「美空せんぱぁいっ」
 美空はため息をつく。
「どこ?」
 全く、こんな風でこれから先どうなることやら。頼ってくれるのは嬉しいけれど、少し心配にもなる美空だった。それでも突き放すことなどできず、後輩の 持ってきた楽譜に目を通す。


そんな 僕らの裏事情



「吹奏楽、まだやってるんだ?」
 不意にかけられた声に、ドアに背を向けて練習していた美空が振り返った。声だけで誰かなどわかる。
「平良。朝子は図書室よ」
 練習用に割り当てられた教室の名を告げるが、平良は音楽室から出て行こうとはしなかった。
「何?」
「何も」
 美空はフルートを机の上に置いた。
「どうかしたの?」
 その机から離れて入り口の近くにあった机の椅子に座る。平良にも座れば、と促した。
「朝子のこと?」
「そのつもりだったんだけどね。……随分慕われてるんだね」
 美空は小さくため息をついた。
「見てたの?」
「別に見たくて見たわけじゃないよ」
「失礼ね」
 美空の表情が怒っていますと意思表示する。平良が苦笑した。
「困ったものだわ。もう、運動会の演奏で私も朝子も引退なのに」
「そうか。そうだね。けど……そんなの誰も考えないだろ」
 美空が困ったように笑った。
「朝子もね」
 最近少しイライラしていると思う。夏休み中から始まった運動会の準備。夏の暑さ。迫りくる受験。それから、引退することになる部活のこと。
「気づかないでしょ、あの子は」
 美空は答えない。気づくはずがないだろう。それが中学生らしいところなのだから。けれど、気づかないことに苛立ちを感じる自分もいる。同性という、悠輝 とはまた違った気安さからか、最近はどうも八つ当たりしている気がする。かといって、それを止められはしないのだが。
「……運動会、がんばって」
 平良が立ち上がった。朝子のところにでもいくのだろう。そして美空はそれを止めたりはしない。県大会も終わり、全国へといけなかった平良も悠輝も、もう 部活は引退している。ただ吹奏楽部だけが手が足りないのでこうして続けているけれど。
「わかってるわ」
 もう聞こえるはずはない。平良が音楽室を出て行った後、そのタイミングでわざと美空はそうつぶやいた。
 椅子を引き、フルートへと手を伸ばす。二年半の間、美空と共に在った相棒。他に入りたいと思う部活がない、それが一番最初の理由だったと思う。演奏の難 しさなど全く気にも止めなかった。出来るんだという思いだけがあった。
 けれど、そうして驕り高ぶっていられたのも最初の一年と少しの間だけ。美空を指導してくれた先輩がいなくなり、後輩にもフルートを選んだ者がいなかった ため、聞こえるようになったフルートの音は自分の音だけ。近くの中学との交流で知った自分の技術の無さ。それは今でも美空を苦しめる。
 音楽が好きだと、美空は胸を張って言える。けれど、好きなだけではどうにもならない部分があるのが音楽だ。
「美空」
 聞こえた声にハッと我に返る。音楽室のドアから悠輝が顔を覗かせていた。
「何?」
 悠輝は体操服のままだった。
「練習終わったの?」
「平良見なかった?」
 悠輝の言葉に、平良がささやかな逃亡を図ったことを知った。どおりで外から運動会の練習をする声が聞こえるのに平良がやってきたわけだ。もっとも、そん な謎など解けても解けなくてもかまわないのだが。
「朝子のところじゃないの? 図書室にいるわ」
「わかった」
 悠輝がきびすを返すと、ちょうど吹奏楽部の後輩が廊下を歩いてきていた。軽く会釈して、少女は音楽室へ入っていった。
「すみません。教えてもらっていいですか?」
「仕方ないわねぇ」
 困ったような、けれど少し弾んだ声。悠輝小さく笑みを漏らした。
「頼られてるね、美空」
 けれどそれが嫌でないことはよくわかっているから、悠輝は微笑ましく思う。
 随分と大人びた幼馴染みだが、こうしてまだすこしだけ、己の感情を自由に出来ない我侭さ。それは子供だからこそまだ許されるものだ。たとえ仲間内に非難 されようが、それで良い。そうして少しずつ知っていけばいいのだから。己を抑えるということを。でなければ大人になってからどんなときでも感情を抑える癖 がついてしまうであろう。それはとても悲しいことだから。
「平良」
 図書室の開いたままのドアから中をのぞくと、案の定そこには探していた人がいた。
「悠輝」
 朝子と話をしていた平良が顔を上げる。悠輝はじっと平良を見た。睨むに近いかもしれない。
「悪かったよ。ごめん、朝子。練習の途中だったんだ」
「え、そうなの? 残念……。がんばってね」
 悠輝はその場を離れた。もしかしたら知っていてやっているのかもしれない。こうすれば自分はもちろんのこと、朝子や美空、探しにくるであろう悠輝にも最 高の息抜きを与えられることを。平良には少し策士めいたところがあるのだ。
「朝子もね」
 あっさりと運動場へ戻ろうとする平良。先に歩き出していた悠輝にもすぐに追いついた。
「悠輝は考えた? 県大会で引退だって」
「……あぁ」
 平良はそっかと笑う。けれど頭ではわかっていても、実際にそうなるとその衝撃は大きい。美空は感受性が豊かだから今からもう、いろいろと考えるところが あるようだが、今見た限りでは朝子は違うだろう。
「良いコンビだ。美空と朝子は」
 今の美空には、朝子は少しいらだつ存在かもしれないが、時が来れば美空もわかるだろう。朝子も何も考えていないわけではないのだと。そしてそのとき美空 はそれを素直に受け入れられる、そう平良は信じていた。
「……平良?」
 説明しろと脅す視線を交わし、平良はひとりで軽い優越感に浸っていた。




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