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274  秘密の電話
(瀬戸忠幸 ×長瀬みどり/長瀬蒼)
 季節はもうすっかり冬へと移行していた。忠幸とみどりはほとんど会えないまま、かといってまったく会わないわ けでもなく、それぞれの立場で役目をこなしていた。
「あぁ、別にええのに。うん、わかった、うん、じゃあまた」
 みどりは受話器を置く。深いため息。
「姉貴? 誰やったん?」
 蒼がテレビゲームをしている手を止めずに言った。
「母さんよ。帰ってくるんやって」
「え……あぁ、姉貴受験生やもんなぁ。うちの親にそんな常識あったんや」
「蒼」
 みどりが顔をしかめて咎めると、蒼はあぁっと声を上げた。
「くそ、負けた」
 再び深くため息をつくと、みどりは自分の部屋に戻ろうとリビングを出て行こうとした。
「なぁ、姉貴。母さんいつ帰ってくるん?」
「再来週の日曜日やけど、どしたん?」
 蒼はコントローラーを床に置いてみどりを振り返った。
「そんくらいなら、俺朝ごはん作ったるで? 昼も購買でえぇし。姉貴受験生なんやけん、もうちょい自分中心に考えぇや」
 みどりは思わず返す言葉を失った。蒼はとても真剣な目でみどりを見上げている。いつまでも幼いままではないのだ。自分と同じように、あるいはそれ以上に 蒼は成長している。
「……ありがと」
 軽い眩暈のようなものを感じて、みどりはそれだけ言うとリビングを出て行った。蒼はそんな姉の姿をいつものことと、再びテレビに向き直った。
 自室に戻ったみどりは、ふと机の上に置かれているいくつかの大学の志願票を見た。
 地元の大学だけではない。念のために取り寄せて置くようにといわれて取り寄せた県外の大学。みどりは初めてそれを意識した。かといっていこうかと考えた わけではないのだが。
 不意に携帯電話の着信メロディが流れた。開いて画面が告げる文字にどきりとする。
「はい」
「先輩? 夜分すいません」
 忠幸の声。変に心臓が暴走していた。自分でも何を言い出すのか、どんな声を出してしまうのかわからず口を開けない。
「先輩?」
 たっぷりと沈黙の時間が過ぎ、忠幸が再び呼びかける。
「いえ……どうかしたん?」
「や、その、声……聞きたかったんです」
 とても変な気分だった。脳みそをぐちゃぐちゃにかき回されているような感覚。どうしてとは思うけれど、答えを考えるには思考はもつれすぎていた。
「邪魔するつもりはないんで、ちょっとだけ、しゃべってもえぇですか?」
「かまんけど……」
 電話の向こうで微笑む忠幸の姿が目に浮かぶ。逆流していく血。
 忠幸は最近読んだのだという本の話を始めた。それはみどりも読んだことのある本で、話しているうちに夢中になった。あの本の世界でみどりが感じたこと、 忠幸が感じたこと、話して聞いているうちに再びあのときの感情の変化が思い出されてくる。再び読みたくなってくる。みどりは多いに満足していた。
「姉貴ー」
 突然みどりの部屋の扉が開いた。入ってきたのはもちろん弟の蒼。
「っ?」
 わかってはいても、予測できなかったためにすくみあがってしまった。
「先輩?」
 電話の向こうから聞こえる、自分を心配する声。だがみどりは返事ができなかった。なぜか、蒼に知られたくないと思った。
「あ、わり、電話中? 後で来るわ」
 蒼はすぐに出て行ったけれど、みどりは落ち着かない心臓を必死になだめていた。
「どうかしたんですか?」
「なんでも……。弟が急に部屋に入ってきただけ、よ」
 そう、それだけだ。なのにどうしてこんなにも動揺しているのだろう。みどりは自分が信じられなかった。
「あぁ、なんか言うてましたね、弟さん居るって。ええですよね、俺、兄貴居るだけですもん、羨ましいですよ」
 ほら、忠幸も動揺などしていないではないか。
「何しとんでしたっけ、サッカー?」
「そう」
 それから少し兄弟の話になって、あまり長電話してもいけないからと電話を切った。
 もう何の音も伝えてこない携帯電話を眺め、小さくため息をつく。一瞬ためらって電話を机においてから、みどりは隣の蒼の部屋を訪ねた。
 ノックするとすぐに返事が返ってくる。
「電話終わったんか?」
 みどりはなぜか蒼の部屋に足を踏み入れることを躊躇した。
「なんか用やったんやないん?」
「んー大したことやないで? 冷蔵庫開けたらプリンあったから差し入れしちゃろうかってな」
 みどりは小さく息を呑む。
「受験生、やもんなぁ姉貴。俺なんか終わったばっかやのに。お袋も、俺ん時は帰ってこんかったのに、やっぱ大学受験って違うんかね」
 ベッドの上、漫画を胡坐をかいた膝において呟く蒼。
「そういや、電話誰からやったん? 秋子さん?」
「あ、あぁ……まぁ」
 違うのだと、彼氏からなのだとみどりは言えなかった。
「ふーん。んで、プリンいるん?」
「……貰うわ」
 わかったと蒼は立ち上がる。みどりもそのまま部屋に戻った。すぐに目に付いたのは携帯電話。そっと手にとる。着信履歴の一番上に書かれた名前。ハッとみ どりは携帯電話を閉じた。勉強しなければと問題集を開くものの、身には入らなかった。

271 神は僕らを切り離す
(瀬戸忠幸×長瀬み どり)
 その知らせが舞い込んできたのは突然のことだった。
「長瀬、今すぐ県病院に来い!」
 克己の叫びにも似た言葉に、みどりは財布と携帯電話だけをバッグに詰めて家を出た。
 とても嫌な予感がする。心臓が変な方に高鳴って、嫌な汗が体中を伝う。市内電車がとても遅く感じる。自転車で行くよりずっと早いと頭では理解していて も、どうしてもいらいらしてしまう。連絡がないかと携帯電話を握り締め、けれどそれは何の知らせも寄越さなかった。
 電車を降りて、ただ走る。電車の中でじっとしているよりずっと気が紛れた。風は身を切るほどに寒かったけれど、それはみどりを足止めする力にはならな かった。
 病院の前に克己が居た。その名を呼ぶ前に克己はみどりに気づいた。
「こっちや!」
 すぐさま克己はみどりの手を取った。
「待って、何があったん!」
 一瞬だけ、克己の足が止まる。克己は答えなかった。
 エレベーターを待つ間、嫌な沈黙が二人の周りを包む。エレベーターのついた音とともにそれに乗り込み、克己はまっすぐにみどりを見た。
「落ち着いて聞けや。瀬戸が、事故に遭ったんや」
 みどりは声も出せずにただ息を飲んだ。足元にぽっかりと穴が開いたかのような感覚に陥る。けれど、みどりは克己から視線をそらさなかった。
「それで?」
 克己がきつく唇をかむ。
「岩山君!」
 それが、まるで何もかもを悪い方向へと思わせてしまう。希望と絶望が入り混じってとても変な気分だ。
「……会いたがっとる、お前に」
 息を詰まらせる。みどりは、今度こそ本当に言葉を失った。克己も何も言わない。
 エレベーターから降り、みどりは克己に先導されて病棟を歩いていた。通り過ぎていく病室。その中の一室の前で克己は止まった。ノックすると女の人のかす れた声が返ってきた。
 克己が扉を開け、みどりに道を開ける。けれど、みどりは足を踏み出せなかった。白いベッド。泣き崩れた男性と女性。忙しく動く医師や看護士。
 克己がみどりの背中を押し、それがきっかけでみどりは病室に足を踏み入れた。男性が静かに会釈してきたので、みどりも返す。すると彼は腕の中で泣いてい る女性を促し一歩引いた。
 ゆっくりとみどりはカーテンを引く。
「せ、んぱ……?」
 かすれた声。けれどその声を聞き間違うことなどない。
「瀬戸、君……?」
 駆け寄ることもできず立ち尽くす。身体のほとんどは布団に隠れていたけれど、ひどい有様だった。
「目、閉じ……、見な……ほうが」
「嫌よ」
 目を閉じたほうがいいと、見ないほうがいいと言う忠幸の言葉をきっぱりと断った。知らず知らずのうちにみどりの目に涙が溜まっていた。
「どうして……」
 一歩、また一歩忠幸に歩み寄り、みどりは包帯を巻かれた忠幸の頬に触れた。
「子ど……もが……」
「え?」
「子供を、助けたんや、そいつ」
 後ろから克己の声がした。
 忠幸は突然歩道に突っ込んできた乗用車から子供をかばったのだ。克己がそこを通りかかったのはその一時間は悠に越えた後で、噂で同じ高校の生徒が轢かれ たのだと集まっていた人々の噂で聞き、慌てて学校に連絡し自分も病院に向かった。そこで知った被害者の名前に、克己は絶句するしかなかった。知り合いでは 済まされないほどよく知った人の名。
 克己はすぐさまみどりに連絡を取った。そのうちに忠幸が目を覚ましたと看護士に告げられ、面会した克己に忠幸はただ、みどりに会いたいと言ったのだっ た。
「好き、です……、みど、りさん……」
「瀬戸君……?」
 弱々しく忠幸の手がみどりへと伸ばされる。
「何……?」
 忠幸は痛みを堪えてみどりを引き寄せ、自らも少し身体を起こした。数瞬に満たないほどほんの少しだけ、忠幸の唇がみどりのそれに触れた。みどりが驚いて 身体を硬くしている間に、忠幸の身体は力尽きたようにベッドに戻る。
「すみ……ませ、じか、ん、なさそ……なんで……」
 少しずつでえぇけん、俺のこと、好きになってくれたら、それでえぇです。
 そう忠幸が言ってから二ヶ月も経っていないのに。
 みどりは激しく首を振った。
「好き、よ……っ」
 忠幸が小さく微笑む。それすら痛みににじんでいたけれど。
「やけん……っ、そんな、気弱なことっ」
「長瀬」
 肩に置かれた克己の手をみどりは払いのける。克己はそれに悲しそうな顔をして、けれど何も言わなかった。
「瀬戸く……忠幸っ」
「名前……呼ん、で、くれ……、ですか……?」
「名前くらいいくらでも呼ぶけんっ、やけん!」
 けれど、みどりも心のどこかではわかっていた。忠幸は助からないのだと。だがどうしてもそれを否定したくて、だから忠幸に訴える。
 みどりの背後で、母親であろう女性の泣き声が響いた。
「みどりさ……」
 手を伸ばす忠幸の意図を、みどりは自然と理解した。その手をとり、ためらったのは一瞬だけ、みどりは忠幸に口付けた。そうしていれば、命の息吹が移ると でもいうかのように、少しだけ長く。
 少しだけ顔を離したみどりに、忠幸は微笑んだ。克己がハッとして背後を振り返った。そして道を開ける。
 みどりが床に膝をついた。忠幸の手を握る。逃がさないとばかりに。克己がみどりの隣に立つ。
「瀬戸……」
「忠幸! 忠幸!」
 克己の呟きと、女性の叫びと。そしてみどりは一度は両親を見て微笑んだ忠幸が、再び己に向き直り、その唇が声にはならず己の名を呼ぶのを見た。ゆっくり と閉じていく瞳。医師たちの慌しげな動き。
 もう、しっかりと目を閉じたみどりの中には、どんな物も音も入ってはこなかった。
 みどりは、克己がその手をそっと離すまで、ずっと忠幸の手を握っていた。

 克己はみどりを病室の外に連れ出した。あれ以上あの場に居てはみどりがつらいだけだと判断したのだ。
「生徒会長さん……ですね?」
「あ……忠幸の……」
 みどりに話しかけてきた男性は静かにうなずいた。席をはずそうとした克己を手で制し、忠幸の父親は赤い目を隠そうともせずに小さく笑った。
「息子が、お世話になりました」
「いいえ、あたしは……!」
 男性は静かに首を振った。
「あいつは、何も話そうとせんかったんですよ。学校のことも、友達のことも。ですがね、あなたのことだけは口にした。生徒会長ががんばってるのに、助けな いわけにはいかない。いつか彼女のようになりたい。彼女の跡を継ぎたいと」
 みどりも克己も、ただ静かに男の語ることを聞いていた。
「数ヶ月前、ですか。ぽつりぽつり言っていた生徒会長さん……あいつが話すとき、“彼女”はいつでも生徒会長だったんですがね、ぱったり言わなくなって、 同時にそれまで何にも興味を示さんかったあいつがいつも楽しげに笑うようになった。あぁ、生徒会長さんとなんかあったんやと思いました。申し訳ない、私は あなたの名前を知らんのです」
 みどりは溢れる涙を抑え切れなかった。克己も握った拳が震えている。
「あいつは結局、あなたと何があったのか、まぁ予想はつきますけどね、何も言わずに逝きましたよ。けどね、それが一番あいつらしい気もするんですよ。…… 最期まで忠幸のそばに居てもろて、本当にありがとうございました」
 男は最後に深く頭を下げた。みどりは何か言いたいのに何も言えず、けれどそれは男に伝わっていたのだろう。全てを堪えて作った笑みでみどりに微笑み、克 己に向き直った。
「あなたにも、感謝しとるんですよ。あなたがいなければ、あいつの望みは叶わなかったでしょう。ありがとうございました。最期まで、忠幸が迷惑かけてすん ませんでした」
「……俺は、知っとったんです。あいつと、こいつが付き合っとるって。やけん気ぃついたら連絡しとった、それだけなんです」
 さらに先を言おうとした言葉は、涙で詰まってしまった。男も何度もうなづき、けれどもう言葉を出すことすら叶わないようだった。
「家内が、待っとりますんで……行きますわ。通夜と葬式と……来てやってください」
 それから男はふとみどりを見た。
「お嬢さん、名前を……教えといてください」
「長瀬、みどりです……」
「そうですか。みどりさんですか。えぇ名前や。本当に、ありがとう」
 男は会釈して病室へと戻っていった。
「この世に……神がいるというのなら」
「長瀬?」
「残酷すぎる……」

185 君のいた部屋
(瀬戸忠幸&長瀬み どり)
 その日、校内は騒然としていた。生徒会長がいなくなったために、生徒会も混乱、急遽前生徒会長のみどり、前副 会長の克己をはじめとする有志の前生徒会役員三年生も加わり、小会議を開いた。そこでのみどりは、唯一全ての事情を知っていると言っても過言ではない克己 さえも舌を巻くほど毅然としていた。
 生徒会長の座は副会長が就任、副会長は生徒会役員二年生の中から選出し、二人は後日生徒に承認をもらうという形になった。とはいえ、まだやることはいく らでも残っていた。みどりはそれに積極的に参加し、克己も前副会長を名目に生徒会室に留まっていた。
「萌香、臨時用の保存ファイルとってくれん?」
「はいっ」
 全校生徒に承認されるまでの代理の会長。その肩書きを持って、みどりは久々に生徒会長の椅子に座っていた。
「みどり先輩、会長と副会長の証人の用紙できました」
 綾奈がそのサンプルを見せに来る。みどりはうなずいた。
「一年生にコピー頼んで」
「はい」
 綾奈と入れ替わりに萌香がファイルを手にやってくる。
「先輩、これですよね?」
「えぇありがとう。あぁ、萌香?」
 少しだけ目の赤い萌香。それにみどりは気づかないふりをする。少しだけ胸が痛んだが、おとなしく先の言葉を待つ萌香がいる以上それに構ってなどいられな い。
「この件で使ったプリント類全部」
 みどりはそこで言葉を切って萌香を見た。
「あ、はい、そのファイルですね」
 みどりは少しだけ微笑んだ。
「先輩?」
 それをいぶかしんだのだろう、萌香が首をかしげる。
「らしくなってきたやないの」
 入ってきた頃は正に右も左もわかっていなかったというのに。萌香が照れたように笑った。
「やって、いつまでも頼るわけにはいかんやないですか」
「そうよ」
 みどりはゆっくりとそう答えた。
 時間が経つにつれて、だんだん役員たちも帰っていく。最後まで残ったのはみどりはもちろんのこと、克己と萌香、綾奈だった。
「さて。熊田、小石。お前らそろそろ帰れや」
「え、けど」
 机に向かっていた萌香が声を上げ、綾奈もパソコンから顔を上げた。
「えぇけん、帰るで。みどりさんも、ほら」
「ちょっと、岩山君?」
 克己にはわかっていた。どうせみどりはあの日からほとんど寝ていないのだろう。まだ数日しかたっていないのに、飛ぶように時間は過ぎていった。けれどど んなに早くとも時間の長さは変わりはしない。これ以上みどりを働かせるのは、そして暗い中を帰らせるのは危険なこと極まりない。
 それだけではない。静か過ぎる生徒会室。みどりにはつらい場所に他ならないに違いない。
「とりあえず明日の臨時集会は何とかなるやろ。今日はハードやったんやけん、そろそろ切り上げんと明日こそ大変やのにどうするんぞ」
 萌香と綾奈は顔を見合わせ、綾奈はデータ保存を、萌香もファイルやらノートやらを片付け始める。みどりはため息をつき、作業をキリのいいところまで終わ らせるためにペースを速めた。
 やがて綾奈や萌香は作業を終えた。克己ももう荷物を手にしている。あとはみどりを待つだけ。
「あぁそうやわ」
 みどりは机の上に置かれたプリントから目を離さないままに言う。
「時間余るやろうけん、明日の集会で生徒会に来た意見公表しようと思っとるんやけど」
 その時点でさっと綾奈が動いた。みどりの言いたいことがわかったからだ。
「あれ書いた紙どこにやったん、瀬戸く……」
 ハッとみどりが口をつぐむ。
「先輩……」
 萌香のつらそうな声。綾奈もクリアファイルを手に持ったまま動けないでいる。
「……小石が持っとるやつやろ」
 克己が静かでつらい空気に口を挟む。ハッと綾奈が動き出し、みどりにそれを差し出した。
「ありがと。これ、見てから出るけん、先帰っとって」
「でも、先輩!」
 萌香が戸惑いの声を出す。みどりが残るなら、萌香や綾奈が残らないわけにはいかない、少なくとも彼女たちはそう思っている。
「……帰るで、二人とも」
「岩山先輩?」
 萌香の隣に戻った綾奈が克己を見上げる。
「ほら、行くで」
「……行こっか、萌ちゃん」
「綾奈……」
 萌香がしばらくしてうなずいた。
「じゃあ、先輩……お先に」
「お疲れ様でした」
「……はよ、帰れよ。また明日な」
 萌香、綾奈、克己の順にみどりに声をかけ、みどりもえぇ明日と答える。それから三人は黙って生徒会室を出た。
「……お前ら、知っとったんか?」
 克己は薄暗い廊下を歩きながら言った。
「そうなんやないんかなって、言っとったんです、二人で」
 それに萌香が答える。
「あたしらやって、噂がほんとやって思っとったし、違っとったらいかんけん聞かんかったんですけど」
 綾奈も付け加える。岩山克己と長瀬みどりは付き合っている。根強い噂と、けれどいつからかどこか変わってしまった瀬戸忠幸と長瀬みどりの互いを見つめる 視線の温度。こんな形で真実を知ろうとは思いもしなかった。

 静かな生徒会室。外はもう暗い。見えているものは何もかわらない。けれど、みどりの座っている椅子は、今彼女が座っているはずではなかったはずのもの。
「……っ」
 わかっている。いるはずなどない。いくらいつも彼を見ていた場所だからといって、彼がここに帰ってくるはずはない。
 夕方のうちは、やることが多かったから気を引き締めていた。だから大丈夫だったけれど。自然と彼を頼っていた自分がいたことに驚く。
 まただとみどりは自らを嘲笑する。もう出し尽くしたと思った涙は、まだこんなにも溢れてくる。彼の居た生徒会室にいること、ただそれだけのことがこんな にもつらいだなんて。けれど、この場所から動けないのはなぜだろう。
 みどりはシャープペンシルを持つ手を放した。椅子にもたれかかる。ほんの数日前まで彼の座っていた椅子。その背に顔をうずめ、こみ上げてくるものをやり 過ごそうとした。けれど、けれど。
「忠幸……っ」
 その名前を呼んだのも、キスをしたことさえ、あの日が最初で最後。なにもかもが、足りないと思った。

019 アルファにしてオメガ
(白 石達哉×長瀬みどり)
「もう、あの場所にはいられなかった」
 彼の居た学校。彼と行った場所。彼のために走った、道。
 みどりは進路を変えた。どこか、もっと遠くへ行きたいと思った。彼に繋がる全てから、離れてしまいたかった。それだけを思って、ただ勉強した。何かをし ていれば忘れられた。
 秋子は何も言わなかった。慰めの言葉も、同情の言葉も何も。けれど一度だけ、「みどりの彼氏としての会長さんと話したかったわ」と言った。秋子が知って いたなどみどりは知らなかったし、知っていたにも関わらず秋子が何も言わなかったことにも驚いた。
 けれどそれだけ。それがどれだけありがたかったのか、秋子はわかっているのだろうか。
 秋子はそのまま地元の大学に進み、克己は広島へ。みどりは東京に出た。去年高校を卒業した綾奈や萌香も秋子と同じ大学へ進んだ。あれから、二年以上の月 日が流れていた。
「恋なんて……もう、するつもりはなかった。だけど、あの曲を……あの曲を聴いて……」
 達哉の弾いたノクターン。あふれ出すように閉じ込めていた忠幸との記憶が蘇った。
「ごめんなさい。私は、あなたと忠幸を……」
「そんな風に、思わないほうがいいよ」
 達哉は静かに笑った。
「強いね、みどりちゃんは。ちゃんと先に進もうとしてる」
 みどりは激しく首を横に振った。いつだって、心にあったのは忠幸だったのではないか。長瀬みどりは、白石達哉を白石達哉として見たことがあっただろう か。みどりには自信がなかった。
「いつ失うかわからない。だから、みどりちゃんは俺に告白してきた。違う?」
「それは……」
 そうかもしれない。だけどそれは、口を滑らせた、に近いことなのではないのか。
 だが、達哉はやわらかく微笑んだ。
「でも、それは悪いことかな? ちゃんと言葉にして気持ちを伝える大切さを、みどりちゃんはよく知ってる。それはすごいことだよ」
「でも、そのせいで……っ」
 みどりの言葉を、達哉は遮った。そっとみどりの手に自分の手を重ねる。
「俺はね、大切にしてほしいよ、それを。大切な人を失って、すぐに振り切れなんて、きっと無理だ。俺は幸運なことにそんなこと経験したことないから、わか らないけどね」
 達哉は立ち上がると、ピアノへ向かった。みどりを手招きする。戸惑いながら、みどりは達哉の元へと歩む。
 達哉はピアノへ向かい、白い鍵盤に指を置く。ゆっくりと紡ぎ始めたその曲は。
「ノクターン……」
 震えがみどりを襲う。瞬きをした瞬間に涙が零れ落ちた。けれど達哉の指は止まらない。短いようで長いその曲を聴きながら、みどりの中にはいろいろな想い が渦巻いていた。
「みどりちゃんに贈るよ」
 曲が終わって、達哉はゆっくりと言った。
「人はね、誰かを踏み台にしないと成長できないんだ。そうやって、少しずつ何かを学んでいって、やっと一人前になれるかなれないか。……俺はそう思う。俺 だって、今までいろんな人を踏み台にしてきた」
 達哉はみどりを見上げた。
「みどりちゃんは、多分人一倍傷つきやすいんだね。喪う痛みを知ってるから。それに、誰かを傷つけたり悲しませることが許せない。だから、すごくつらいん だと思う。けど、俺はそのままでいてほしい。俺とダメになったことを引きずってほしくはないけど、その痛む気持ちを……」
 みどりの頬を涙が伝い、落ちた。それは忠幸を想う涙ではない。
「忘れないで」
 正真正銘、白石達哉へ向けられた涙だった。

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