サファイアの空は誰が為に
「姫さま?」
先ほどからなぜかむくれたままのアリーシアに、そばについていた侍女のマリアが首をかしげる。これがヒナならば適切な言葉をかけたのだろうが、如何せん
彼女は今侍女頭としての仕事に追われている真っ最中。心根は優しいが、どこか鈍感なマリアにはどうすることも出来ないのだった。
いつもと違うところはなんだろうと考えたマリアは、アリーシアが温かいコーヒーの入ったカップを持ったまま、口もつけようとしないことに気付いた。ア
リーシアは甘いココアよりも男性の向けのコーヒーの方を好んでいた。もちろんアリーシアも社交の場ではそれを隠してココアを手に取るのだが、こうしたプラ
イベートの場ではコーヒーを出すのが暗黙の了解となっていた。
「コーヒー、お口に合いませんか?」
「え? あ、いや……違うんだ」
アリーシアは苦笑してコーヒーを口に含む。
「あの……無理はなさらないでくださいね?」
「ありがとう」
ほほえんだアリーシアに、マリアもほほえむ。兄とヒナ以外には基本的に優しいアリーシアは城の者にも、民たちにも慕われていた。マリアもそのひとりで、
優しいだけではやっていけないお城勤めも彼女がいるから続けてこられたようなものだ。
自分の考えに沈んでいたマリアは、アリーシアの微かなため息で我に返った。
「どうかなさいましたか?」
「え?」
アリーシアが顔を上げた。不思議そうに首をかしげるアリーシアに、マリアも首をかしげる。
「ため息をついていらっしゃいました」
「え……そうなのか?」
どうやら無意識だったらしい。ヒナならば重傷ですねなどと楽しそうに笑っただろうが、そこはやはりマリアなので、はい……と小さく呟いておろおろするば
かりだ。
「疲れてるのかな?」
そんな侍女を心配して、アリーシアはひとりごちながら苦笑してマリアを見た。
「大丈夫だから、あんまり心配しなくていいからな?」
「でも! お疲れになっていらっしゃるのなら……」
頼りにならないことはままあれど、やはりこうして一生懸命に心配して役に立とうと頑張っているマリアが、結局のところアリーシアはお気に入りなのだっ
た。心配性の彼女に心配するなと言っても結局のところは無理なのだろうとは思いながら、アリーシアはほほえむ。
「ありがとう。じゃあ、コーヒーのお代わりを淹れてきてくれないか?」
その言葉にマリアがハッとカップに目をやった。そういえば、空になって久しいような気もする。言われないと気付かないなんて、と軽く自己嫌悪に陥りなが
ら、マリアははいと答えてカップを下げた。
マリアの姿が見えなくなって、アリーシアは再びため息をついた。今度は自覚がある。もちろんマリアの事を憂いてのものではない。結局のところ、今のア
リーシアの頭の中にあるのは隣国の王子のことだけなのだから。ヒナには気付かれているような気がするが、他の者には気付かれていないはずだ。そう考えるア
リーシアの頭の中には、兄は全く存在していなかった。
姫というものは結構厄介なもので、常に傍に誰かが控えていて、何か言おうものなら次の日には城下に広まっているということも少なくはない。もとより最近
は年頃のお姫様の嫁ぎ先に国中どころか世界中が注目しているといっても過言ではない。だからこそ、アリーシアもアストリスが自分の意思でなく国の意思であ
んなことを言ってきたのではないかと思ったのだが。
深く物思いにふけっていたアリーシア姫は、聞こえたノックの音に飛び上がるほど驚いた。もちろんそれはポーカーフェイスの裏に隠したのだが。
「姫さま、よろしいですか?」
マリアかと思えばそうでもなさそうだ。もちろんヒナではない。だが聞いたことがない声ではないので侍女のうちの誰かだっただろうとは思う。
「どうぞ」
案の定、お仕着せを着た侍女が入ってきた。ダージリン皇国の王城ハヴァノリッツ城では、ヒナ以下選ばれた有能な侍女たちだけがお仕着せを支給されて着る
ことが出来る。社交の場で控えていられるのも彼女たちだけで、この制度により侍女たちの統率が図れたともいえる。
このお仕着せの制度はアリーシアの兄である現王キーズがはじめて定めたもので、それまでダージリン皇国にはお仕着せというものはなく、色の統一もされず
侍女の中にはそれで仕事が出来るのかと言いたくなるような派手なものを着ている者もいた。ダージリン皇国は二百年の歴史を持つ伝統ある国家で、元を辿れば
その地は神話にさえ出てくる。そんな大国の威厳を失わないためというのが理由だが、アリーシアは密かに兄の趣味なのではないかと思っている。とはいえ、そ
のお仕着せを頂くために侍女たちの働きぶりがよくなったのは言うまでもなく、結果は上々であった。年齢や身分に関係がなく、一度頂いても取り下げになるこ
ともあるので特に身分の高い侍女たちは気を抜いていられないのである。
「失礼します」
いかにも真面目な顔つきの、どちらかといえば年配に当たるであろう侍女だった。アリーシアは名前を覚えていなかったが、彼女は確か客人をもてなす役割に
あった者ではなかったか。それもかなり身分の高い……とそこまで考えてアリーシアはまさかと予感をよぎらせた。
「アッサム王国のアストリス王子が面会なさりたいとのことにございます」
息を呑む。アリーシアはしばらく考えている風を装った後、小さくうなずいた。
「わかりました」
すぐに応えては不審に思われる。また、皇女としての威信にも関わるため、こういったことには普段から気をつけていないといけないのだ。あいにくとアリー
シアはこの手の事が苦手なのだが、幸いな事に今ではもう幼い頃からの癖のようなものとなっている。
「謁見の間をお使いになりますか?」
「兄上でなくわたくしとのこと。そこまでする必要はないでしょう。どこか適当な部屋を用意してください。時間は半時後に」
少し話をするくらいなら堅苦しい場こそ失礼に当たる。侍女も少なくていいだろう。彼女ならそこまで指示しなくてもいいはずだと判断したアリーシアは、後
は任せる事にした。本来なら自分で動く方が好きなアリーシアだが、立場が立場ゆえに仕方がないことである。
「承知いたしました」
頭を下げて部屋を出て行こうとする侍女を呼びとめ、アリーシアはヒナを呼んでくるようにと伝えた。
「失礼します。コーヒーをお持ちいたしました」
部屋の外で待っていたのだろう、入れ替わりにマリアが戻ってくる。
「先にご準備をいたしますか?」
そう言ったのは、彼女にしてはよく出来た方だろう。
「いや、とりあえずヒナが顔を出してくれないと話にならない。もらうよ」
「はい」
準備といってもドレスを替えたり髪を結うだけなのだが、如何せんそういったことはヒナに任せきりのアリーシアなので、ドレスや宝石だけでも出しておいて
もらわなければならない。
コーヒーの香りを楽しんで、余裕を持っているように装っているが、実はアリーシアの心臓は先ほどから暴れまわったままだった。考えても何も出ては来ない
と知っているが、アリーシアもマリアも話をふることは苦手とする部類にはいるもの。他にも部屋にはいくらかの侍女が控えているが、お仕着せを着ていない侍
女ばかりで、彼女たちは緊急や伝言等を除いてアリーシアをはじめとする皇族に自ら話しかける事を禁じられている。部屋にはなんとも居心地の悪い空気が漂っ
ていた。
そこへ、ドアをノックする音が割って入った。
「ヒナ・オーレリストでございます」
「入って」
マリアが明らかにほっとしている。
「失礼します。話はリオーネ殿から聞きました。アストリス王子との面会ですね」
リオーネとは先ほどの侍女のことだろう。そんな名前だったかもしれないとアリーシアはぼんやり思った。
「時間はあるのか?」
アリーシアの問いにヒナは苦笑する。
「率直に言えばありませんよ」
だが、そういうヒナの表情は柔らかい。ヒナはアリーシアをマリアに任せ、部屋に控えていた侍女たちのうちの数名を選んで隣接した衣裳部屋へと入る。マリ
アはその間にアリーシアをまた別の部屋にある化粧台へと促した。
しばらくしてヒナとドレスやら首飾り等の入った箱やらを持った侍女たちが入ってくる。
「彼女たちに指示を出しておきましたから、あとはマリア、よろしくね」
「は、はいっ」
たまにとはいえこういった役を承る事の多いマリアだが、毎度のことながら緊張に身を硬くする。それがこの侍女の良いところであるので、ヒナは笑って部屋
を辞した。
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