サファイアの空は誰が為に
「鬱陶しい」
「まぁ。何てこと言うんですか。似合ってるのに」
淡いブルーのドレスにちりばめられている涙型の真珠が、シャンデリアの光を受けてきらきらと輝く。なのに、来ている本人の表情は優れなかった。
「いくら正式な訪問だからって、兄様の客だろ。何で私まで」
「王妹にして第一王位継承権を持つあなたが正式の場にいないというのは」
侍女頭のヒナ・オーレリストの声をさえぎって、アリーシアは言った。
「わかってる、この国の威厳が保てないんだろ」
ヒナはムッとしたものの、そうですと答えた。
「けど、このドレスはやりすぎだと思うぞ」
数え切れないほどの宝石やリボン、レースに飾りつけられたドレス。全てが白とブルーとで統一され、布地には花模様が描かれていた。
アリーシアは深く深くため息をついた。ここまで準備が整えば、もはや着替えなおす余地もなく、諦めるしかないとはわかっていても、やはりどこか諦めきれ
ない。
ダージリン皇国の王妹アリーシア姫は、今更ながら己の浅はかさを悔いた。ヒナが謁見用にと持ってきたドレスは、アリーシアの好み通りのシンプルなもの
だった。
どうせこれくらいしか着てくださらないのでしょう、と恨みがましくヒナに言われ、すこし罪悪感すら感じたのに。
自分よりたった一歳年上なだけなのに侍女頭を務めるヒナを甘く見てはいけない。しかし、誰がドレスを着た後にパールやらリボンやらレースやらをつけられ
ると思おうか。呆気に取られている間にシンプルだったドレスはすっかり飾り付けられてしまっていた。
「姫、だます形になってしまったのは謝りますけど、今日いらっしゃる隣国アッサムとうちの国とは長い間交流がありませんでした。あちらだってわざわざ王子
が―――第二王子とはいえ、王位継承者がいらっしゃるのです」
ヒナはその先は言わない。もう十分、アリーシアにもわかっているからだ。
「―――わかった」
「えぇ、もう着てしまったことですし」
にっこり、ヒナは笑う。
「…そういう事言わなきゃ、いい奴なのにな、お前」
「失礼ですねっ!」
怒りながら部屋を出て行くヒナ。侍女たちも下がらせる。こういうところはアリーシアの扱いをわかっていると思う。自分の心に折り目をつけられるのは、結
局のところ自分だけなのだ。それには他人は邪魔になる。
アリーシアは椅子にさえ座れないドレスを忌々しく思うしかない。いくらなんでも、皺になったドレスを着ていけるほど無頓着ではない。着飾るのだって、派
手なものでなければ好きなほうだと思う。
深々とため息をついて、鏡に映った自分を見つめる。本当は動いているほうが気もまぎれるのだが、如何せんドレスで動くと必要以上に疲れるのだ。いくら慣
れているとはいえ、この後待っているのは公式の謁見に舞踏会。さらに言えば舞踏会の前にはドレスチェンジがあるはずだ。これは踊るためのドレスではない。
「こうなったら…全部引き受けるしかないんだよな」
一番厄介なのは兄キースだ。后にマリオナを迎えてから多少は収まったものの、あの兄の絶賛振りは眼に余る。言葉だって月並みなようで注意深く聞いてみる
と毎回全部違うのだ。
だが、アリーシアに課せられた役目は謁見や舞踏会にただ出る事ではない。舞踏会。相手は必然的にアッサム王国の王子だろう。名前をなんといったか、ア
リーシアはよく覚えていない。どうせヒナがそのうち確認に来るのだろうし、そのときさえ覚えていればまた忘れてしまえばいいのだ。それくらいにしか、考え
なかった。
「姫さま? お顔が赤いようですが」
「そ、…そうか?」
いったいどれだけヒナに見破られているのか。不安だったが、どうしてもうまく立ち回れない。
「何か変ですね? お召しかえがお嫌なわけでもなさそうですし」
「いや、それは嫌だ」
きっぱりと言うアリーシアに、ヒナは苦笑する。
だが、嫌と一言に言っても、何かが―――何かわからないけれど、何かが、嫌なのだ。
「なぁ…もっと、その…他のはないのか?」
「これでは気に入りませんか?」
ヒナが笑う。それはアリーシアが想像していたよりずっと優しいものだった。え…っと思うより先に、ヒナが部屋を出て行った。残されたアリーシアも他の侍
女たちも戸惑いを隠せない。
ヒナはすぐに戻ってきた。薄桃色のドレスをその手に持って。
「おい?」
それは決してきらびやかなものではなく、どちらかといえばシンプルの部類に入るものだった。
始めはそれに不満げだった侍女たちも、いざそれを身にまとったアリーシアの姿を見ると息を呑んだ。
「これ…」
アリーシアはまじまじと鏡に映る自分の姿を見つめた。
「私の手作りです」
後ろからヒナの声。鏡を介して目が合った。
「…何か変な仕掛けでも…」
あるんじゃないだろうな。
アリーシアの声を制し、ヒナは得意げに笑った。
「姫さまに本当に何が似合うのか。何が姫さまを引き立てるのか。そんなことが、姫さまの上辺しか知らないデザイナーにわかるわけがないじゃないですか」
アリーシアが目を見張る。
「大丈夫です、今回ばかりは何一つ変なものは取り付けていませんから」
「―――信じていいんだな?」
「えぇ、もちろん」
そう、ヒナは待っていたのだ。このドレスをこのかわいらしい姫に着せる日を。自らの手で、最高に美しい姫に仕立て上げる日を。それにはどうしても不可欠
なものがあった。
「お幸せに、姫さま。必ず、姫さまの想いは叶えてみせます」
アリーシアが心から想い、そしてアリーシアを心から想ってくれるその人が。
さて、これからまだまだ忙しくなりそうである。
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