I want to believe you

395.祈る事しか出来ない
(旭川遼哉×森川美並)
 美並はすっかり困ってしまった。特別何かを話すわけではない。特別何かをしているわけではない。ただ、彼がそばにいて くれるだけ。それが、こんなに安心するなんて。
 だからだめなのだろうか、そう思って美並はクッションに顔をうずめた。
「お前が……」
 遼哉の声がして、はっと顔をあげると、真剣な瞳にぶつかった。
「言わへん限りは聞かへんけど、離れとったって、みんなお前のこと心配しとるんやからな」
 優しい言葉に泣きそうになる。けれど、何かを言うことも、うなずくことさえできない。
 言ったらまた、迷惑をかける。心配をかける。
 どうやっても遼哉も千里も浩孝も、ずっとここにいることなんてできやしない。遠いところで心配ばかりかけてしまうなら、一人でじっと耐えていたほうが マシだ。今までそうやって生きてきたのだ。今回だって耐えられる。
 隣にあるこのぬくもり。それを思い出せば、きっとやっていける。泣きそうになるほど温かい。
 おずおずと体を傾けて、体重を預けてみる。やっぱりだめかなと離れようとした体を、遼哉の手が押しとどめた。強張った体から、ゆるゆると緊張がほどけて いって。
「りょう、君……」
「ん?」
 話しかけたけれど、何を話そうとしていたのかすっかり忘れてしまって。もしかしたら、初めから用なんてなかったのかもしれない。けれど遼哉がそれを咎め ようとしないから、美並はそのまま何も言わない。
 それからどのくらいの時が過ぎたのか、遼哉の隣の美並はいつの間にか眠ってしまっていた。幼子のように柔らかに微笑むから、遼哉も動くことはできなく て。
「これで、えぇんやろか」
 余程疲れているのだろう。美並がこれほど離れようとしてこないのは初めてだった。なのに、どうしたのか聞くこともできない。どう聞いていいかわからな い。聞いたところで、何か自分にできるのかもわからない。
「なぁ、美並、お前はこれで、えぇんか?」
 わからない。少しでも美並の望むように、彼女にとって一番いいようにしてやりたいのに、できない。
 これが千里だったら、浩孝だったら、もっとうまくやるのだろうか。けれど、今彼女の隣にいるのは自分であり、そのポジションを例え彼女の親友である千里 にだって取られたくない。
 なにも、してやれないのに。
 譲れない。譲りたくない。彼女の隣。自分だけの安息地。
 どうしてほしいかなんて、美並が自分から言うはずはない。わかっていながら彼女に選択権を与えるなど、正しい選択なのだろうか。
 わからないけれど、そうすることしかできないから。
 今はただ、彼女が目覚めるまで傍にいてやりたい。
 自分も、千里も、浩孝もいなくなってしまった。美並の傍から。何があってもすぐに駆けつけてやれない。
「美並……」
 連れて帰ってしまいたい。傍に置いておきたい。目の届くどころに。でも、そんなことできるはずもない。それは彼女の夢を奪ってしまうこと。自由を奪って しまうこと。
 なのに、この今の状況がこんなにも彼女を苦しめているなんて。なんという矛盾。
 けれど誰も、遼哉も千里も浩孝も、大阪にとどまることはできない。やはり自分たちの夢があるから。やりたいことがあるから。
 それにきっと、そんな事をしても美並は喜ばないだろう。逆に苦しめてしまうだけ。
 もしもこの世に神様が存在するというのなら。
 遼哉は一度も信じたことのないそれを思う。
 もうこれ以上、美並を苦しめないでほしい。
 祈ることしかできないなんて、無力な自分に腹が立つ。けれど美並が目覚めたら、絶対にそれを悟られないようにしなくてはならない。
「……好きやねん。守りたいんや、お前を……」
 どうかその夢の中に、伝わっていてくれますように。
 現実で言われたらつらい言葉も、本心だけの住む夢の中ではきっとあたたかいはずだから。
「いつでもお前のこと、思ってるから……美並」
 眉間にしわを寄せたまま、遼哉もぎゅっと目を閉じた。

420.夜を越えて
(旭川遼哉×森川美並)
 次の日、遼哉は美並を買い物に連れだした。元々誰かと一緒に買い物をすることを得意としないふたりだったので、こう いったことは珍しい。
「買い物って、どこ行くん?」
「あぁ、ちょっとな」
 昨日一日、何をするでもない、話すらまともにしなかったけれど、それは多少なりとも美並の心を癒したようだった。
 遼哉には明確に目的があった。けれどそれがどんな効果を発揮し、またどんな結果をもたらすのか、それは深く考えないように努めていた。
 そうして遼哉に導かれてふたりが入った店は、ちょっとしたアクセサリーショップだった。従弟である浩孝とは違って、あまりそういったものを好まない遼哉 なので、それを知っている美並は首をかしげた。
「りょう君……?」
「お前やって、女やし、こういうとこ好きやろ」
 確かにアクセサリーはかわいい、綺麗だと思う。昔から美並は綺麗なものが好きだ。ただ、ひとりで入る勇気がないからあまり訪れないだけで。もっとも、最 近は千里がこういったものに興味を示し始めたようで、東京に行った時などはたまに一緒に入ったりするようになったけれど。
 もしかしたら、元気づけようとしてくれているのかもしれない、と美並は思った。彼は何も言わない。だから、本当の意味で本当に彼の思っていることを知る ことはできない。けれど、言葉で伝えられるよりずっと多くのことがわかるような気がする。
「……ありがとぉ」
 彼はきっとこういうところは苦手だろうに。そう思うと、自分でも性格が悪いなぁと思ってしまうけれど、美並はなんだか嬉しくなってしまった。
 キラキラと光る店内で、遼哉と美並はほとんど別行動をしていた。ひとりだというのも気恥ずかしかったけれど、仮にも好きな人の隣でアクセサリーを見てい るなんて、美並にはそっちの方がドキドキしてしまっておそらく無理だっただろうし、それは遼哉も同じことのようだった。
 これが綺麗、あれがかわいいと思いながらアクセサリーを見るのと同じように、たまにちらりと、陳列されたアクセサリーにあるのかないのか分からないくら いの興味を示す遼哉の様子を見るのがなんだか楽しかった。
 遼哉といるだけで、こんなにも穏やかな気持ちになれる自分がなんだか可笑しかった。その中に少しの痛みを感じたけれど、美並は無理やり気づかないふりを した。こういう時くらい、全てを忘れて楽しんだって構わないのではないかと思ったのだ。
 しばらくちょうど目にとまったイヤリングを見て、このくらいの値段だったら買おうかな、なんて思っていた美並だったが、不意に遼哉の事が気になって顔を あげた。すると遼哉はすぐには見当たらなくて、辺りを見渡した美並はレジにいる彼を見つけた。店員と何かを話しているようだった。
 珍しいなと思いつつじっと見ていると、別の店員がやってきて美並が見ていたイヤリングを手に取った。別に最後の一つというわけではなかったけれど、何と なくとられたような気分になった美並は、それを買うことはあきらめて別のものを見始めた。

01.僕等の道標
(旭川遼哉×森川美並)
 それからしばらくしてふたりは店を出た。
「りょう君、何か買ったん? レジにおったけど」
「あぁ、ちょっとな。美並、これからどっか行きたいとこあるか?」
 珍しく言葉を濁す遼哉に首をかしげながら、美並は特にはあらへんけど、と言った。
「せやったら、適当に歩いて帰るか。今日はずっと立ちっぱなしやったし、美並疲れとるんちゃうか」
「ううん、疲れてはないよ。千里とやったら、もっと歩き回るし」
 遼哉が小さく笑った。あまりにも想像に容易すぎたのだろう。
「今度、四人で遊びにでも行きたいな」
 美並は遼哉からそう言いだしたことに驚いた。大抵そういったことを言い出すのは浩孝か千里で、遼哉は仕方がないと言いつつ計画を定められないふたりに代 わってそれを立ててやるのが常だった。
 けれど、美並は嬉しかった。遼哉の言葉は自分を心配してのことだろうけれど、それでも昨日までのように卑屈にはならない。ただ遼哉が四人の関係をちゃん と守ろうとしてくれていることがわかって心が弾む。
「そうやねぇ、あたしも行きたい」
 美並がそういうと、遼哉の瞳の色がとても優しいものに変わって、美並はくすぐったい気持になった。
 ふと、遼哉が立ち止まり、一瞬考え込んだ後に美並の手をとった。
「りょう君?」
 遼哉は何も言わない。美並が不思議に思って遼哉の顔を覗き込むと、彼のとても真剣な瞳にぶつかった。それにドキドキしてしまった美並は、それ以上何も言 えず、ただ導かれるまま遼哉についていった。
 少し人気のない所まで行くと、遼哉が立ち止まった。
「……俺も、浩孝も千里も、今はお前の傍にいてやれん」
 美並ははっとした。けれど、何と返していいか分からなかったし、その前になんだか口をはさめるような雰囲気でもなかった。
「そら、お前にとって俺らだけが全てなわけないってわかっとるし、むしろそんなんやったらちょっと困る」
 あまり多くを語らない遼哉が、今、何を言おうとしているのか。何が言いたいのか。いつもと違うこと、は美並に一抹の不安をもたらした。けれど、聞かない わけにはいかない、美並はそう思う。
「せやけど、遠くにおったって、俺は、俺らは、少しでも美並の助けになってやりたいと思う。けど、俺らやって、まだ全然大人になんかてなれへんし、自分の ことで精一杯なことやってたくさんある」
 うまくいくことより、うまくいかないことの方が多いのではないか。思い通りにならないことなんて、たくさんある。
「美並、俺は、お前のことが好きや」
 美並はいつの間にか下を向いていた顔をあげた。けれどその途端、ぶつかった遼哉の真剣な瞳にたじろいだ。
「けど、俺はお前が抱え込んでもうとるもんのこと、少しは理解しとるつもりやし、今の俺にはそれをどうこうすることもできんのもわかっとる。お前にやっ て、何かを求めるつもりはない」
「りょう君……」
「それでも俺は、やっぱり男やし、できればお前の一番の助けになりたいと思うとる」
 そこで一度言葉を切った遼哉は、しばらくの沈黙の後、美並の手をとった。
「付き合ってくれなんて、今の俺にはよう言えん。それだけの責任が取れるほど、俺は大人でもないし余裕もない。美並かて、それは……」
「うん、無理や。やっぱりあたし、りょう君のことは……好き、やけど、付き合うとか、恋人になるとか、そういうんまでは、進むの、無理や」
 遼哉の美並のそれを握る手の力が少しだけ強まった。けれどそれはどこかやさしくて、大丈夫、わかってると言っているかのようだった。
「けど、離れてたら、わかっててもお互いに不安になったり、どうしようもなくなることってあると思う」
「……りょう、君?」
「これ……」
 そう言うと、遼哉はポケットから小さな箱を取り出した。握ったままだった美並の手に握らせる。美並の鼓動がはねた。
「深い意味……は、ないわけでもあらへんけど。どっちかって言うたら、約束とか、証みたいなもんやと思ってほしい」
 遼哉の手が離れていく。美並が恐る恐るそれを開けると、中には思ったとおり、指輪が入っていた。遼哉を見上げる。おそらく先ほどの店で買ったのだろう。 少しも、気付かなかった。
「一応、ペアリングで、俺も持っとる。俺がお前にこれを返せって言わへんうちは、俺はお前のこと想っとる。お前も、俺のこと想ってくれとる間は、別につけろ とか言わへんから、それ、持っててほしい」
 美並は小さく首を横に振った。
「ちゃんと、つける。学校とかある時は、チェーンに通しとく」
「美並……」
 お互いに好きだけれど、恋人ではない。恋人にはなれない。それはまだ、ふたりにとって少し早い。そんな曖昧な関係だからこそ、不安になることはとても多 い。
 近くにいたからこそ続けられた関係。離れてからも、浩孝の存在があったために続けることができていた。けれど、これからはそうはいかない。ふたりをつな いでくれる確かなものはなくなってしまった、だから。
「これ……くすり、ゆび?」
「……つけたらわかる」
 ん、と小さく頷いて、美並はそれを指に通した。
「サイズ、知っとったんやね」
 そう言った美並に、照れ隠しなのだろう、遼哉は答えなかった。答えられなかったといってもいい。けれど、美並はそんな遼哉の事をきちんと理解していたか ら、それで十分満足していた。
「りょう君……ありがとぉ」
「……あぁ」

01.僕等の道標
(旭川遼哉×森川美並)
 美並は遼哉が東京へ戻るバスを見送った後、そのまま家に戻ってきた。左手の薬指に、少しだけ違和感。
「りょうくん……」
 母親も弟たちもいるから、家にいるといっても左手になんてとてもつけられない。だって照れくさいから。それに、家事をするときは絶対にはずさなくては。けれど、この場所でなら、誰もいない自室でなら、堂々とつけていられる。
 もう大丈夫だ。きっともう、大丈夫。彼はここにいてくれている。そう思ってひとり恥ずかしくなった美並の頬が、かぁっと赤くなった。そのとき不意に携帯電話が鳴った。
「わわっ」
 慌てて鞄の中を探る。メールだったので、すぐにそれは切れてしまった。入れている場所はいつも同じなのに、動揺しているせいでうまく取り出せない。
「あ、れ……?」
 鞄の中に、見慣れない箱が入っていた。リングの入っていたそれではない。けれど、箱に書かれた店の名前は同じ。どうしよう、と美並は思った。けれどなんとなく、これを入れたのが遼哉であるような気がしていた。違ったらどうしようと思いながらも、美並はそれを開ける。
「……っ」
 美並があの店で見ていたイヤリングだった。慌てて携帯を手に取る。千里からメールが来ていたけれど、ごめんなさいと呟いて開くのは後にする。
 電話をかけようとして、そういえば彼はバスの中だったと思いなおした。けれど、メールでは何を言っていいかわからない。何から書こう、どうやって書こうと、美並は携帯を握りしめたまま困り果ててしまった。
 長い間、本当に長い間、ただひたすら画面を睨みつけ、結局打ち込むことができたのは、たった一言。
 ありがとう。
 送信してしまってから、ああ書けばよかった、こう書けばよかったと後悔するけれど、今更もう遅い。
「あつい……」
  ぱたぱたと手うちわで風を起こしてみる。だけどますます熱くなっただけのように感じた。携帯を置いてみたり、取ってみたり、開いて、閉じて、また開いて。 ちらりと視界に映った左手の薬指に、とうとう美並はクッションに顔を沈めた。唸ってみる。暫く悶えて、悩んで、そして。
 テーブルの上の鏡の前に座る。真っ赤な顔の自分を見せつけられて、美並は思わず鏡を伏せた。
「もぉっ」
  ずるずるとクッションを引き寄せる。膝の上に載せて、気を取り直して。深呼吸、息を整えて決意を固める。ゆっくりと鏡をたてて、耳を映す。小さく自己主張 する、彼からの気持ち。指輪は、美並を元気づけるため。そこには確かに強い思いが込められているけれど、イヤリングに込められているのは、恐らくもっと小 さくて、温かくて柔らかい気持ち。強い想いも、ささやかな想いも、どちらももらった。
「……幸せ」
 やはり彼しかいない、と美並は思う。彼だから特別。他の誰かでいいわけじゃない。そして多分きっと、遼哉の方もそうなのだと。頑張れる、ひとりでも。だって本当はひとりじゃない。繋がっている人がいるから。
 遼哉からの返信メール。だいぶ時間が経ってからの返信にもかかわらず、書かれていたのは「ああ」というそっけない言葉だけだった。美並にはそれが一番の返事だったのだけれど。

BACK TOP