サファイアの空は誰が為に

 その朝、アリーシアは目覚めてからしばらくぼぅっとしていた。アリーシアは目覚めはよいほうだ。だが、今日ばかりは昨日の事が何度も何度も繰り返し映像 としてよみがえってくるために、どうも頭が上手く起動してこない。
「姫さま、今日はどのお召し物にいたしますか」
 だがヒナはそんなアリーシアにも動じない。
「姫さま? 何も言わないならこっちが決めちゃいますよ」
 そんなヒナにアリーシアはすっかり困ってしまった。いつもはどう答えていただろう。それすらわからないなんて重症だ、そう思う心は確かにしっかりしてい るのに。
 アリーシアはもう二十分と十分すぎる時間をベッドの上でぼんやりと過ごしていた。動こうと思えない。頭の中ではこんな風では駄目だとわかってはいても。
「朝食にはアストリス王子もいらっしゃるそうですよ」
「っ」
 なんでもないことのように言うヒナを恨めしく思う。
「ヒナ…お前、どこまで…」
 もしかして、気付かれているのだろうか。この、想いを。そう危惧して恐る恐る尋ねると、ヒナはにこりと笑った。
「やっぱり姫さまには、春色が似合いますからねぇ」
「ヒナっ」
 全く見当違いの答えにアリーシアは憤りを露わにした。
「はい?」
 だがやはりヒナはさらりとかわしてしまう。
「桃色と若草色とどちらがよろしいですか?」
「…緑」
 ヒナはにっこり笑って少し待ってくださいねと言って出て行った。
「って違うだろっ」
 すっかり流されてしまっていた。ぶつぶつ言ううちに、いつもの調子に戻っていくのに、アリーシアは気付かなかった。
 そうしてしばらくは朝食のことを忘れていたのだった。

「大丈夫です、姫さまは考えなくてもマナーくらい身についてますから」
「どんな根拠だっ」
 リクエストどおりの薄緑色のドレスを身にまとい、広間の前で立ち止まったアリーシア。
「……本当に、大丈夫、なんだな?」
「えぇ、信用してください」
「…その信用が、どうも……」
 丁度信用してきた頃に叩き落される、というのがアリーシアの常だった。兄にしろ、この侍女頭にしろ。それでもアリーシアは、アストリスを信じられないの が彼らのせいだとは思いもつかない。ヒナは自分の今までの行動が、変なところで変に影響してしまったと苦笑する。
「まぁっ! 失礼ですねぇ」
 それでもヒナはそれを感じさせぬよう笑う。どんな事があっても―――ヒナはアリーシアの侍女だ。たとえ自分の身分が侍女頭という王宮の侍女たちをまとめ る立場にあるとしても、ヒナはアリーシアの侍女なのだ。その忠誠は国でなく己の全てを捧げる姫に。
「お客様を待たせてはいけませんよ、姫さま」
 絶対に、言わないけれど。
 自分の前を歩く主人の背を見つめる。対立する相手が……彼女の兄でなければいいと思った。それはきっと、アリーシアにとってつらいことだから。
「おやアリーシア、おはよう。今日も綺麗だよ」
 いつもならここであからさまに顔をしかめるのだが、今日はこの場にはアストリスという客がいた。本当は彼の護衛であるコンスティンも席についていたのだ が、あまり目には入っていなかった。アリーシアは兄を軽く睨むに留めたのだった。
 そのとき、アストリスが席を立った。何事かとぼんやり見ていると、アストリスはアリーシアの傍へと歩いてくるではないか。アリーシアはどうすることもで きずただそこに立っているしかできなかった。
「おはようございます、姫」
「お、はよう…ございます……」
 アストリスがほほえんだ。一気に頬に熱が篭るのを感じ、かといって首をふってそれを覚ますなんてはしたない真似もできず、アリーシアは身動きひとつ取れ ないままに固まっていた。
 アストリスはそんなアリーシアを気にも留めず腕を差し出した。一瞬の後にそれを理解し、アリーシアはためらった後素直にそれをとった。
「あら」
 隣に座るキース王にしか聞こえないほどの音量でつぶやいたのは、王妃マリオナだった。キースはほほえんだままだったが、彼の周りにはどこか冷たい空気が 漂っていた。マリオナは全く気にしていないのだが、彼の後ろに控える侍女などはそわそわと落ち着かなさ気に立っていた。
 アリーシアを席まで送り、アストリスが自分の席まで戻ると、自然と朝食が始まった。
「アリーシア、昨日はよく眠れたかい?」
 突然の問いにアリーシアの肩がぴくりと揺れたのを、王は見逃さなかった。
「え…ぇ、まぁ」
 ますます強くなったキースの背後の冷気を敏感に察したマリオナは机の下から軽くキースの足を踏んでやった。ひくりと一瞬だけキースの頬が引きつったが、 キースは鉄の根性で笑みを絶やさずにいた。もちろん、やった本人であるマリオナもそんなことは微塵も感じさせない。いつもなら気付くアリーシアも、意識が アストリスへと向かっていたために全く気付かずに終わった。

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