも。
 美空がそう言った時から、それはふたりだけの秘密となった。小さな声で話したり、美空が隠しておいたおやつをふたりで食べたり、足音がしたら机の下や押 入れの中に隠れたりするのは、幼いふたりにはとても楽しかった。
「最近は、行ってないな」
 悠輝は苦笑する。
 変だと思われない程度には遊びに行くけれど、前のように三日と経たず訪れないようなことはない。
 行けるはずもなかった。美空のことは、おそらく始めて会った時から好きだったけれど、今の悠輝が美空に対して抱く感情は、そんな温かなものではないのだ から。もっとゆがんだ、恋愛感情だ。
 それを伝える気は一生ないけれど。美空に恋人が出来ようが夫が出来ようが、それが自分でなくとも構わない。彼女が彼を選んだのならば、それで。
「美空……」
 悠輝は迷っていた。この、簡単に開く窓とカーテンの向こうで、美空は今どんな表情をしているのだろう。何があって、何を考えて、誰に助けを求めているだ ろう。
 ふたりを今隔てているものが、簡単に取り除けてしまうものだと知っているからこそ、逆にそれに手を伸ばすことが、出来ない。それこそが美空の自分への信 頼の証なのだから。
「疲れて眠ってるだけなんなら、いいんだけど」
 けれどそれは余程のことがない限りありえないだろう。どんなに疲れていても、美空なら、運動会という本番が近い今、一度だけでも演奏する曲を練習しない などということはない。
 悠輝は覚悟を決めた。手すりに足をかけ、窓を開ける。急に吹き込む風にカーテンが持ち上げられた。ちらりと見える美空の姿。
「美空?」
「……悠輝」
 美空は白いテーブルの上にフルートの箱を置いて、その前に座っていた。悠輝が入ってきたことに気づいてそれに手を伸ばす。
 黙って悠輝は美空の部屋へ降りた。
「こんな遅くに練習?」
 美空は答えない。
「体力持たないよ。ただでさえ日差しが強い中で練習してるんだし」
 九月とはいえ、照りつける太陽は厳しい。加えて吹奏楽部の練習を両立させる美空が疲れていないはずはない。
「……ねぇ」
「うん?」
 フルートの入ったケースに伸ばされたままの美空の手が、ゆるりとそれを撫でた。悠輝は美空の斜め隣に座る。
「もう、いらないのかしら」
 悠輝は思わず息を呑んだ。美空が自分から弱音を吐くのはめったにないことだからだ。
「何が?」
「私よ」
「そんなこと!」
 叫んだ悠輝に、美空は苦笑を返した。
「何よ、あんたらしくない」
 それは美空もだと思ったが、声にはならなかった。
「いいのよ。どうせ後もう少しだもの」
 必要とされようがされまいが、迷惑に思われていようがいまいが。関係ない。
 美空の視線がフルートに戻った。
「馬鹿なこと、言わないで」
 強くて、静かなのに激しい悠輝の声に、反論しようと彼を見て、声は奪われた。いつものやわらかな彼からも、他の人といる時に見る冷たい彼からも、想像で きないような強い瞳。幼馴染みの彼ではなくて、一人の男としての悠輝が、そこにいた。それを美空が知ることはなかったけれど。
「美空が、いらないわけない」
 悠輝はそう言って立ち上がり、それ以上何も言わずに来たときと同じように窓から出て行った。
 窓は開け放たれたままのようで、閉められたカーテンだけが風に浮いていた。それを、美空は呆然としてみるしか出来ない。
「悠輝……」
 そんな彼は、知らない。
「悠輝!」
 考えるより先に、窓に駆け寄っていた。清々しいほどに素早い音で視界からカーテンを消す。
「……悠輝」
 美空がそちらに行くには、悠輝の部屋についているベランダの柵が、邪魔だった。ここは二階。別段美空は高所恐怖症でもなんでもないのだが、やはりそれを 越えるのは怖いと思う。
 悠輝は、こんなところをいつも通ってきていたのだ。そういえば、改めて自分の部屋から悠輝の部屋を見たことはなかった。その必要すらなかった。そんなこ とをしなくても、いつも悠輝が勝手に自分のところへ来るのだから。
 悠輝の部屋のカーテンは閉まっていて、悠輝の姿は見えない。まるで二重に拒否されているように感じる。
 本当は美空もわかっていた。必要とされていないわけではない。ただ、自分の下から巣立っていこうとする後輩たちに、寂しさを覚えただけのこと。
 あんなことを言うのではなかったと、今更後悔しても遅い。
 しばらくそこにとどまった美空は、ふと振り返った。テーブルに置かれたフルートのケース。自然とそれに手が伸びて、基礎練習も何もかも忘れて、ほとんど 勝手に指が動いていた。
 隣の部屋。聞こえてくる優しいメロディに、悠輝は顔を上げた。
「この曲……」
 美空の好きな曲。
「ムーン・リバー?」
 引き寄せられるように背を向けていた窓へ向かい、カーテンを開ける。そこにはこちらに向かってフルートを吹く美空の姿があった。閉じられたまぶたの裏 に、美空はどんな思いを込めているのだろう。
 穏やかなメロディが二人を包む。
 そう長くはない一曲が終わり、目を開いた美空と視線が絡む。
 互いに言葉はない。けれどそれで十分だった。確信はないけれど、理解し合えているような気がした。
 やはり好きだ。美空のことが、好き。
「悠輝?」
 名を呼ばれた瞬間に我に返った。危うく言ってしまうところだった。一生隠し続けていこうと決めた想いを。けれど唇は何かをつむごうと開いたままなので、 代わりに言った。
「やめないでよ。フルート」
 美空が息を呑んだのがはっきりとわかった。
「……おやすみ」
 それ以上その場にいることは出来ず、悠輝は美空に背を向けた。
「おやすみ」
 美空の返事を聞いて、部屋へと戻る。
 悠輝は初めて、美空が自分を好きになってくれればいいと思った。恋愛感情で自分の事を見て欲しいと、思った。



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