サファイアの空は誰が為に
彼の名は、アストリスといった。白銀の光に溶ける髪。磨き上げられた宝石をはめこんだかのような瞳。
アリーシアがかの王子に会ったのは今日が初めてだ。アッサム国の前王ブルーオンが、国境を閉鎖していたために、長い間交流がなかったからだ。
部屋を抜け出し、お気に入りの噴水の縁に腰掛けた。アリーシアはため息をつく。
「馬鹿か私は…」
考えるのはアストリス王子の事ばかり。瞳を閉じると瞼の映る彼の姿。眠れるわけがない。
水鏡に映る少しゆがんだ自分の姿を見る。どうして、こんなにも彼の事を―――?
「何をしている?」
ハッと顔を上げる。振り向けない。この声は―――。
「姫?」
心臓がうるさい。手先が震える。それでも、彼の姿が見たくて。ゆっくり、ゆっくり振り向くと、月の前に彼が―――アストリスがいた。
「眠れないのか?」
一瞬、自分が求めてみた幻なのではないかと疑う。それくらいには、会いたいと切望していた。
だから答えられないでいると、アストリスがふっと笑った。
「眠っていたら、このようなところにはいないか」
「―――どうして?」
どうしてここにいるのかと、問えばアストリスは少しだけ視線を逸らした。
「…眠れなかった」
そしてアリーシアの隣に立つ。
「綺麗な場所だな」
噴水を見上げ、水に手を浸す。
「俺がいては…邪魔か?」
何も話さないアリーシアに何を思ってか、アストリスが話しかけた。
「そんな事…」
アストリスはそうかと言って笑った。アストリスの整った横顔をアリーシアは見上げた。目が合った。
「あ…」
驚きに見開かれたアリーシアの瞳。その頬に手を添えて。腰を折ったアストリスが、アリーシアの目を見据えてささやいた。
「アリーシア姫…」
どきりとアリーシアの鼓動が跳ね上がる。
「一目、あなたを見たときからあなたの姿が目を離れない」
薄く開かれたアリーシアの唇からは、何の言葉も出てこなかった。心臓の音がひどくうるさい。あまりの鼓動の速さに、アリーシアは本気で心臓が壊れてしま
いそうな気がした。
「あなたがいとおしい、アリーシア姫。―――好きだ」
これは、夢だろうか。本当は自分はベッドの中に居て、自分に都合のいい夢を見ているのでは?
「姫? 私の思いは、迷惑だろうか?」
ぎゅっとアリーシアが目を閉じる。こんなにも頬に触れた彼の手のひらの、指の体温が伝わってくる、これが夢であるはずがない。
「何故、そのような顔をする?」
アストリスの顔が切なげにゆがめられた。こんな表情をしてほしいのではないのに。けれどどうしても、アリーシアの心はアストリスの言葉を受け入れようと
はしてくれなかった。こんなことを望んでいるのではないのに。
「ありえない…」
やっとアリーシアの唇からこぼれた言葉は、拒絶。
「姫…」
アリーシアの瞳が伏せられた。
「何故、そのようなことを?」
しばらく言葉が出なかった。
「あなたは…私のことを何も知らないだろう? 私は、あなたが思っているほどすばらしい人間ではない。口も悪いし、王位だって政だって興味はない。好かれ
るような、人間じゃないんだ…っ」
アリーシアは今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。それでも、頬に触れられたアストリスの手は優しくて、到底アリーシアには振り払えそうもない。
アストリスがほほえんだ。アリーシアはそれにすら心を奪われる自分が信じられない。
「では姫、俺がお前の事をもっと知ったなら、問題はないのだな?」
えっと問い返す間もなかった。
「それは丁度良い。もっとお前の事が知りたいと思っていた」
そんなことすら信じられなくて、そう目で訴える。どうしてこんなにも優しい言葉を信じられないのだろう。そんな自分が哀しくて、アリーシアは行き場のな
い気持ちを持て余した。
「隣に座っても、良いだろうか?」
「あ、あぁ…」
つい、いつもの口調で話してしまった事にハッとする。そういえば、もっと前にも。
「実のところ…俺も少し戸惑っている」
アリーシアの隣に座ったアストリスが静かに苦笑した。
「会ったばかりなのに、どうしてこれほどまでにお前に惹かれるのか、俺が教えて欲しいくらいだ」
静かな水音が、ふたりを包む。
「初めてだ、こんなにも人を愛おしいと思ったのは…」
甘い痛みがアリーシアを襲う。どうしてこんなに哀しいのか、誰かに教えてほしい気もするけれど、誰かに話すのすら、とてももったいないと感じた。
そのままふたりは何も話さなかった。けれどその沈黙すら、とても優しい。こんな気持ちは初めてだった。
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