Teach me love

016  空が泣いている
(瀬戸忠幸 &長瀬みどり/長瀬蒼)
「ほんなら、あたしはもう明日からは来んけんね。自分らでやりぃよ」
「はい。ありがとうございました」
 軽く頭を下げてくる忠幸に、みどりが微苦笑を浮かべた。
「えぇよ、こんくらいはね」
「でも先輩、たまには顔くらい出してくださいよ?」
「こらこら萌ちゃん、先輩受験生なんやけん」
 綾奈が萌香を咎めるが、やはり少し寂しそうな表情をしている。
「あんたらの邪魔するわけにはいかんけん。もうあんまり来るつもりはないけど、気には留めとくけんね、あんまり気ぃ抜いてやらんように」
「先輩……」
 萌香が瞳を潤ませる。
「頑張んなさいよ」
 やわらかい笑みで萌香の頭を撫で、綾奈の肩を叩く。
「あんたらもね」
 他の生徒会役員にそう言うと、みどりは生徒会室を後にした。
「みーどり」
「……秋子」
 しばらく行った廊下の先に、秋子が壁に背を預けて立っていた。
「お疲れさん」
 みどりは肩をすくめた。
「寂しい?」
「そりゃあ、少しはな」
 秋子が楽しそうに笑う。校舎を出る。外は雨が降っていた。パッと傘を開く音が二つ。
「けどさぁ、みどり本当に県外出んの? みどり頭いいんやけん、頑張ったらどこでも行けるやろ? もったいないわ」
 少しだけみどりの表情が曇る。
「説得しろって?」
「あたしがそんなん受けるはずないやろ」
 秋子の瞳が少しだけ怒気を帯びる。みどりはため息をついた。
「みどり……。蒼君のこと?」
 そうこうしているうちに校門へとたどり着いていて、みどりは黙ってそこを潜り抜けて行った。
「蒼君やって、高校生やで?」
「あんたは、あたしに県外に出てほしいの?」
 みどりの足が止まる。秋子も立ち止まった。
「ちゃうよ、一緒の大学行けるんやったら、そっちの方が心強いしえぇけど。やけど、みどりにはいろんな可能性があるやん。あたしよりずっと……」
「秋子!」
 鋭い咎めに秋子は口を閉じた。けれどそう思っているのは本当だ。みどりは秋子が自分を卑下することを好まないけれど。
「……あたしは、みどりが決めたことやったらそれでえぇとは思うけど……」
 もっと自分のもっている可能性を自覚してほしい。秋子はそう思っていた。

 電話の音。みどりはコンロの火を止めてリビングに行き、放置されている携帯電話を手に取った。
「はい」
「……先輩?」
 聞こえてくる声。名前が表示されていたので誰からかはわかる。忠幸だ。
「どしたん? 何かトラブルでもあったん?」
 忠幸が電話の向こうで苦笑した。
「彼氏が彼女に電話かけたらいかんのですか?」
 みどりはハッと息を詰まらせる。なんと答えていいかわからない。つい実感がなくて、忘れてしまうことの方が多い気がする。謝ろうと口を開いたが、忠幸の 声の方が早かった。
「まぁそれはいいんですけど。話、してもいいですか?」
「今、夕食作っとるんよ……」
 とても申し訳ないとは思うけれど、それをうまく相手に伝えるだけの言葉をみどりは知らなかった。そんな自分が腹立たしい。クレームをつけてきた相手を説 得する言葉を知っていても、何の役にも立たないのだと思い知らされた。
「あぁ……そうなんですか? 俺、邪魔しました?」
 気兼ねさせている。声だけだからこそよくわかった。
「別、に……」
「すいません。愚問でしたね。気、使わせてしもてすいません」
「いえ……」
 うまい言葉が見つからない。
「またかけます。おやすみなさい。ってまだ早いっすけど」
「えぇ、おやすみなさい」
 切ってからハッとする。文化祭楽しみにしとるけんね。……このくらいの言葉を掛けてあげられたらよかったのに。
 みどりは自分の愚かさにため息をついた。
「ただいまー。もう最悪や、めっちゃ濡れたし」
 玄関のドアの開く音。みどりは慌てて携帯電話をエプロンのポケットに入れた。キッチンへと走る。何も悪いことはしていないのに、知られたくないと思って いる自分がいる。
「姉貴、早いな。どしたん?」
「あたしやって受験生なんやけど」
 何か変なところはないだろうか。切り替えはしたつもりだが、変に緊張している自分がいることをみどりは感じていた。
「あぁ、そうか。生徒会も引退したんやったっけ」
 どさりとソファに座り込む音。
「たまには手伝っちゃろか?」
 リビングから呼びかける声。
「もう出来たけん、かまん」
「ほうか。ほんならそっち行くわ」
 やがて、弟の蒼が顔を出す。確かに秋子の言うことも間違いとは言えない。その姿を確認して、みどりは思った。県外、確かに教師からも何度か言われたことはあったが、真剣に考えたことはなかった気がする。
 みどりは小さくため息をついた。
「何なんぞ」
 様子のおかしい姉の姿に、蒼は訝しげに眉をひそめた。
「別に、受験のこととか」
「……ふぅん。大丈夫やって、姉貴やったら問題ないって」
 弟は何でもなさそうに笑う。
「それよりあんた、先にお風呂入らな風邪引くんやない?」
「あー……じゃあ入ってくるけん、晩飯ちょっと待ってや」
「はいはい」
 だが、みどりにため息をつかせた原因はそれではなかった。やはりみどりには忠幸の恋人であるという自覚がどうしても持てない。県外に出ないのは恋人のた めかと聞いてきた克巳。けれどそこにはそんな意図はなかったし、今でも結び付けて考えることが出来ない。
 ポケットに入れた携帯電話をちらりと見て、みどりは蒼に気づかれないようにため息をついた。

021 秘密基地で待ってる
 文化祭は無事に成功を向かえ、みどりや克巳の心配も杞憂に終わった。これでやっと任せていけると思えるように なった。
「おぅ、お前ら! お疲れ」
「岩山先輩! もぉ、びっくりするやないですかー。ノックして入ってくださいよー」
 頬を膨らます萌香に苦笑して悪いと謝り、手に持っていたスーパーの袋をどさりと机に置いた。
「これは三年一同から差し入れじゃ、喜べ!」
「あ、ありがとうございます。すいません、何か」
 口々にお礼を言いながらわらわらと差し入れに群がる生徒会役員を横目に、忠幸は苦笑しながら言う。
「おぅ、お前も早く取っとけや、無くなっても知らんぞ」
「頂きます」
 そのとき、再び生徒会室の扉が開いた。
「やっほー、お邪魔しまーす」
「秋子先輩!」
 逸早く反応してドアへ向かったのは萌香だ。ドアからは秋子が顔をのぞかせている。
「やー、萌ちゃん久しぶりー」
「お久しぶりです、先輩」
 続いて綾奈もドアへ向かう。
「綾ちゃん! 会いたかったよ!」
 楽しそうに綾奈の頭を撫でる秋子に不満の声を上げるのは萌香。
「ちょ……先輩! 何か対応違いません?」
「あはははは、気のせいだよ気のせい。愛に差は無い!」
「……邪魔」
 冷静な声が割って入った。呆れたような、怒っているような、けれどどこか暖かい声。
 忠幸がハッと顔を上げた。さすがに顔をそちらに向けるまではしなかったけれども。それをしっかり見ていた克巳が意地悪く笑ったのを見た者は誰もいなかっ た。
「みどり先輩!」
 萌香が再びパッと笑顔を咲かせる。だが、一瞬だけ微笑んだみどりの次の言葉はキツかった。
「邪魔やって言うとるやないの、中に入りなさい。声外まで響いとるんやけん、ドア閉めんと他に迷惑やろ。ほら、入る!」
 萌香も綾奈も苦笑して秋子とみどりが入れるだけ中に入るしかなかった。生徒会室の中へと足を踏み入れたみどりは、後ろ手にドアを閉めた。一瞬克巳と目が 合って、彼が意味ありげに笑うのを無視する。
 隣でにやにやと秋子が笑っている。
「相変わらず厳しいなぁ、みどり先輩?」
「あんたいつから後輩になったんよ、秋子。留年でもするつもりなん?」
 けれどやはりみどりは手厳しい。一瞬にして秋子が顔面蒼白になった。
「……洒落にならんけんやめてください」
「あら、あんたそんなにヤバいん?」
 楽しそうなみどり。秋子はなんと返そうか迷いに迷った末、結局言葉は浮かばなかった。
「……あははははー」
「先輩、逆にバラしてますって!」
「うるさいぞ萌ちゃん! 君は大丈夫なのかっ?」
 ターゲットを発見したとばかりに声が高くなる秋子。それは彼女が機嫌が良い証だ。
「……危ういといえば危うい、ですけどー」
「ほらー」
「ほらーじゃないわよ馬鹿」
 みどりの痛いため息に、秋子は再び言葉をなくす。
「みどり先輩、それ何ですか?」
 突然綾奈がみどりに問いかけた。一瞬戸惑ったものの、綾奈が指差している先にあるものを確認し、あぁとうなずく。
「忘れとったわ」
「みどりさーん。本当そのギャップ激しすぎやろ」
「岩山君。そういえばおったわね」
 ひどい扱いに克巳は苦笑し、がくりと肩を落とす。
「さすがにひどいやろ、みどりー」
「……あんた気付いとったん?」
 しばらく沈黙。騒がしかった生徒会役員も静かに事の成り行きを見守っていた。
「……あははははー」
 秋子はある意味で期待されていたであろう答えを返した。克巳が頭に手を当てて座り込む。隣にいた忠幸はそれに気付いたが、他はもしかすると気付いていな い人のほうが多いのではないか。
「災難っすね」
 さすがに声をかけないのはまずいかと掛けられた忠幸の言葉は、更に克巳を追い込む。
「言うな」
 だが、彼と秋子が付き合っているというのは本当に本当なのだろうか。みどりが言っていた以上、そんな類の冗談を言わない彼女のことだ、本当のことなのだ ろうが、どうもそんな雰囲気が無いのは気のせいか。
「あぁそう、これね。差し入れ」
「みどり先輩からもですか?」
 机の上には克巳が持ってきたパンの差し入れがある。三年一同からと言っていたような気がするのだがと不思議に思った綾奈が問いかける。
「あぁ、岩山君とは別」
「手作りだぞ」
 ぼそりと告げられた克巳の言葉は、忠幸にしか聞こえなかったことだろう。おそらく克巳もそれを狙ってのことだ。顔を上げた克巳が忠幸を見上げてにやりと 笑う。
「先輩……知って……?」
「わぁ、ケーキやないですかー! 手作りですかっ?」
 萌香の声に他の役員たちが歓声を上げた。立ち上がった克巳はそれを楽しそうに見ていた。
「みどり、お菓子作り上手なんやでー。自分が好きやけん、な?」
 見ればホールのケーキが二つ。きちんと切り分けられている。
「瀬戸君」
「っはい?」
 急にみどりに話しかけられた忠幸は裏返った声を出してしまった。克巳がにやりと笑う。だが、みどりは至って普通だった。
「紙皿あったやろ。とったげて」
「あ、はい」
 忠幸が近くの棚を空ける。
「うわぁ、会長さんにも容赦ないなぁ」
「一番近いやないの」
 みどりは秋子の言葉にも冷静に返す。
「あ、手伝いますー」
 駆け寄ろうとする綾奈を大丈夫だと制し、紙皿を机へと出した。
「あ、ほんなら飲みもんがあったほうがええな。コンビニ行くけん、忠幸、手伝うか?」
「やっぱり会長さんパシリにされとるー」
「秋子!」
 みどりと秋子のやり取りを苦笑しながら見、克巳は忠幸に向き直った。
「えぇやん、いろいろ話しときたい事とかあるしな?」
「あ……はい。行きます」
 話しておきたいこと。他の役員たちは、もしかするとみどりでさえも生徒会のことだと思ったかもしれないが、忠幸は克巳の言うそれが何を指すのかわかって いた。
「よし、決まりやな。食べといてもえぇけど帰ってくるまでに全部無いとかやめてくれよ。俺らが行く意味ないんやけんな」
「いってらっしゃーい」
 秋子が笑って送り出す。克巳がおぅと手を上げて答えた。
「あんたそもそも役員やないやないの」
「まぁまぁ、みどりのケーキがあたしを誘っとるんよ」
 そんな会話がまだ聞こえていた。

106 光と影の語らい
(瀬戸忠幸&岩山克巳)
「まぁ、俺が聞きだしたんやけどな」
 ポケットに手を入れたまま、克巳はゆっくりと歩いていた。忠幸はその隣を歩く。
「お前が長瀬のこと見とったんは知っとったし」
 忠幸は顔を上げて自分より少しだけ背の高い克巳を見た。忠幸が何か言う前に、克巳は笑って言った。
「大丈夫やって、気付いとったん俺くらいやと思うで」
「……そうなんすか」
 返ってきた答えに、克巳は満足そうに笑い声をあげた。
 ふたりは校門を出て、近くにあるコンビニへと向かっていた。途中でまだ片づけをしている生徒といくらかすれ違った。
「けどなかなか告らんけん、えぇんかなーって思ってたんやけど」
「噂、やったやないですか」
 しばらく不思議そうな表情をしていた克巳だったが、やがて思い至る。
「俺と長瀬の?」
 忠幸はうなずいた。
「……まぁ、俺らも別に否定してなかったしな」
「彼女、いるんでしょう?」
 克巳が目を瞬く。
「なんや、みどりさんから聞いたん?」
 コンビニに入り、奥にあるジュースのあるところまで向かう。
「まぁ、そうっす」
「秋子もわかっとるしな、そんなん無いって。あいつは大体長瀬とセットやし、他の友達もそういう話するやつやないし、まぁズルズルと?」
 言って、楽しそうに笑う。それを忠幸は複雑な目で見ていた。
 しばらくジュースのことに話題が逸れる。いくつか種類を選んで会計へと持っていく。その間はなんとなくみどりや秋子の話にはならず、黙ってコンビニを出 た。
「恋愛感情やないな。妹みたいな感じや」
 しばらく歩いたところで、克巳は唐突に切り出した。それがみどりのことを指すのだとは忠幸にもすぐにわかった。
「放っとけんのよなぁ。お前も、何かわかるやろ? 長瀬ってどこか危なっかしいんよな」
「……わかります」
 つい目で追ってしまうのは、そんな理由からなのだと思う。みどりを良く知らない人間は、みどりのことを冷たい人間だとか怖いとか言う者もいるが、みどり は決してそんな人間ではない。そう言って回りたいくらいには、忠幸はみどりのことを想っていた。
「まぁ、隠しとってもしょうがないし、隠すつもりももう無いけん言うけどな、俺と秋子は結構わざとやったんや」
「何がですか?」
 話についていけずそう訊ねると、克巳は目を細めた。
「あの噂、否定せんかったんが」
 みどりはどこか押しに弱いところがある。きっぱりと断れずに中途半端な人間と付き合って彼女が傷つくようなところは見たくなかった。
 そもそも、噂を消すなと言って来たのは秋子の方からだった。秋子は幼馴染みを誰より大切にしていた。克巳もそれは理解できたので同意した。秋子と付き合 うのにその噂は何の障害にもならなかった。
「俺は……いいんですか?」
「あん?」
 付き合っているといっても、始まりは押し切ったと言うしか他に無い。
「ほんなら聞くけどな。お前、そんなに中途半端な想いなんか?」
 そう言った克巳の目は、とても真剣だった。思わず忠幸が息を呑んでしまうほど。
「ちゃうやろ。噂があっても告ったんやもんな」
 俺や秋子が求めとったんはそれやけん。
 忠幸は返す言葉を失った。それほどに、みどりは愛されている人間なのだ。そう実感すると、本当に傍に居るのが自分でいいのかと不安になってしまう。
「今はまだ、みどりはなんとも思ってないかもしれんけど、みどりやってちょっとずつ変わってきとる。頑張りや。まだ俺らやって半年弱は確実にこの学校にお るんやけん」
 忠幸は小さくはいと答えた。校門をくぐる。みどりの居る校舎を見上げる。結局、何を考えたとしてもみどりを手放すことは出来ないと思う。身勝手な想いで も、せめて嫌がられていない今は。
 克巳はもう何も言わなかった。
 はじめは克巳もみどりを恋愛対象として見ていた。それが変わったのは秋子に出会ってからだ。思えばその恋愛感情にも少しどこか違和感を持っていたと今で は思う。いつの間にか秋子に惹かれていて、みどりを想う感情は、消化されないまま家族を想う愛情のようなものに取って代わっていた。
 けれど、それを忠幸に言う必要はない。今はもう、みどりを恋愛対象としてみることは出来ないだろうから。大切なのは今現在だ。
 歩きなれた階段を、廊下を進み、親しみ慣れた扉を開く。
「あ、帰ってきた」
 明るい秋子の声。
「おぅ、ほらよ」
「コップ出しますー」
 綾奈がすぐさま動いて棚からコップを出した。克巳はちらりとみどりに視線を移した。後輩と話す楽しげな横顔。たまに秋子が割り込んで、呆れた笑顔を作 る。
「副会長?」
「おいおい、今は違うやろー? いつまでやりゃあいいんだよ」
 すいませんと苦笑する忠幸に笑顔を向け、克巳はひとつ、肩の荷が下りたような気がしていた。どこか寂しい気もするけれど。
 再びみどりに視線をやると、目が合ったがすぐに逸らされた。どうやら少し、この前に遊びすぎたらしい。これは秋子に今度は何をしたのかと楽しげに聞かれ ることは避けられなさそうだ。
「会長、何突っ立っとるんそこで。なくなるで?」
「待て、相田、俺も居るんだぞ」
「あ、すいません」
 さりげなく落ち込む克己に苦笑し、忠幸が行きましょうかと声をかけると、克巳はおぅと返す。そんなふたりは、みどりが優しい瞳でふたりを見ていたことな ど知る由も無かった。

202 眩しそうに目を細める姿が愛しくて
(瀬 戸忠幸&長瀬みどり)
「ほんならお先にー」
「失礼しますー」
 萌香と綾奈が出て行き、生徒会室にはもう忠幸しか残っていない。生徒会長は基本的に学校が閉まる時間まで残っていないといけないのだ。本来であれば副会長も一 緒であるはずなのだが、病院に行くと先に帰ってしまっていた。
 ほんの数ヶ月ほど前、前生徒会長のみどりと前副会長の克巳もいつも残っていた。その頃から、忠幸もしばしば共に残っていたものだったが。文化祭も終わっ たこの時期には、もうすることはほとんど残っていない。あと一時間ほど、一体何をするべきか考えてみたものの何も浮かばない。みどりたちから引き継いだ文 化祭の準備と後片付けに追われ、こんなにゆっくりと生徒会室で過ごしているのも久しぶりだ。
 そのとき、室内にノックの音が響いた。こんな時間に誰だろう。慌てて忠幸はどうぞと促した。
「あら、あんたひとりなん?」
「な、がせ……先輩」
 全く予想外の人物の姿に、忠幸はうろたえることしか出来なかった。
「どうかしたんですか?」
「別に……用事はないけど、様子見、ってとこやね」
 奥に置かれた生徒会長の椅子の傍までみどりが歩いてくる。ハッと忠幸は椅子から立ち上がった。だが、みどりはそれを横切り、椅子のまた奥にある窓まで 寄った。
「先輩?」
 締め切られた窓を開けると、もう少しだけ冷たくなっている風が生徒会室に吹き込んだ。陽はもうほとんど傾いて闇に包まれようとしている。秋の夕日はオレ ンジから紫へと変わろうとしていた。
 もう一度、呼びかけようとした忠幸の声は音にならずに消えた。斜め後ろから見えるみどりは、紫色の空を優しい瞳で見ていた。抱きしめたい、確かにその衝 動はあったのに、どうしてもこの光景を壊したくなくて本能がそれを止めた。綺麗すぎて、眩しすぎて近くによることすら出来ない。
「……どしたん?」
 みどりが振り向いた。その瞬間に、弾けるように忠幸はみどりを腕の中に閉じ込めていた。みどりの唇から小さな声が漏れる。
「瀬戸君……?」
 拒否されないから、忠幸はその腕を緩めることが出来なかった。答えるのに十分な言葉が何一つとして見つからない。みどりももう、何も言わなかった。みど りの速い鼓動は変わることなく同じ速さで命の音を刻む。
 どれだけそうしていたのか、長くてとても短い時間の先に、みどりはつぶやいた。
「いつまで、そうしとるんよ」
「あ……すいません」
 そろりと腕の力を緩めるが、みどりは無理に離れようとはしなかった。
「わかっとったつもりやけど……」
 みどりが下を向いたまま告げた。
「あんた、あたしより背……高かったんやね」
 忠幸は可笑しくて切なくて、小さく笑みをこぼす。少しだけ離れたみどりを再び抱き寄せ、みどりの耳元でささやいた。
「好きです」
「……もう……っ」
 困ったような声に、微かな照れが混じっていることに忠幸は気づいていた。もう少しくらい、うぬぼれてもいいのだろうか。少しは意識されているのだと。少 しは想われているのだと、思ってもいいのだろうか。
「好きです」
 それ以上言う言葉はなくて、考え付きさえせずに、繰り返す。告げたいことはそれだけ。その他には何もない。
「……あたしはっ」
 みどりが早口に言うので、忠幸は少しだけ身体を放した。
「好きとかそういうん、わからんけど……えぇの?」
 おずおずと見上げてくるみどり。
「えぇです、そんなん」
 きっと、こんな彼女を誰も知らない。それだけで十分だと思った。他の人より少し近いだけでも構わない。激しいまでに渦巻いていた想いは、先程のみどりの 横顔で優しい波へと変わった。
「少しずつでえぇけん、俺のこと、好きになってくれたら、それでえぇです」
「でも……そんなん」
 本当にそれでいいのか。恋愛感情の好きとして、彼を想えるのかみどりには自分でもわからなかった。そんなに中途半端な想いで忠幸の想いに応えていいのか わからない。
「チャンス、ください」
 みどりには返す言葉もなかった。何も思いつかない。けれどなぜか、それでもいいのではないかと思えた。だからただ、ゆっくりとうなずいた。

306 君のいた世界よ、
(瀬 戸忠幸×長瀬みどり)
 携帯のメール受信音が鳴った。秋子に好き勝手に変えられた聞き覚えのあるメロディ。かつての役柄上手放せなかった携帯は、エプロンのポケッ トに入れておくのが癖になってしまっていた。
 開くとそこには瀬戸忠幸の文字。鼓動が跳ね上がる。
『明日、県立図書館に来ませんか?』
 突然の誘いにみどりは首をかしげる。だが、どうせ用事も無し、ついでに本を借りて帰ろうなどと思うあたり、受験生としての自覚はなさそうだ。
 了解のメールを送ると、すぐに返事が返ってきた。
『じゃあ、午後二時に』
 再び了解のメールを送ったそのとき、みどりの頭にひとつの考えが思い浮かんだ。
 デートに誘われているのではないか。
「馬鹿らしい」
 気を紛らわせるように声に出してみる。ただの何かの相談か何かだったらどうするのだ。変に落ち着かなくなってきたみどりはもう十分に煮立てたオニオン スープにもう一度火をかけてみる。
 帰ってきた蒼が普段は見られない姉の挙動不審ぶりに首をかしげるのは十分ほど後のことだった。

 みどりはひとりため息をついた。なんという人の多さ。それも学生ばかり。そういえば去年はそれでここを敬遠していたのではなかったか。
 席は何とか確保したものの、さすがのみどりも勉強している学生の中でひとり借りたばかりの本を読むのはためらわれた。そこには見知った顔もちらほら居る し、こちらが知らなくとも生徒会長をやっていたみどりは多少顔が知れている。私服なので誰が同じ高校の学生かまではわからないのだが。
 仕方なくみどりは持ち歩いている英語の単語帳を開いた。勉強するために来たのではないので大した持ち合わせはない。大して頭に入ってこないスペルを見な がら、ただでさえ人の多いところは嫌いなみどりはなかなか現れない待ち合わせの相手に苛立っていた。
 不意に肩をたたかれてすくみ上がる。
「あ、すいません」
 小さな声だが、聞き覚えがある。
「瀬戸君……」
「勉強ですか?」
 あんたがよんだんやろと呆れて口にしようとしたみどりを忠幸は目で制した。
「学生多いっすね。けど、ちょうど会えてよかったです。相談したいことがあるんですけど。生徒会の」
「私は引退した身よ?」
 大体、それなら学校に呼び出してほしかった。そのほうがまだマシだ。
「すいません。今回だけ。……どっか、喫茶店とか入りません?」
 確かに忠幸が座る席はそこにはない。みどりはしぶしぶ立ち上がった。
 忠幸に先導されて小さなカフェに入る。高校の近くだが、こんな店があるとはみどりは知らなかった。少し外見を見ただけではわからない。
「よくしっとるわね、こんなとこ」
 みどりのはっきりした物言いに苦笑しつつ、偶然だと忠幸は答えた。店内にはゆったりしたクラシックが流れている。
「で、相談って何なん?」
「あー、口実ですよ、あんなん。やっぱり先輩受験生やし、堂々と会うわけにはいかんでしょ? 仮にも元生徒会長と生徒会長ですしね」
 噂になるだけならいいのだが、それがどこにどんな影響をもたらすかわからない。
「こうでもせんとデートもできんのは痛いですけどね」
 デート。その言葉にみどりの耳がぴくんと動いた。何も言えず無意味に水を飲んでみる。
 だが確かに、無駄に顔の知れている元生徒会長が休日にデートしてました、などと知れれば後輩に示しがつかないし、同じ受験生からも非難の目で見られるだ ろう。そうすれば生徒会の立場がない。
「あのまま図書館おってもよかったんですけど、あんなに人が多かったら落ち着かんでしょ?」
 あんなにすごいとは思わんかった、と忠幸は続ける。そのうちに頼んだアイスコーヒーが二つ運ばれてくる。
「けど困ったなぁ。図書館やったら話せんやろうと思って、俺話題とかあんま考えとらんのですけど」
 忠幸がコーヒーに少しだけ入れたガムシロップをストローでかき回しながら言った。みどりは無言でアイスコーヒーに口をつけた。
「あれ、先輩ブラックなんですか?」
 みどりが甘党であることを知っている忠幸は首をかしげる。
「コーヒーにシロップ入れたら甘さと苦さでミスマッチよ」
 至極まじめな表情でみどりは告げた。思わず忠幸が苦笑いする。
「甘いもん、頼んだらどうです?」
「気分やないけん」
 みどりは肩をすくめる。それを忠幸はほほえましく思うが、ふと会話がなくなったことに気がついた。だが、探そうとすればするほど見つからない。
 しばらく沈黙が二人を包んだ。互いに気まずい。
「あ」
「何?」
 からりと氷がグラスに当たって涼しげな音を立てた。秋には少し冷たすぎるような気もするけれど、なぜだかとてもふさわしいように思えた。
「や……この曲、先輩にぴったりやな、と思って……」
 言った忠幸自身が、照れたのか視線をそらす。耳を澄ませば聞こえてくる、どこか悲しげで、それでいて凛とした曲。みどりはじわじわと自分のうちに温かく て優しいものがこみ上げてくるのを感じた。
「どっかで聞いたことありますよね、これ」
「曲名、知らないの?」
「あ、はい。や、なんかクラシックってどれも似たような感じがしません? 名前とか混同しますよ」
 みどりが小さく笑みを漏らした。それは忠幸を固まらせるには十分なものだったのだが、当のみどりはそんなことには気づいていないどころか忠幸が固まった ことにすら気づいていない。
「ショパンのノクターン。日本語で言えば夜想曲」
「やそうきょく?」
 みどりの声にはっと我に帰る忠幸。
「夜を想う曲よ」
 みどりはまだ微笑んでいて、相変わらず忠幸の鼓動を暴走させていた。
「夜、を……」
 説明し終えて満足したのか、ストローに口をつけているみどりを見る。ノクターンを聴きながら見るみどりは、どこか遠い幻想的な世界に生きているかのよう に見える。慌ててそんな、人に知られようものならからかいのネタにされるか呆れられるかしかされないであろう思考を振り払う。
 それから、やはり会話はほとんどなかったけれど、ふたりを包む空気はとてもやわらかかった。

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