卒業式も離任式も終えて。その日はとうとう次の朝へと迫っていた。ふたりの間で、何かが変わったかといえばそういうわけではなかった。けれど、同じかと問われれば、それは違うと答えるだろう。
 何かをするわけでも、話をするわけでもない。特別な何かなんて、できはしなかった。十日後には、一週間後には、明後日には。もう彼がこの場所にいないだなんて思えない。もう彼女の元から離れなくてはならないなんて思えない。


そんな 僕らの裏事情



「お迎えにあがりました」
 そう言って頭を下げるその男を、悠輝はぼんやりと見ていた。
 美空は光林高校に合格した。悠輝が落ち ていた場合は別として、本来なら、きっと今頃はふたりで高校生活のことを話していたはずだった。手続きがどうの、入学式は、なんて。新しい生活に、希望や 期待や不安を抱いて、それを分かち合って。けれど、そんな未来はもう、どれほど待ってもやってこない。悠輝は光林高校にはいけない。
 自分で決めたこと。自分で決めた未来。後悔しているわけではない。後悔というようなものではない。いざこの日を迎えた今、そんなこと以前に、実感がないのだ。明日には美空と会えなくなるだなんて。
 焦った昨夜がまるで嘘のよう。
 悠輝の家の前。元、クラスメイトは皆揃っているというのに、ただひとり、美空の姿だけがなかった。
 悠輝はコートのポケットに手を差し込んで、その感触を確かめた。

  見上げれば、憎らしいくらいに綺麗な星空が広がっていた。けれどそれは鼓膜を震わすフルートの音の前には、ただの塵にすら思えた。つらい体勢だろうに、窓 に座って、少しだけ悠輝に背を向けている美空。悠輝はいつもならとっくに乗り越えているはずのベランダの柵に身体を預けていた。
 明日、と思うと急に落ち着かなくなってしまって。それは悠輝も美空も同じことだった。けれどだから何を話そうかと思っても、何も出てきやしなくて、だから悠輝は美空にフルートを聞かせてほしいと頼んだのだ。美空の選んだ曲。美空の好きな曲。けれどそれは悠輝の望む音色。
 やがて音は止んで。フルートを置こうとした美空を、悠輝は止めた。
「ムーン・リバー、聞きたい」
 美空は少しだけためらって、もう一度息を吹き込んだ。ゆっくりと、ゆっくりと。
 お互いに、この曲が持つ意味なんて知らない。ふたりだけの特別な意味を持っているわけでもない。けれど確かに、特別だった。なんとなく、夜に聞くにふさわしくて、そして、いつもと変わらない今日の為に必要な曲だった。
 その短くて長い時間が終って、カチリと小さな音を鳴らして。今度こそフルートを置いた美空に、悠輝は手を伸ばす。
「悠輝?」
 けれどその指先が美空に触れるより早く、美空は悠輝を見上げた。咄嗟に手を引いた悠輝に訝しげな視線を送りながらも、美空は何も咎めなかった。
 一呼吸置いて、美空が話し始める。
「約束して」
「え……?」
「向こうに行っても、私……が、私達……がいなくても、ちゃんと悠輝でいるって。今度はもう、自分を偽らないで、ちゃんと人と関わっていくって、約束して」
 優しくて、やわらかくて、そして切ない憂慮だった。美空は、自分が傍にいられないことを知って、だからこそ言うのだ。もう何もできなくなるから。遠い場所で、ただ案ずるしかできない。それはつらい。美空がつらい。だからせめて。
「約束、して」
「……わかった。約束する。俺は俺でいる」
 美空は俯いた。後はもう、美空にできることはない。思いつかない。約束させたのは自分だけど、そうされてしまったらもう、何も干渉できなくなった気がして。
「美空。……美空」
  その名が、その響きが愛しい。それさえあればもう何も要らないような、そんな気すら起こさせる。だけど、そんなわけにはいかない。どうしても、心に決めた ことがあるから。もう一度美空に手を伸ばす。自分を見上げる美空の頼りない視線に一瞬ためらって。それでも、その細い腕を捕まえて、引きあげた。
「痛っ、なにす……」
 自分らしくないことは、悠輝が一番よく知っていた。けれどこんな時ですら自分らしくなんて、とてもできないから。怖いくらいの無表情で、瞳だけを揺らして、悠輝は告げた。
「好きだった。ずっと、いつかわからないくらい前からずっと、美空のことが好きだった。今もこれからも、多分ずっと、美空が好きだ」
 声すら出せない美空を置き去りにして、悠輝はひとり前に進んだ。それが、新しい道。
 冗談をとは、とても言えない雰囲気。けれど美空には、考える余裕も時間もなかった。受け入れる、受け止めることすら。悠輝もそれはわかっていたし、だからこその、全てを覚悟した、けじめだった。
「ごめん、美空。でも、これで……美空のこと、解放するから」
「何、言って……」
 戸惑う美空が、どんどん俯いていく。空気をも震わす美空は、ひどく頼りなさげで。悠輝は思わずフェンス越しに、窓越しに。美空を抱きしめていた。
「悠輝っ」
 焦る美空すら、愛おしく思えて。できることならこのままもう離したくないと思った。それが不可能で、叶いやしない願いだとわかっているからこそ、尚更。最後すらも言い訳にする。
「本当、は……ずっと、こうしたかった。でも諦めてた。美空が俺のこと幼馴染みとしか見てないのは知ってたし、それでも十分だと思ってた。でももう俺は、傍にいることすらできなくなる……っ!」
 どんなに近くても、ふたりの間には取りはらえない障害物がある。今までは軽々と乗り越えてきたそれが、今やはっきりとふたりの邪魔をする。
「ゆ、き……」
  美空の前にいる悠輝は、確かに男だった。男だったのだと、初めてはっきりと実感した。悠輝も、クラスメイト達も、皆性別を超えた関係だった。男と女が違う ことは知っていたし、それを意識しなかったわけではなかったけれど、それは輪郭のはっきりしないものであったのに。わかっていたようで、美空は何ひとつわ かっていなかったのだ。
「やめてっ」
 鼓動が速い。苦しい。心臓がどうにかなってしまったようで、怖い。こんな感覚なんて知らなくていい、今まで通りでいたい、美空はそう悠輝に眼で訴えた、だけど。嵐のような激情は、悠輝の切ない瞳の前に消え去った。
 五指が悠輝の腕を捉えて。頬に当たる悠輝の少し冷たい手のひら。
 気づいた時にはもう、唇同士が重なって、離れるところだった。
 窓の閉まる音、続いてカーテンの閉まる音がした。お互いに予想外であった出来事に、もうどうすることもできなかった。

  ありあわせのカセットテープ。わざわざ他の何かを用意するには、何もかも遅すぎて。けれど逆にその大きな存在は決して見失うようなことはさせない。美空は 知らない。この時代遅れのメディアの中に、自分のフルートの音が録音されているだなんて。思いつきもしないだろう。なぜなら、悠輝にとってもそれは完全な る思いつきだったのだから。
 唐突に思ったのだ、いつでも美空を傍に感じられるものが欲しいと。
 きっともう、悠輝と美空の未来が繋がる ことはない。元々、ただの幼馴染み、だった。そして結局、それは最後まで変わることはなかった。美空は悠輝の想いを知ってしまったけれど、これからどうこ うなるにはもう、時間は少しだって残されていない。だから、永久に変わりはしない。この、関係は。変えることはどうやっても不可能なのだと、努力する事を 考え、あきらめる前に、もう。解っているから。いつしか美空は悠輝のことなんて、悠輝の想いなんて忘れてしまうだろう。時の流れがそうさせる。美空が望む 望まないにかかわらず。それは悠輝も同じかもしれない。そう悠輝は覚悟した。だから。だけど。
 今はまだ、これからもう少しは、まだ。どうしたっ て悠輝は美空が好きで。離れたくない。美空がいない世界になど行きたくない。そこでうまくやっていける自信なんて、塵ほども持っていない。だから、思い出 だけでやって行けるなんて思えないから。悠輝はカセットテープを撫でる。
 悠輝にとって、例えカーテンにさえぎられて姿が見えずとも、それでも耳に聞こえるその音は、まるで美空そのものだから。例え何かにさえぎられて姿が見えずとも、それでも信じられるその絆。揺らぐことのない信頼。
「悠輝……」
 やっと姿を見せた美空に、誰もが安堵した。何か言いたげな、けれど何も言えない様子に気付いて、悠輝は笑って言う。昨夜の出来事なんて嘘か幻であったかのように。
「行ってきます」
  彼女に何も言わせないように。自分が何も聞かなくていいように。望まない答えを聞きたくないという恐怖に押され、何も聞きたくないという愚かな願望を、想 いを告げることだけはしたのだという僅かな自己満足に変えて。気付かないふりをしている後悔は、告白したからでも、キスをしたからでもなく、美空の答えか ら逃げていることを知っていることからくるものだと、本当は気付いている、だから辛い。
 悠輝は美空の声を聞くことなく黒い車に乗り込んだ。それは、見たことも想像したこともない未来を、走ろうとしている。


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