サファイアの空は誰が為に

「皇女アリーシア・ルーシェン・ロゼニア様、おなりでございます」
 誰だここまで大げさにしたのは、とそこまで考えてヒナ以外に誰もいないことに気づき、アリーシアは胸の奥でため息をついた。
 室内にはテーブルと椅子が用意されていた。侍女がいくらか壁に沿って控えており、扉の外には近衛兵が控えている。それでも対談にしては十分質素なのだ が。
 部屋の中にはすでにアストリスがいる。椅子に座らず立ったままで待っているのが礼儀だ。
「お誘いありがとうございます」
「こちらこそ、応じていただいてありがとうございます」
 形ばかりの挨拶を終え、アストリスはアリーシアの手を取って椅子へとエスコートする。正直言って面倒だと思っているそんな行為も、アストリスにされると 胸が高鳴ってしまう。アリーシアはポーカーフェイスを貼り付けるのに必死だった。
 すぐに侍女たちがやってきて、アリーシアには紅茶を、アストリスにはコーヒーを淹れて隣の控えの間に移った。テーブルの上にはベルが置かれていて、それ で彼女たちを呼ぶことが出来る。
「明日にはアッサムに帰ります」
 はじめから三日の滞在の予定だった。知っていたが、実際にそうなのだと告げられると、ハッと息を呑んでしまう。
「ゆっくり話が出来るのも今しかないでしょう」
 アリーシアはうなずいた。
「アリーシア姫」
 はいと答える前に、アリーシアはその力強い瞳に捕らえられてしまった。開いただけの唇は、何も告げることはできなかった。
「あの噴水であなたに告げたことを撤回するつもりはない」
 アリーシアの唇が震えた。
「けれど、まだあなたのことを何も知ることはできていないし、あなただってそれは同じであるはず」
 あなたは…私のことを何も知らないだろう? ……そうアストリスに言ったのはアリーシア自身。誰かにそうしろと命じられたわけではない。
 だが、アリーシアの心ははっきりとアストリスを愛しいと叫んでいる。そうであるにもかかわらず、それでもはやり、アリーシアはアストリスを信じることが できないのだ。それがなぜなのか、アリーシアにはわからない。一番戸惑っているのはアリーシア本人だった。
「アッサムは、夏が一番美しい。そのときにあなたを招待したい。そのくらいは許してくれるだろうか?」
「はい」
 言葉はすぐさま声になっていた。本当は今すぐにでもついていきたいのだと、告げることはできたはずだった。けれど、アリーシアの中の何かが告げる。
 彼の言うことは本心なのか? 彼が欲しいのはアリーシア、それともダージリン皇国の王妹? 彼の言葉は彼のもの? それとも国のもの?
 また別の部分が告げる。
 愛している人に例え偽りだったとしても愛しいと言われているのにお前はついていかないのか? 一方的であったとしても、愛している人に嫁げるのは幸せな のではないのか?
 けれど、彼には本当は別の好きな人がいて、彼の王が彼にダージリン皇国の王妹を手に入れろと命じたのなら? 嫁いだ私はどうすればいい? もし彼の言葉 が彼の本心から来るものであっても、これから先のことなど誰にわかるのか。
「姫」
 アストリスの言葉に、アリーシアはハッと現実に帰ってきた。
「そうして、時間をかけてでも、互いのことを知りたいと思う」
 アリーシアはもう十六だ。今までにもいくつかの結婚話が持ち上がったが、王であり兄であるキーズが全て握りつぶしていた。もちろんそれには侍女頭である ヒナも加担し、キーズのあずかり知らぬところで勝手に握りつぶしていたりもするのだが、それはアリーシアは知らない。
 ヒナの意思はともかく、キーズ王にはまだ可愛い妹を嫁にやるつもりはまったくなかった。
 また、まだキーズとマリオナ妃の間に子を授かっていない王家にとって、アリーシアはまだまだ最後の砦であった。ダージリン皇国には皇族以外が皇位につく ことはできない。マリオナ皇妃は貴族出身とはいえ、その血にはほとんど皇家のものは混じっていない。つまり、キーズ王に何かあった場合、次の王になるのは 王妹であるアリーシア姫だった。アリーシア姫が国外に嫁ぐことがあればともかく、今現在ダージリン皇国には皇太子はおらず、皇太子としての役割は姫である ことにより立太子の儀こそ行っていないものの、全てアリーシア姫が承っていた。
 後はアリーシア姫にとって又従兄に当たる、父の従妹の忘れ形見であるフィリツ皇子がいるのだが、主だった後ろ盾はおらず、立太子はされないであろうとさ れている。もっとも、面倒くさいことの嫌いな本人が一番嫌がっているというのは王宮の中でだけの公然の秘密だった。外に漏れると王家の威厳に関わるから だ。
 このように王家であるにも関わらずその人数が少ないのにはいくつか理由があった。
 キーズとアリーシア兄妹の母は元来身体の弱い人であった。それにもかかわらず彼女が先王の皇妃となったのは一重に彼女が王家に近い貴族の出であったこと に他ならない。そうでなければ彼女が皇妃となることはなかったであろうし、また、そうでなければ彼女はもっと長く生きられたであろうとさえ言われている。 王宮という場所は、人の命さえも縮めるほどに華やかである裏に脅威すらも隠し持っている場所なのだ。
 とはいえ、兄妹の父である先王リグルスは皇妃を愛していた。後宮という制度だけは残っていたものの、そこはほぼ先の王、つまりアリーシア姫にとっては祖 父に当たる先々代の王の愛妾たちの住む場所となっていた。皇妃がアリーシア姫が幼少のころに亡くなった後もそれは変わらず、後妻もとることはなかった。そ れ以前に、それだけの余裕もなく、まるで皇妃の後を追うようにリグルス王は先のシッキム帝国との戦で亡くなったのだが。
 また、先王リグルスには腹違いの兄弟はいたが、実の兄弟は妹が二人いただけだった。ダージリン皇国では、皇妃以外の愛妾の産んだ皇子は王位継承権を持た ない。彼らはそのほとんどが国内の領地の直轄権を与えられ、そこで生涯を送るのが普通であった。
「私たちにはあまり時間はない。あなたの場合は特にそうであるはず」
 ともあれ、 跡継ぎとも言えるアリーシア姫が長らく一人身でいるわけにはいかない。本来王家の子供たちには幼い頃から婚約者がいるのが普通であるのだ が、アリーシア姫はその時期に相次いで両親を亡くし、国内外の混乱などで婚約者の話は立ち消えになっていた。また、姫を結婚させるなら当時は国境を閉鎖し ていた、更に両国の間には暗黒の森と呼ばれる深い森林が横たわっているとはいえ、隣の大国であり脅威ともなるアッサム王国の王子と、と周りが考えるのは無 理もないことで、それもいくらかは関わっていた。
「少しは私に時間をくれますか?」
「……はい」
 どれだけ自分が時間を稼げるのか、アリーシアには自信がない。だが、その努力はしたいと思った。アリーシアは信じたいのだ。彼が本心から自分を必要とし てくれているのだと。まだ今は無理であっても、いつか信じられたら、アリーシアはアストリスにこそ嫁ぎたいと思った。

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