Teach me love

178  背中合わせの恋
(白石達哉 ×長瀬みどり)
「持つよ」
 達哉は自然な動きでみどりの持っていた本が数冊入ったビニール袋を取った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 微笑む達哉が、みどりにはなぜだかひどく眩しかった。
「後行きたい所は?」
「特には」
 どんな切り返しをしても、達哉が困った様子を見せることはない。頭の回転が速いのだろうとみどりは思う。
「じゃあ、時間もあるしどこかでお茶でもする?」
「えぇ、それが良いわ」
 達哉の連れて行ってくれる店にははずれがない。自らも喫茶店勤務だから情報には不自由しないのかもしれない。
「確か、この近くにケーキのおいしい店があるんだ」
 達哉にはどこか昔の女の影がある。そう感じるのはみどりの持つ女の部分だ。しかしそれは達哉が一人の女性を引きずっているというものではなく、自分の前 にいくらかの女が彼と付き合い、通り過ぎていったのだといった類のもの。
 もっとも、みどりはそれを悲観するような女ではない。自分でもかわいげがないとは思うのだが。
「いいわね」
 みどりの方が達哉よりひとつ年下だが、みどりは達哉に敬語は使わない。それは達哉が使う必要はないといったからだ。
 けれどみどりは達哉のことを達哉さんと呼ぶし、達哉はみどりのことをみどりちゃんと呼ぶ。恋人同士は呼び捨てで呼び合うものだとか、そういった型にはま るような考えは馬鹿らしいとは思うが、どこかよそよそしいというか、例えば梨華だとかいったような達哉の親しい女友達とあまり変わらないのではないかと思 う気持ちもある。
 達哉がみどりの手を取った。けれどそれはただエスコートするだけのもののような気がする。みどりはこうしてこんな時ですら冷え冷えと自分と相手を観察し ている自分に内心でため息をついた。
「また遅くまで電気がついてるって梨華ちゃんが心配してたよ。あんまり遅くまで本読まないようにね」
 何も話したくないと思っているときはそれを察してくれるし、逆に沈黙が痛い時は何か話題を振ってくれる。とても付き合いやすいのは確かだ。だが、それは 達哉の恋人という存在のために作られたルールのように感じられて、少し切ない。
「睡眠不足は自分のためにならないよ」
「気をつけるわ」
 達哉がくすくすと笑った。
「本の世界には勝てないみたいだけどね」
 気をつけるとは言ってみたものの、読み始めた本を余程の何かがない限り途中で閉じることはないだろうとみどりが思っていることを、達哉は知っているの だ。
 みどりは肩をすくめる。
「勝てないわ」
 それは本にか、それとも達哉にか。達哉はただ微笑んだ。
 完璧な恋人。普通の女の子だったなら、これが幸せだと感じるのだろうか。だが、みどりにはどこか不自然さが感じられた。けれど、達哉はわざとこんな風な 態度を取っているわけではない。それは彼の言動からわかること。
 忘れられない人の影が、みどりの記憶の奥で燻っている。
 そのとき、急にコール音が鳴り出した。みどりはため息を吐き出して携帯電話を取り出す。二つ折りのそれを開き、切ろうとして画面を見て……驚いた。
「秋子……?」
 つい声に出してしまって後悔する。
「出るといいよ」
 みどりがコール音を止める前に、達哉はそう言った。
「……はい。秋子? 何?」
 声が冷たいと自分でも思う。けれど秋子は気にしないだろう、そう高を括っていた。ところが、しばらく待っても返事が返ってこない。
「秋子?」
 いぶかしんで再び声をかける。
「みどりぃ」
 返ってきた声に、みどりは心底驚いた。今にも泣き出しそうな秋子の声。秋子とは幼馴染みで幼稚園から高校までずっと一緒だったが、近年こんなに弱々しい 声を聞いたことがあっただろうか。
 普段はため息をつきたくなるほど明るい秋子だ。これは余程のことがあったに違いないとみどりは腹を括った。
「あたしもう無理や……。もうあたし、克巳と別れる」
 みどりは眩暈を感じた。
「……何かあったの?」
 岩山克巳は秋子の高校時代の同級生であり、恋人だ。確かもう、付き合って三年を過ぎたはず。大学受験を経て、地元に残った秋子と広島へ行った克巳は離れ てしまったが、ふたりの関係は続いていた。
 克巳に先に知り合ったのはみどりだ。付き合いも秋子より長い。だからこそ、彼が秋子をなかせるようなことはしないと思うのだが。
「あいつ、絶対あっちに彼女おるっ」
 電話越しに伝わる涙声。みどりの脳裏に二年前の光景がフラッシュバックする。
 不意に達哉の手がみどりの肩に置かれた。飛び上がったみどりは咄嗟に達哉の手を払いのけてしまった。けれど達哉は気分を害した様子はない。
「大丈夫?」
 小さな、けれど確かに本物の心配がこもった声で、達哉はみどりに尋ねた。みどりは無理矢理笑ってうなずいた。達哉にはそれがわかったのだろう、一瞬だけ 悲しそうに笑った。
「みどりぃ、あたしもう、ボロボロや……」
 秋子の声が通り抜けていく。
「……とりあえず、しばらくは様子見いや」
「そんなん十分……!」
 遮った声を遮る。
「また後で連絡するけん。ゆっくり話そ。今外に出とるんよ。すぐ連絡するけん」
 秋子は何も言わない。みどりはそのまま通話を切った。
「送っていくよ」
「え?」
 意外な言葉に驚くと、達哉は綺麗に笑った。
「友達が大変なんでしょ?」
 みどりは苦笑する。この人はきっと、別れようといったら今すぐにでも自分と別れられるだろう。けれどみどりは思う。それは自分も同じなのだと。

081 荊の檻
(長瀬みどり&浅井秋子)
 一番初めにおかしいと思ったのはメールの回数が少なくなったことだという。返事も遅いし内容もそっけなくて短 い。電話をかけても出ないことが多くなったらしい。
「……あからさまやん」
 それがみどりの感想だった。
「えぇやん、やめたら、そんな男」
「みどり?」
 秋子の声が訝しげに親友の名を呼んだ。
「遠距離で二年? よく続いたと思うけど」
「……なぁ、みどり。誰に対して怒っとん?」
 先ほどまで弱々しかった秋子の声が急に強みを増した。
「何かあったんやろ。白石さんと」
 離れていても幼馴染みを侮ってはいけない。声だけという環境はみどりに不利だった。表情でカバーできるところがそうもいかなくなるのだから。
「あたしの話やないやろ」
 そう言ってみるが、あまり効果は期待できないことをみどりはわかっていた。
「……あたしはもう、いけんってわかっとるんやもん。みどりに愚痴りたかっただけやけん。けど、みどりは……」
「あたしやって、わかっとる」
 秋子の声を遮る。
「所詮、あたしには無理やったんや」
「みどり!」
 悲痛な声。言うべきではなかったかとため息をついてももう遅い。これだから感情的になってはいけないのだとみどりは思う。
「まだ、忠幸君のこと……」
「もう、やめて」
 みどりの懇願に秋子がすばやく黙り込む。その代わりに別の言葉を選んだ。
「努力は、したんや」
「早すぎたんや。まだ、心の整理がついてない」
 秋子は何も返さない。それが一番いいとわかっているからだ。
「どうするん、これから」
 しばらくして十分だと思ったのか、秋子がそう問いかけた。
「さぁ。なるようにしかならんよ」
 甘えとるだけなんやろうけど。ポツリと続けられた言葉。
「みどりはっ」
 秋子は思わず感情を高ぶらせたままの声を出した。聞いている方がつらい。一種の自己防衛だった。
「甘えたんでえぇんよ……」
「馬鹿なこと言わんのよ」
 確かに元々長瀬みどりという人間は大人びていたけれど、急にそれが強まったのは二年余り前の秋の日だったことを秋子は知っている。
「かまんけん。我侭になったってえぇけん、お願いやけんもう……自分を殺さんといてや……!」
 この声がどれだけみどりの心に届いているのか、秋子にはわからなかったけれど。あまり効果はないのだろうと思う心もあるけれど。けれど本当に、秋子は心 から大切な幼馴染みの幸せを祈った。

029 サヨナラが欲しい
(白石達哉×長瀬み どり)
「……こんにちは」
「いらっしゃいませ」
 達哉が甘い笑顔で迎えてくれた。もうカフェのドアにはcloseの札が掛かっていたが、入ることが出来るのは知っている。この時間を狙ってきたのも本当 だ。
「何か飲む?」
「えぇ、いつものを」
 カウンター席に座る。BGMも鳴っていない。人々の話し声もしない。とても静かだった。
「地元の友人が、彼氏と別れるの」
「うん」
 きっと言わなくても三日前のデートのときに掛かってきた電話の相手だと達哉にはわかっているだろうと思った。
「私もいろいろ、考えたの」
 かたりとテーブルにコーヒーカップが置かれた。
「隣に行っても良い?」
 みどりは静かにうなずいた。達哉がカウンターから出てきた。
「……忘れられない、人がいるの」
 ぽつりとみどりが話し始めた。
「うん」
「……わかってたの?」
 達哉は苦笑してコーヒーを一口飲んだ。
「なんとなくね。たまに、俺じゃない誰かを見てるなって思う時があったから」
 みどりには返す言葉もなかった。
「けど、今こうしてこんな話してるってことは、それに自分で気づいたってことだね」
 みどりは首を横に振った。
「もっと早くから、気づいてたわ」
「でも、それでもいいって思ってた」
 体の中の血が、逆流していくように感じた。これではまるで全てを知られているかのようだ。
「でも続くわけがないよ。みどりちゃんは、そんな自分が許せる子じゃない」
「どうして……?」
 ちゃんと達哉は長瀬みどりを見ていた。みどりは白石達哉の何も見えていなかったというのに。心臓がナイフで抉られたかのように、ひどい痛みが伴う。どんなに自分がひどい人間なのか、暴かれていくみたいだった。
「俺は、みどりちゃんが言わない限り何も聞くつもりはないよ。けど幸せになってほしいと思う」
 みどりはコーヒーカップを見つめた。顔を上げることなど出来なかった。
「先に進もうとするのはいいことだしね」
 こらえきれずに声を出す。膝の上の手が震えている。
「でも私は……っ」
「うん?」
 達哉は少しも動揺していなかった。
「達哉さんを利用……」
「構わないよ、それで」
 とても綺麗な笑みでみどりを見る。それには少しのためらいもない。逆にみどりが戸惑ってしまうほどだった。
「って言っても、こうして言いにきた以上、みどりちゃんにはそんなこと無理なんだろうけど」
 みどりは泣きそうになる気持ちを抑えられなかった。
「聞いてくれますか?」
 そして、咄嗟にそう言っていた。自分の言葉に自分で驚いたけれど、もう取り消せない。それに、言って良かったと思う気持ちもどこかにある。
「聞くよ」
 達哉は微笑んだ。それにまた、泣きそうになってしまうけれど、ここで泣いてしまっては先になど進めない。
 みどりはゆっくりと、この二年余り思い出すことすらしていなかった、記憶の奥底に手を伸ばした。それは、あまりにもあっさりと浮上してくる。忘れられる わけがないのだから。

065 キャッツアイは逃がさない
(瀬 戸忠幸&長瀬みどり)
「好きです」
 それはあまりにも突然の言葉だった。みどりは目を通していた書類から顔を上げた。
 時は夕暮れが過ぎ去ろうとしていて、生徒会室には前生徒会長のみどりと現生徒会長の瀬戸忠幸しかいない。生徒会長の席ではなく、並べられた長机にみどり と向かい合って座っていた忠幸は、驚くほど真剣な目をしていた。
 聞こえるのは運動場で部活をしている生徒たちの声ばかりで、先ほどまで生徒会室はすっかり静寂に包まれていたはずだった。
「はぁ?」
 だからみどりはつい、そう答えてしまった。頭にあるのはその書類、つまりは文化祭に関する文書なのだが、そこに挙げられている問題点のことばかり。正直 な話、みどりの脳は忠幸の言葉を理解していなかった。
「何なん、突然」
 忠幸が小さくため息をついた。ため息をつきたいのはこっちだとみどりは思ったが口には出さなかった。
「すみません。脈絡も何もなくて」
「いえ、それはいいんやけど。何が好きなん?」
 しばらく忠幸は口元を引きつらせたまま黙っていた。答えないなら独り言だったのかと書類に視線を戻そうとしたそのとき、忠幸が先輩、とつぶやいた。
「何?」
 はっきりしない物言いに、彼らしくないと思うと同時にイライラし始める。ただでさえ、みどりの頭の中には教師から持ち込まれた厄介事がぐるぐると回って いて、今度口を開いたら文句が飛び出そうだと思っていた。
「俺は、先輩が……好きなんです」
 みどりの思考が一瞬飛んだ。慌てれば慌てるほど冷静になるみどりだが、この状況を打破する妙案は思いつかなかった。そのままみどりが黙っていると、何を 思ったか忠幸が口を開いた。
「先輩に、岩山先輩がいることはわかっとるんですけど。それでも、好きなんです。言わんとずっと引きずるけん……」
 みどりは忠幸の言葉を黙って聞いていた。よくわからないが、とりあえずひとつだけ勘違いをされていることだけはわかった。
「彼は秋子と付き合っとるけど?」
「は?」
 みどりの頭の中に、だんだん先ほど抱えていた問題たちが戻ってき始めていた。
「岩山君やろう? 結構前からやけど」
 忠幸は何を言っていいかわからずしばらく黙っていた。みどりが嘘を言っているとは思えない。だが、長瀬みどりは岩山克巳と付き合っているという噂は一年 ほど前からまことしやかに伝えられてきたことだ。それがまさかデマだとは思わなかった。
 浅井秋子の存在は忠幸も知っている。生徒会役員でこそないものの、みどりの親友であり放送部前部長である秋子は、そのポジションからみどりが生徒会長を していた頃よく生徒会室に入り浸っていた。だが、前生徒会副会長であった岩山克巳と親しくしていたという記憶は、忠幸にはない。
「じゃあ……俺にも少しは、チャンスがあるってことですか?」
「何の?」
 忠幸は思わず脱力した。みどりから視線をそらす。それでも衝動的になんやらかんやら叫ばなかった自分を褒めてやりたい気分に駆られる。
「長瀬先輩。俺の話、聞いてくれとりましたよね?」
「えぇ、聞いとったけど」
 ならば何故という言葉を必死に飲み込み、無理矢理に心を落ち着けて何とかみどりに説明しようと試みる。
「やけん、俺は長瀬先輩が好きなんですよ」
 みどりは答えなかった。心の中でさり気なくあぁそういえば……と思ったのは秘密だ。
「できれば、付き合ってほしいんです。先輩に、今付き合っとる人がおらんなら……」
 ここにきて、ようやくみどりは戸惑った。更に言えばようやく事の重要度が書類の問題点より今の状況の方が高いことに気がついた。基本的に長瀬みどりとい う人間は人間関係において淡白なのである。
「付き合ってる人はおらんけど」
「……けど?」
 とりあえずどうしようかとみどりは考えていた。こういうときの対処法をみどりは知らない。忠幸のことはそれなりに知っているつもりだが、異性として好き かと聞かれるとよくわからない。考えたこともないというのが正直なところだ。
 とにかく、みどりは恋愛に興味がない。自分の身に降りかかってくるようなものだと考えたことすら、ない。みどりも自分と克巳がつきあっているという噂が あるのは知っていたが、人に本当なのかと聞かれなかったので放置していたくらいだ。
「会長?」
「もう会長やないんやけど。それはあんたやろ」
 そう、こういったことにはとてもすばやく反応してくれるのだ、みどりの脳は。集会の準備やら、行事の準備や後片付けやら、クレーム処理に文書処理。こう いったことはさほど頭を捻らなくとも勝手に脳も体も動く。それを考えれば、今まさにみどりの脳はしっかりフリーズしていた。
「癖です癖。一年間も呼んでりゃ癖になりますよ」
 二年生であった去年の後期から三年に上がった前期の間、みどりは生徒会長を勤めていた。それは副会長であった克巳も同じで、噂はおそらくそのあたりから 来たものだとみどりは思っている。
 忠幸も入学してからずっと生徒会に入っているので、みどりと知り合ってからの一年半、みどりがまだ会長になる前の去年の前期を除いてずっと彼女を会長と 呼んでいた。それは確かに癖にもなろう。
「まぁそうね」
 みどりはそう納得し、視線を書類に戻す。何か忘れている気がすると文字の並んだそれを見て思った。
「あの、かい……先輩、続き」
「えぇやけんしとるやない、の……」
 言いながら、忘れている何かを思い出す。みどりは視線を漂わせた。
「……やなくて」
 みどりはため息をついて書類を机の上に置いた。が、そうやって改めて忠幸を見ると、それはそれでなんだか気まずいというか気恥ずかしいというか、とにか く落ち着かなかったので再び書類を手にしてみる。
「何を迷うとるんです? ……受験のことですか?」
 だがしかし、みどりはあぁ受験……あったわねぇと内心思う。実感がないというより、大して自分の将来に何の期待も持っていないというのが正しいところ だ。なるようになってくれたらそれでいい。なるようにしかならないとも思う。
 忠幸はそんな雰囲気を察したのか、随分とためらいながら再び口を開く。
「ほんなら、好きな人……がおるとか」
「……別におらんわよそんな人」
 なんだか手持ち無沙汰なので無駄に書類を調えたりしてみるみどり。
「俺のこと嫌いですか?」
「嫌いな人間と会話する趣味は持っとらんのやけど」
 するとすれば、どうしてもしなければならない事務的なものだけだ。自分が人に好かれるタイプの人間ではないと思っているみどりは別にそれで十分だ。
「じゃあ、俺と付き合ってくださいよ」
 忠幸が立ち上がった。あ、とみどりが思った時にはもう遅く、うまく引くことの出来なかった忠幸の座っていた椅子が音を立てて倒れた。
「うわっ」
 みどりも多少覚悟はしていたものの、予想以上の大きな音に驚いて肩をすくめた。
 忠幸が慌ててそれを立たせる。
「……えっと。俺と、付き合ってください」
 真剣な忠幸の瞳に、みどりは思わずうなずいていた。

231 恋せよ乙女!
(瀬 戸忠幸&長瀬みどり/岩山克巳)
 みどりは小さくため息をついた。
「なんや、どうしたん?」
「岩山君……」
 ここにいるはずのない姿に少し驚く。それほど集中していたのだろうか、彼が入ってきたことに気づかなかった。
「ようがんばるなぁ。もう引退したやろ、元会長さん?」
「人手が足りんのよ、今回」
 前期にいた三年生が引退したため、役員数は半減したといっても過言ではない状態に追い込まれていた。二年生を中心に、いくらかは生徒会に引き込んでいる ようだが、文化祭はもう目の前に迫っている。即戦力にはならないのだ。
「自分の勉強は?」
「それなりにしとると思うけど」
 克巳は肩をすくめた。
「んで、会長さんはどこいったん?」
 生徒会室にはみどりしかいない。会長は生徒会室に缶詰状態だと生徒会にいた頃親しくしていた後輩から聞いていた。
「文化部集めて会議」
「あぁ……今日やったんか」
 みどりがうなずく。
「で、前生徒会長さんは何しよん?」
「雑用」
 きっぱり言ったみどりに克巳は苦笑せざるを得なかった。確かに今会議をしているならやることはそれくらいしかないだろう。
「手伝おか?」
「あぁ……別にいらんよ。あんたこそ、勉強せんでえぇん?」
 克巳は頭を掻いた。
「痛いとこ突くなぁ」
 確かに要領の良さにかけては克巳はみどりの足元にも及ばないだろう。みどりが本気になれば簡単に人に追いついてしまえることは克巳もよく知っていた。た だ、本気になる時が少ないだけで。本人いわく、面倒だとの理由で。
「つーか俺、邪魔?」
「どっちかと言ったらね」
 相変わらずみどりは手厳しい。
「はいはい、邪魔者はさっさと退散するけん、それ半分貸し」
 みどりは肩をすくめ、言われたとおりに半分書類を差し出した。克巳がひとつ椅子を空けたみどりの隣に座る。生徒会室は一気に静寂に包まれた。
 書類を見て克巳は一瞬めまいを感じた。みどりの寄越してきたそれは、生徒からの苦情。
「なんやこれ、あほらし……」
 予算が足りない、時間が足りない、挙句の果てには生徒会の対応が悪い。ふつふつと怒りが溜まってき始める。
 生徒会の対応は知ったことではないが、文化祭の件はみどりや克巳が生徒会にいた頃から準備をしていたものだ。時間も十分与えてやっているし、予算は去年 と全く同じ。多少の変化はあるだろうが、それでも去年は出来ていたのに今年は出来ないとは一体何事だ。
「怒るだけ、体力の無駄やで」
 みどりに静かに一括されて、確かにとうなずく。ただでさえ今年は生徒会も各方面で手一杯だというのに更に厄介事を増やしてくれたことは許せないが、これ らばかりはどうしようもない。
「ちなみに聞くけど、この生徒会の対応ってゆうのは?」
「言いがかり」
 そこまですっぱり斬られると逆にこれを言ってきた生徒がかわいそうにすらなってくる。
「たかが十分や二十分待たされただけの話やで?」
 忙しいのはどこも同じ。それくらいわかってくれといいたくなるのも無理はない。
「……大変やなぁ、忠幸は」
 ぴくっとみどりの肩が跳ねた。
「……どうかしましたか、長瀬サン」
「なんもないわよ」
 ふうん、と克巳はみどりを盗み見する。冷静沈着な長瀬みどりが動揺するとは、よほどのことがあったに違いない。顔には出さず面白そうだと思い、どうやっ て探ってやろうかと考える。
「けどいいのかね、俺らが手伝って」
 ある程度のことは任せておかなければ、自分たちがいなくなってからのことが大変だ。
「このくらいのことは出来るやろ。去年任せたし、注意点はこっちにも書きこんどるしね。人手が足りんのやけんしかたないわ」
 みどりがため息をつく。そりゃそうだと克巳は書類に視線を戻す。
「みどりさん大学どこ行くん?」
「地元でいいわよ地元で」
 要するに考えるのが面倒だと言いたいのか……と二年半の付き合いでみどりの思考回路を知っている克巳は思う。
「秋子も県外出んやろ」
「そこしか行くとこないって言うとったけど?」
 手厳しい。今日は毒が絶好調だ。密かに怒りが溜まっているらしい。
「ふむ。で、みどりさんには何か理由があったり?」
「何の?」
「恋人がこっちにおりますとかー?」
 会話中も止まることのなかった視線とシャープペンシルを持つ手が止まる。克巳はそれを横目で見た。
「図星?」
「んなわけないやろ」
 即答する、けれどいつもより少し早口だった。克巳は口元が緩みそうなのを必死でこらえる。
「そ? 噂やけどなぁ、みどりさんが現生徒会長さんと付き合っ……」
「どっからやっ」
 効果は期待以上。克巳は自分の勘に自分で拍手した。
「知らんって、噂やし」
 本当はそんな噂などないのだが、むしろ克巳とみどりが付き合っているという噂の方がいまだに根強いのだが、そこは黙っておく。口から出任せだったなどバ レた日にはどんな応酬が待っているかわからない。
「それでみどりさん? そこまで過剰反応するって事は……」
 そこでみどりがため息をついたので、克巳は続きを言うのをやめた。
「成り行きや。あんた、誰かに……いや、秋子に言うたら許さんよ」
 確かに噂好きのみどりの親友は嬉々として言いふらすに違いない。
「了解。しかしまぁ、あいつが天下無敵のみどりさん落とすとはなぁ」
「あたしが、なんやて?」
「天下無敵。間違っとらんやろ」
 飄々とした克巳にみどりはため息をつくにとどめた。言っても無駄だ。わかっている。彼らがいいコンビだと言われるのはそういった引き際を熟知しているか らなのだろう。
「まぁ秋子には言わんけど。知っとっても俺のせいやないで? あいつどっからか情報手に入れてくるしなぁ」
 そもそも秋子と克巳が付き合うようになったきっかけもそれだ。いきなり生徒会室に乗り込んできた秋子がたまたまそこにいたのがみどりひとりだったことを 幸いとばかりに「副会長と付き合っとるってほんま?」と叫んだ、そこに当の当時副会長だった克巳が戻ってきた、というのが馴れ初めなのだから。
「むしろ俺から先に言うとったほうがえぇんやないか? また叫ばれるで。あん時結構廊下まで響いとったし、逆に広まるかも」
 広めたくないんだろう、と言外に含ませる。
「いろいろ聞かれるの、面倒やないの」
 それは確かに克巳としてもわかる。
「まぁ、俺が言うより自分で言いや」
 そして克巳は持っていた書類にざっと目を通す。
「ほい、終わり。じゃあ俺は秋子待っとるけん、行くで?」
 そう言って立ち上がる。
「あぁ、ありがと」
「みどりさんからお礼を言われると気持ち悪いです」
 みどりが黙って怒りのオーラを放つ。やりすぎたと思ってももう遅い。地雷を踏んでしまったらしい。
「冗談です。じゃあ俺行くわー……っておぉ?」
 ドアの前に立った瞬間、扉が開く。内開きなので咄嗟に身体を後退させる。みどりはちらりともそれを見なかった。おそらくは克巳がドアにぶつかっていたと しても何の反応も示さなかったに違いない。
「びびったー。誰やもう……」
「あ、すいません。……岩山先輩?」
「おや。忠幸君やないか」
 急に克巳の声が楽しげに弾んだ。後ろを振り返りたくて仕方がないが、そんなことをすれば確実に何かが起こる。さすがにそこまで命を粗末にしたくはない。
「噂をすればなんとやら。まぁまぁ、入……」
「岩山先輩っ」
「だっ」
 忠幸の声も遅く、みどりの投げたシャープペンシルは見事に克巳の頭に当たった。それほど痛くはないが、地味に空しい。
「……今度は何したんすか」
 言いながら忠幸は床に落ちたシャープペンシルを拾った。
「まぁ、ちょっとな。帰る、俺は帰る……。後は頼んだ」
「え、俺っすか」
 止める間もなく克巳は出て行った。
「……駄目やないですか、先輩、こんなもん投げたら」
「手元にそれしかなかったんよ」
 忠幸は返す言葉もなく黙っていた。ふたりで何話してたんですかと問いかけたかったが、別のシャープペンシルで書類になにやら書き込んでいるみどりにはそ れも出来なかった。

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