121 通りすがりのサファイア (大友和真&宮野梨華/白石達哉&長瀬みどり) |
「梨華ちゃん?」 「あ…達哉さん…」 大学帰りだろうか。本を抱えた梨華はにっこり笑った。達哉も笑い返す。ふたりが会うのは久しぶりだった。 「今帰り? 時間あるなら、うちでお茶でもどう?」 うち、というのは達哉たちのやっているカフェ「グリーンアイズ」のことだ。梨華は一瞬迷ったようだが、ぜひとほほえんだ。 「和真はどう?」 梨華が和真の病院に通うようになってから、達哉はあまり行くことがなくなった。勇太はたまに顔を出しているようだが、随分それも減ったらしい。 「もうすぐ、退院できるそうです」 あとはリハビリに通院するだけでいいのだと梨華は説明した。 「そっか、よかった。梨華ちゃんが行くようになってからおとなしくなったからね」 梨華は困ったように笑ってそんなことないですとつぶやいた。 そのとき、ドアにつけているベルが鳴った。客が来たらしい、カウンターに座っていた梨華は思わず振り返って驚いた。 「みどり?」 「やっぱり梨華。人違いだったらどうしようかと思ったわ」 みどりは薄く笑って梨華の隣に座った。 「友達?」 達哉は笑って問いながら、みどりにオーダーを聞いた。みどりはコーヒー、と答えた。 「えぇ、大学の。あと、ルームメイトなんです」 「ルームメイト? 梨華ちゃん寮だっけ?」 「いえ、マンションの」 みどりにコーヒーを渡しながら、あぁ、と達哉が納得の声をもらした。 「…長瀬みどりです」 「白石達哉です、よろしく」 達哉がお得意の笑顔で笑うが、みどりはにこりともしない。内心ムッときた達哉だったが、顔には出さなかった。 それからしばらく大学の話などをして、梨華は注文していたカプチーノを飲み終えた頃、そろそろ帰らなきゃと席を立った。 「みどりはどうする?」 「…もう少し居るわ。帰ってもすることないし」 梨華は苦笑してわかったと答えた。 「じゃあ、達哉さん、また来ますね」 「うん、今度は和真の居る時においで」 少し顔を赤らめ、だが梨華は素直にえぇ、と頷いた。静かにベルが鳴る。梨華はドアの向こうで小さくお辞儀をして帰っていった。 しばらく沈黙が二人を包む。ボックス席には多少人が居るものの、カウンターに座っているのはみどりだけだった。 みどりがカップをかき混ぜる音が小さく響いた。 「ピアノ。弾くんですか」 みどりはボックス席の置くにおかれているピアノに目をやった。 「んー、まぁね。でもギターのほうが好きかな」 「弾いてくださいって頼んだら、弾いてくれます?」 達哉に視線を戻す。驚いた目とぶつかった。 「どっちを? ピアノ? ギター?」 「…ピアノ」 どっちでも、と言おうかと思ったが、やっぱりピアノが聞きたかったのでリクエストする。 「…じゃあ」 達哉はカウンターの奥に入り、兄の聡志に交代してもらうと、ピアノの横に立った。そして、いまだカウンターにいるみどりを手招きする。 「曲は?」 「なんでも。ゆったりした、クラシックなら」 達哉は笑って近くのボックス席にみどりを座らせると、ノクターンを弾き始めた。 曲が終わる。みどりは拍手をする代わりに尋ねた。 「どうしてノクターン?」 「嫌いだった?」 「…好き」 「よかった。イメージに合ってたから。それだけ」 するとみどりは困った顔をした。 「みどりちゃん?」 達哉がピアノの前からみどりの座るボックス席へと移動してきた。 「そんなことされると…困る」 「え?」 「…あなたが、好きです…」 |
184 おもちゃ箱から繋がる世界 |
「ただいま」 「あ、おかえりなさい」 梨華は無垢にほほえむ。少し気まずかった。よく考えなくても、彼女が何も知らないことはわかっていた、けれども。 「…ねぇ、梨華」 かばんをソファの上に置き、夕食を運んでくる梨華に視線を向けた。今日は煮込みハンバーグのようだ。梨華はどんなときでも家事に手を抜かない。 「…私、つきあう、から。達哉さんと」 「…達哉さんって、グリーンアイズの?」 みどりがうなずくと、梨華は嬉しそうにほほえんだ。 「そうなの。よかったね。達哉さん、いい人よ」 梨華が当たり前のように受けいれてくれた事にほっとする。だが、そのときみどりの携帯の着信音が響いた。 「ちょっとごめん」 梨華はにっこり笑って夕食の準備を、といってももうリビングに運んでくるだけなのだが、再開した。 「はぁ? ちょ、何考えとんよ、は? はぁ? もう…いい加減にしぃよ。…わかった、そこで待っとき。動かんとってよ」 プツリと電話の切れる音がしたので、梨華は何かあったのと尋ねた。口調が戻っていたから地元の友達だろう。 「…ごめん。今から友達、来る、かも。…三人…」 「そうなの? いいよ?」 梨華はあっさりと承諾した。 「夕ご飯もまだ残ってるし。大人数で夕ご飯なんて久しぶり」 いいのと尋ねようとしたみどりは途中でやめた。本人が楽しそうなのだからいいのだろう。 「今から迎えにいってくるから」 「こんばんわー」 明るい声が宮野家に響いた。梨華はエプロンをはずすと玄関へ走った。 「わざわざ出てこなくても良かったのに」 みどりは靴を脱ぎながらためいきをついた。 「でも、みどりのお友達でしょう?」 「突然押しかけてごめんなさい。みどりの幼なじみの浅井秋子です!」 ぺこりとお辞儀をすると、秋子のショートカットの髪がふわふわと揺れた。 「あ、宮野梨華です」 「話は聞いとりますよー。あ、そんでこのふたりが、後輩なんですけどー」 「あ、小石綾奈ですー」 「熊田萌香です」 ほのぼのした雰囲気の中にみどりのため息が紛れ込んだ。 「何で玄関で自己紹介してんのよ」 「おー、みどりが標準語や」 「……」 ぴくりとみどりの眉が一瞬跳ね上がった。 「もー、怒らんの怒らんの」 秋子がけらけらと笑う。梨華はほほえんで三人を中へと促した。 「ほわー。えぇとこ住んどんやん。えぇなー。あたしも県外出ればよかった」 「えー、先輩、一緒の大学いこうね、先行って待ってるからって言ってくれたやないですかー」 萌香が反論するが、秋子はあっさりと返した。 「…言った?」 「言いましたー!」 「あたしそんなこと言ったっけ、綾ちゃん」 突然秋子が綾奈に話を振った。だが、綾奈はうろたえる様子もなく答える。 「さぁ…。言ってないような気もしますねー」 「いやいやいや。綾奈!」 萌香が慌てる。だが、そんな萌香をみて綾奈は笑った。 「あはははは、冗談だよ萌ちゃん。うん、言っとったねー先輩」 「うんうん、覚えとるよ」 秋子も頷く。 「もー、せんぱーい」 萌香が非難の声を出すが、秋子はよしよしと彼女の頭をなでてなだめた。 「先輩っ」 萌香が秋子に抱きつく。するとそれを綾奈がはやし立てた。 「わー、萌ちゃんそんな趣味あったんだー」 「いやいや、ないから」 「―――あんたら、人の家やってことわかっとんの?」 みどりのあきれた声。秋子があははと笑う。 「いいじゃないかいいじゃないか。楽しいほうが。ね、梨華さん」 「えぇ、そうですね」 梨華も笑った。ひとりみどりはため息をつく。 「何でこういうときだけ対応能力発揮してんのよ、梨華」 「え?」 だが梨華はよく意味がわからなかったらしく首をかしげる。 「うわ、めっちゃ可愛い! 天然?!」 秋子が梨華に抱きついた。それを受けておどおどする梨華は、秋子にとってはますますツボだった。 可愛いを繰り返す秋子にみどりはあきれたため息をつき、萌香はつぶやいた。 「先輩、明らかに贔屓やないですか」 「うんうん、萌ちゃん、構ってもらえなくて寂しいんやね」 そこに再び綾奈が茶々を入れた。 「ってちょっと待て」 「あはは、萌ちゃんも好きやで、一応」 「って、一応ってなんですか一応って」 そう萌香に言われた秋子は間髪入れずに笑って言った。 「じゃあ好きだよ?」 「…もういいですー」 「もういいから、あんたは早く梨華を離しなさい。梨華がおとなしいからって調子乗ってんじゃないわよ。梨華もおとなしく腕の中納まってんじゃないの」 そこをみどりが無理矢理引き剥がす。 「あ、そうだわ。夕食にしませんか?」 「あ、や、やけど」 秋子が困ったようにみどりを見る。 「遠慮するとこ間違ってるでしょうが。食べていけばいいでしょ、泊まっていってもいいし」 秋子はしばらく考えると、にっこり笑った。 「ほんなら、お言葉に甘えて」 みどりもほほえむ。あまりに突然すぎる訪問だったが、やはり地元の友達に会えるのはみどりも嬉しいらしい。 楽しい夜になりそうだと思いながら、彼らは席に着いた。それはまるで、おもちゃ箱の中のような。 |
075 今夜、いつもの場所で |
「達哉。また告白受けてただろ」 「うっわ、また? どうせまた付き合うんでしょ」 カウンターに座った達哉の隣には、雰囲気の似た女が座っていた。聡志にとっては妹、達哉にとっては姉にあたる水都だ。 「見てたんだ?」 いや、と聡志は笑った。 「雰囲気」 「何それ」 苦笑する、その笑顔は兄のそれとそっくりだった。 「お前、相変わらずモテるなー」 聡志はくしゃくしゃと自分よりほんの少しだけ高い達哉の頭をなでた。どんなに時が経とうが、どんなに変わろうが、聡志にとって達哉はたったひとりの大切 な弟だし、今は仕事のパートナーでもあった。 聡志と達哉に水都、白石家の三兄弟はとても仲が良かった。どんなにそれぞれが反抗期を迎えても、聡志は妹や弟を可愛がったし、それは水都、達哉へとつな がって、どんな時も喧嘩こそすれ、仲たがいをすることはなかった。 「何、兄貴嫉妬?」 けらけら笑う弟にこらと笑って声をあげ、達哉の好きなブレンドコーヒーを出してやる。達哉は素直に受け取った。水都にはミルクたっぷりのカフェオレを。 こうして閉店後、たまに水都も加わってコーヒーを飲むのは彼らの日課だった。気分が乗れば合奏もする。 白石家は音楽一家だ。ピアニストの父とヴァイオリニストの母。白石家ではピアノとヴァイオリンは必修なのだ。もちろん、両親の指導で。聡志はピアノで音 楽学校に進んだし、水都も趣味のハープで音大に通っている。聡志はピアノとヴァイオリンだけだが、水都はその他にハープやフルートもたしなむという白石家 最高の音楽愛好家だった。もちろん達哉も両者とも弾けるが、ギターに出会ってからは中心はそっちだった。 「お前きれーな顔してるからな。そりゃ女も落ちるだろ」 言われた達哉はくすくすと笑う。その様子は中性っぽさが目立つ。 「兄貴ワイルドだからね」 「こらこら。俺は繊細なの、そういうこと言わない」 聡志は自分のブラックコーヒーを片手にふたりとカウンターを挟んで向かい合う。 「うっそ、兄さん大雑把で図太いくせに」 水都が肩を竦めてカフェオレをすすった。 「みーなーと? お前兄さんをなんだと思ってる」 「典型的な0型」 けろりと答える水都。達哉も楽しそうにくすくす笑っている。 「それ言えてるよね。姉貴はAっぽいとこあるけど」 「それを言うなら、達哉は典型的なBだろ」 達哉が付け加えると、聡志が反論する。 「俺別にBでいいもん」 「もんとかいうな、もんとか」 聡志は悪戯っぽく笑う達哉に半ば呆れて小突く。 「でも、達哉がやると全然違和感ないよねー。不思議ー」 兄には少し厳しいが、弟は溺愛している水都が達哉の顔を見つめてにこにこ笑う。達哉が少し困った顔をした。 「水都でも似合わないのになー」 水都は失礼な事を言う聡志を黙って叩き、なんでもない顔をしてカフェオレを一口。 「姉貴は綺麗系だからでしょ」 水都は、演奏の邪魔にならないようまとめるために肩下まで伸ばした髪は黒く艶やかで、顔も気が強そうな印象は受けるものの、確かに整っている。 「もうっ達哉わかってるっ」 抱きつきそうな勢いで満面の笑みの水都。達哉も綺麗な笑みを返す。 「おいおい、じゃあ達哉は可愛い系かよ」 「んー、小動物系? 猫とか。あ、でもたまにすごい鋭い目するよね」 最後のものはともかく、それは男としてどうなんだろうと思いながら達哉はコーヒーを口にした。 「で、そうそう、今度はどんな子? やっぱ可愛い系? 達哉好みだもんねー。達哉に声かけてくるのも大体そんな感じの子だし」 「んー、や、どっちかって言うと綺麗な感じ。可愛い系じゃないよ」 「あー、クール」 聡志が小さく頷いていると、達哉も頷いた。 「あ、そっか、兄さん見てんだ、その子」 いいなー、ずるいなーと水都が唇を尖らせた。だが次の瞬間にはそれもなくなっている。表情のくるくる変わる姉を見て、達哉はほほえんだ。 大体この三人で集まれば達哉はあまり話さない。かといって、聞き手にまわるわけでもなく、必要があれば適度に話す程度だった。 「え、ってかクールな子なの? めっずらし、そういう子って自分から告白しなさそうなのに」 「なんかな、ピアノ弾いてって頼まれたんだよな」 そこまで見てたのかと苦笑する達哉。だが水都にはそんなことを気にとめる様子はないようで、わかったという表情をした。 「あ、断らなかったんだ。達哉フェミニストだもんね」 「そう育てたのお前だろ」 完全に呆れた声と表情の聡志だが、言われた水都はけろりとしたものだった。 「そうよー、女の子には優しく! こんな当たり前のこと出来てないんだもん、日本は駄目よ」 達哉は黙って苦笑した。確かに水都の影響はひどく受けていると思う。フェミニストであるのも認める。 「水都の考えは極端すぎるんだよ。でもお前もいい加減断らないよなぁ」 「付き合ってる子いたら断ってるでしょ」 さらりと受け流す。その様子は水都とそっくりだ。 「それ以外は来る者拒まず、だろ。去る者追わずだし」 「だって、付き合ってみないとわかんないでしょ、その子がどんな子か。だからってお友達からはじめましょうって言ったらさ、気が合った時、じゃあ付き合い ましょうって言い出すの難しくなるし」 「はいはい。お前の恋愛論はよく知ってるって。ったく、全然変わんねぇの」 くすくす、みんなで笑いあう。 「今度は、うまくいくといーわね」 その関係の始まりは大抵、というより今まで全て相手の女の子からで、一目ぼれしたからだとか優しくしてくれたからだとかいうのがほとんどだった。達哉にとって今日の恋人は昨日の見知らぬ人であることなど珍しくないのだ。 一目ぼれはともかくとして、優しく する対象は達哉にとって女の子という条件がそろえばそれは全員だった。だが、相手はそんなことなど知りはしない。だから、すぐに終わってしまうことが多い。それもほとんど相手からで、イメージが違うとか、大抵ほかの女の子に優しいからとかいう理由だった。 たまに達哉は自分のことをうまく理解して付き合ってくれる女の子はいないのかもしれないと思う。そういう時はフェミニストに育った自分を恨むのだが、ど んなに恨もうが女の子に優しくするという行為をやめるつもりはない。 それを知っている水都だからこそ、彼女は弟にそう言う。本気での心配を冗談を包み、負担をかけないように気遣って。たとえそれ自体を達哉が知っていよう とも。 「で、名前はなんていうんだ?」 「何、兄さんそこまでは知らないんだ」 「ん、みどり。長瀬みどりだよ」 そんな空気を聡志が流す。それから三人は取り留めのない話をして、それぞれ一人暮らしをしている聡志と達哉は自分の家へ、まだ学生の水都は実家へと別れ たのだった。 |
188 愛を囁いて |
「なぁ、いつまで居るつもりなん?」 「んー、明日には帰ろう思っとるけど」 朝。みどりは味噌汁片手に秋子に尋ねた。萌香と綾奈はまだ寝ている。 「まぁ、迷惑かけてもいかんし、今日はホテル泊まるわ」 「そんな、迷惑じゃないですよ。皆さんがいたら楽しいですから」 梨華がほほえんだ。秋子もほほえみかえすが、首を横にふった。彼女もただふざけているだけの人間ではないらしい。当然といえば当然なのだが。 「さすがにそこまではいかんよ。梨華さんも大変やろーし」 「ええって、泊まっていったら?」 みどりの言葉に秋子は驚愕した。まさか、みどりまでがそう言うとは思わなかった。 「無駄に広いし、ここ。いつもふたりきりだと、ねぇ」 みどりが目の前に座る梨華に目配せする。苦笑して梨華も頷いた。 梨華とみどりの部屋は3LDKのマンションだ。大学生が住むには、たとえ二人が住んでいようともかなり広い。もともとは梨華がひとりで住んでいたとは思 えない。梨華はこの部屋に高校生の頃から住んでいた。 そもそも、家賃を払っているのは梨華でなく彼女の親で、生活費のほとんども払ってもらっている。梨華が再三断っても、彼らには彼らなりの理由があった。 父親からすれば、娘の安全。母親からすれば―――体面だ。それでも梨華は悲しいと思わない。むしろ当然だと思っていた。 「人気なさ過ぎて怖いわよ」 「セキュリティーと生活しやすさから選んでるから…」 ふっと笑ってみどりは肩をすくめた。選んでいるという表現も間違いだ。梨華が好んで選んだわけではない。このマンション自体は親が選んだのだから。さす がに部屋の中まで口出しをする気はなかった、というより関わるつもりはなかったようだが。 みどりをあまりよくわからないまま見つめていた秋子は、そこまで言われてるならいいかと思い直す。 「ほんなら…」 と言いかけたその時だった。 「おはよーございます…」 「おはようございますー」 萌香、綾奈だ。明らかに覚醒していない萌香と笑顔満開の綾奈。対照的だが、なぜか彼女たちらしい気もした。 「あ、おはよう、綾ちゃん」 「もー…先輩、あたし朝ホント…」 萌香にいつもの覇気がない。秋子は苦笑した。さすがに今いつもの調子で話しかけるのは可愛そうだ。 「うん、わかっとるよ、おはよう萌ちゃん」 「わー、おいしそう。すみません、なんか、止めてもらった上に…」 そんなふたりを見ているのか見ていないのか、綾奈が感嘆の声をあげた。梨華はにこりと笑って全然いいから、どうぞとふたりに朝食を勧めた。 「今日はどうするつもりなん?」 「そりゃもー、東京見学やろ」 秋子がにやり、に近い笑みで笑った。まぁそうだろうなと思っていたみどりは何も言わなかった。 「今日土曜やし? 授業ないやろ?」 みどりが一瞬嫌そうな顔をしたが、どうせ同じ学校の梨華もいるのだし、うそをついても彼女にはばれるだろうとため息混じりに言った。 「まぁ、案内してあげるわよ」 「ふふ、ありがとう」 「えぇ、感謝し」 みどりは当然だとばかりの顔で味噌汁に口をつける。 「せんぱーい、ありがとうございますー。何から何まで。ほら、萌ちゃんもお礼言おうねー」 「ありがとうございます…」 おそらく低血圧、なのだろう。梨華は少し和真に似ているなと思った。 「梨華、サークルは?」 「ないから、病院」 「えぇ?! 病院って、どっか悪いん?」 秋子が目を丸くして梨華を見つめた。梨華は慌てて首を横にふった。が、なんと説明していいかわからず困ってしまう。 「梨華じゃなくて、彼氏が、ね。まぁ、もう退院らしいけど」 ふ、と意地悪い笑み。だが事実は事実なので否定も出来ず、かといって肯定できるかといえば、それはやはり恥ずかしい。 「わ、やっぱ彼氏さんおるんや。やろうなぁ、かわいいもん」 秋子はにこにこ笑っている。梨華はただうつむいて顔を赤らめた。 それから取りとめもない話もして、五人はそろって家を出た。その頃には萌香も覚醒したようで、いつもの調子で秋子と話していた。遊ばれていた、に近いの かもしれないが。そんなふたりを綾奈は止める気もなさそうで楽しそうに傍観していた。 「―――梨華?」 みどりの声にハッとした。鍵をかけようとしていた手が、いつの間にか止まっていたらしい。 「なんでもない…」 今日はいつもよりにぎやかな朝だったせいだろうか? それともあの人たちのことを思い出したから? 鍵のしまる音がなぜか頭に響いた。早く、和真に会いたいと思った。 |
027 誰にも言えない、誰にも言わない
(大友和真&宮野梨 華) |
控えめなノックの音。梨華だ、と和真は直感的に思った。いや、そのノックの仕方は梨華だった。 「どうぞ」 「かずくん? おはよう…」 おはようと口を開きかけて、和真の笑顔が曇った。 「梨華、何かあった?」 来てもらって早々そんな言葉をかけるなど、失礼かもしれないと思ったが、言葉はもう出ていたし、梨華はそんなことを気にするような女ではない。そんなこ とより、梨華だった。 「ちょっと…思い出して」 「思い出す?」 案の定、彼女は気に留めていないようだった。おずおずと部屋に入ってくる。いつも入ってもいいか許可を得てから病室に入る梨華にしては珍しい。よっぽど 気が滅入っているのか…しかし和真はそれに気づく余裕もなかった。 単純なことだとは思う。梨華が悲しそうな顔をしていたら、自分も悲しい。それだけだが、それは和真にとって大事な事だった。 「昨日、みどりの…友達の地元のお友達がとまりに来たの」 「…待って、梨華、話が見えない。みどりって人は…何?」 「何って…お友達よ。あ…一緒に住んでるの、今」 そうだ。みどりとルームシェアをはじめたのは大学に入ってから、和真がみどりのことを知らないのはもちろんだが、そんな事情など知るはずもない。 「そう…なんだ」 和真は急にめまいを感じた。わかってはいたが、いざ直面するとどうしていいのかわからない。梨華と離れていた、二年という歳月。梨華自身はもちろん、彼 女の周囲も変化している、当たり前のことではないか。 梨華は戸惑いながら和真の座るベッドの近くに置かれた椅子に座った。 「それで…みどりは、愛媛の子なの。それで昨日、お友達が来て…泊まっていって…楽しかったのよ? だけど…」 変だ、と和真の中の冷静な和真がささやいた。思考回路がうまくつながっていない。何かにせき止められているようだ。和真は焦った。梨華の言いたい事がよ くわからない。梨華は黙ってしまった。 「…梨華?」 和真は梨華の細い手を取った。梨華を落ち着けるため、と和真は自分に言うが、本当は逆だったかもしれない。 観念したかのように梨華が口を開く。 「家族みたいだなって思ったの」 和真はドキッとした。触れたままの手からそれが伝わってはいないだろうか? おそらく、親しい人の中では和真しか知らないだろう。いや、少なくとも二年前、彼らが付き合っていた頃はそうで、和真はいけないことかもしれないが、今 でもそうであればいいと頭の隅で思っていた。 宮野梨華は温かい家庭を知らない。いや、ほとんど覚えていない。梨華は小学三年生の時に母親を亡くした。今の母親は父親の再婚相手だった。彼女はある会 社の令嬢で、愛していたのは夫、つまり梨華の父親だけだった。ふたりの間にはふたりの子ども、息子と娘がいる。だが、もしかしたら彼らは義姉である梨華の 存在すら知らない、覚えていないかもしれない。梨華が高校一年生の時に自らの意思で宮野の実家を出たとき、彼らは五歳と二歳だったのだ。 梨華が両親の愛情を一身に受けて育ったのは小学三年生までだった。それは皮肉にも今の義弟と同じ年齢だ。父親はさすがに梨華の事を心配しているようだ が、社長令嬢の妻には頭が上がらないらしく、連絡もほとんどない。 だから、梨華はふつうの家庭にあこがれていた。誰にも言わないけれども。父親と母親のそろっている家庭。贅沢な暮らしでなくてもいい。すぐ傍で愛してく れる人がほしい。すぐ傍で心配してくれる人がほしい。梨華は誰にも言わない。誰にも、言えない。けれど、事情を知っている和真にはそれが痛いほどよくわ かった。かといって、何か出来るわけではないのだが。 「馬鹿よね、だって、みどりは家族みたいなものだもの」 おはよう、いただきます、いってきます、ただいま、おやすみなさい。どれを言っても返ってくる返事。自分が求めたものではなかったか。 和真は焦っていた。彼女は自分の知らない梨華だった。いや、みどりという子は、どれだけ自分の知らない梨華を知っている? 焦る事なんてない、嫉妬する 事なんてないのに。和真にはみどりが脅威だった。 「かず、くん? ごめんね、こんな話…いきなり…」 「ちが、違う。そんなんじゃなくて。ごめん…梨華が…知らない人に見えた」 こんなこと言うなんて格好悪い。思ったが遅かった。それほど押さえが利かないなんて。 「私、が?」 言おうかどうしようか、迷った。だけどやはり今日は梨華に対して理性が利かないらしい。 「みどりさんに、嫉妬した」 「かずく…」 抱きしめられて、梨華の視界が真っ暗になる。 「羨ましいし。梨華と住んでるとか」 ほっと梨華が息をついたのが和真には感じられた。 「―――嬉しい」 「え?」 必要とされている。想ってくれる人がいる。ひとりじゃない。それが梨華を安心させた。 「かずくんは、誰より私をわかってくれるから」 それはひどく、愛おしい。 |
222 いくつかの愛する方法 |
「いっぱい買ってしもたー」 「先輩買いすぎですよー。最近は通販も出来るんやし…」 「む、萌ちゃんのくせに通販なんてするのかっ」 秋子と萌香が言っているのは服の話だ。秋子は両手に紙袋を抱えている。 「いやいや、しませんけどー」 「せんのやー」 秋子がにこにこ笑う。 「え、何で嬉しそうなんですか」 「萌ちゃんには負けないっ」 秋子の声が高くなる。楽しそうだ、この上なく。 「…その前にどうやっても勝てないと思います…」 「まーまー萌ちゃん。あきらめなさい」 ぽん、と綾奈が萌香の肩に手を置いた。 「お前に言われるとむかつくんやけど…」 あははははーと秋子が笑った。 「みどり先輩、これからどこ行きます?」 再び話を始める秋子と萌香をしばらく見守り、ふと綾奈がみどりに尋ねた。 「行きます? って言われても。どっか行きたいとこないん?」 「あー…個人的にはちょっと休みたい、ですね」 「さんせー!」 秋子が急に会話に入ってきた。 「あ、いいですねぇ」 萌香も同意した。だが、秋子はちょっと顔をしかめた。 「えー…じゃあ…」 「いやいやいや、先輩。もーいいです」 「何がぁ?」 「何がって…」 肩を落とす萌香。にこにこ笑う秋子。 秋子いわく、秋子がこんなにも萌香に構うのは、お気に入りの印なのだそうだ。かといって綾奈がそうでないわけではなく、いろいろな可愛がり方があるのだ そうだ。みどりにはいまだよくわからない。 「じゃーカフェでも入らん? みどり、いいとこ知らんの?」 ドキッとした。ちょうどここが「グリーンアイズ」の近くだったからだ。いや、近いとはいえないかもしれない。だが、遠くもない。 ちょっと迷った。彼は、いないかもしれない。いや、自分は会いたいのだが、あわせたくない。特に秋子に。 そのとき突然みどりの携帯電話が鳴った。見ると梨華からだったので、迷わず取った。 「今から? え、ちょ…いいけど……」 電話はすぐに終わった。秋子が何て? と尋ねた。 「梨華が合流してえぇかって。かまんやろ」 「もっちろん! 大歓迎やし」 「…気に入ったんですね、先輩…」 萌香がつぶやく。 「……心配せんとって、萌ちゃん! 萌ちゃんのことやってちゃんと愛しとるからっ」 みどりがため息をついた。綾奈が苦笑する。 「先輩…」 萌香は嬉しそうだ。 「で、梨華ちゃんいつ来るん?」 「って、切り替え早すぎますよっ」 「えへ」 と、首をかしげる。本人いわくぶりっ子しているわけではない、つまり素、らしいのだが本当のところはどうかわからない。 「…行くわよ、待ち合わせ、カフェやし、ちょうど」 そう、グリーンアイズである。 先についていたのは梨華のほうだった。見れば、隣に男がいた。ナンパだろうかと疑うと、達哉にほほえまれた。 「あ、みどり、紹介するね。大友和真君」 あぁ、とみどりは納得する。名前だけは聞いている、梨華の恋人だ。だが逆に気まずい。達哉に告白して、恋人になって、彼とは初めて会う。その場に、梨華 も彼女の恋人も、更には地元の友達まで。 「大友和真です。長瀬みどり、さん? 梨華がいつもお世話になってます」 いつものみどりならえぇそうねくらいの返事はするのだが、今は出来ずにうなずいた。 カウンターに座っていた二人と一緒にボックス席に入る。逆に多くて助かったかもしれないとみどりは思った。 「ご注文は何にいたしますか?」 見上げると達哉が笑った。客と店員、とみどりは言い聞かせる。 「何か変な感じ、いつもは俺も達哉の立場なのに…」 「じゃあ、手伝う?」 「遠慮します」 達哉の誘いを即座に断った。一瞬でも迷えば本気で働かされることは間違いないからだ。 「聞いてもえぇ? 梨華ちゃんの彼氏さんって和真君なん?」 「そーですよ。えっと、みどりさんの地元のお友達?」 やがてその辺りで自己紹介が始まった。達哉がオーダーを聞き終わって戻っていく。それを見計らって秋子が目の前に座るみどりに笑みを向けた。 「怪しい雰囲気やで」 つまり、付き合っているように見えるが、ということらしい。 「…うるさい」 「わぉ、図星なん?」 何もないならそんなわけないでしょ、となる。がそうでないため、秋子はにやにやと笑った。 「えーなぁ、近くに彼氏さんおって」 「…あぁ」 みどりがひとり納得する。 「あたしも彼氏居るけど、広島やけん遠距離なんよ」 秋子は誰も聞いていないのに暴露する。そうなんですかと梨華がうつむく。ほとんど知らない人なのに、梨華は本気で心配し、かわいそうだと思う。そんな梨 華の心情をわかっているのだろう、和真が梨華の頭をなでた。 しばらく五人はそこで話した。もともと和真は人見知りしない性格だし、梨華も話すより聞くほうが性に合っているので話は尽きなかった。 |