022 笑顔までの3STEP (早坂千里&仲谷勇太) |
「あれ、千里ちゃん、この時間だったか?」 「勇太さん……」 声を聞いたのだって、三日前かそのくらいなのに、ずっと会っていなかったような気がした。 「どうかした?」 「え……?」 いつものコンビニのバイト。千里と勇太のシフトが重なったのは単なる偶然だった。 「ぼーっとしてるぞ」 勇太が苦笑した。ちょっと困っているような、きっと人が良いが為に放っておけないのだろう。その笑みに、千里は何かが崩れ落ちていくような気がした。 「なんでもないです!」 少しだけ無理して明るくする。もしかしたら気付かれているかもしれない。それでもいいとすら思った。千里は勇太を真っ直ぐに見つめる。 「千里ちゃん?」 「今日、時間あります? 聞いてほしいことがあるんですけど」 ケリをつけなければならない。自分の為に。 「あるよ?」 「うち……一年前からひとつだけ、決心しとったことがあるんです」 辺りはもう闇に包まれている。コートを着ていてもまだ寒い。それでも公園を選んだのは、誰にも聞かれたくなかったからだ。 勇太が渡してくれた温かいコーヒーの缶を膝に置いたまま、千里はぽつりぽつりと話し始めた。 「それはまだ終わってなくて、話せんのですけど。でも多分、どうしても耐え切れんようになってたんやと思います」 勇太は静かに聴いてくれている。 「幼なじみと、地元の友達が……なんていうか、わかりやすく言うと両想いで、いつも仲良うて。置いていかれるいうか、そんな感じやったんかもしれないんで すけど」 千里は息を吐き出す。ほんの少しだけ白く濁った。空を見上げる。東京の空にだって、星は見えるのだ。 「うちも、傍にいてくれるていうか、一番に考えてくれるていうか、そういう人……欲しかったんやと思います」 今まではずっと、そういう人が隣にいたのだ。そんな事考えもしなかったけれど。あの頃だったら即座に否定したに違いない。 けれど、今ならわかる。彼は、浩孝が一番に大切にしていたのは、慕っていた従兄でもお気に入りの可愛いクラスメイトでもない。早坂千里という悪友に近い 幼なじみだったのだと。そしてまた、早坂千里も頼るになる年上の幼なじみや、守ってあげなければと意気込んでいた親友より、頼りにならない同い年の幼なじ みを大切にしていた。 それは比べられることではないけれど、大切さを違う方面から見れば順位など入れ替わってしまうものなのだろうけれど、ただ大切だと一言に言うのなら、一 番は彼であり彼女だったのだ。 ずっと傍にいたからこそ気付かなかった。それが当たり前であったのだ。離れてしまって、あったものがなくなってしまったから、追い求めた。 「それを、うちは……」 千里は勇太を見た。勇太も見返してくる。それが思っていたよりもずっと真剣で優しい瞳だったから、千里は涙を零しそうになった。 「好きやったんです。そう思い込んでただけかもしれへん。そんなんうちにはわからへんけど、うちは、勇太さんの事が……」 勇太の手が千里へと伸びた。驚いて身を引いてしまう。そんな千里に苦笑して、勇太は千里の頭に手をやった。 「ありがとう。想いは受け取れないけどさ、そんな風に想ってくれた事は嬉しいから。俺には彼女いるし、多分……千里ちゃん、俺を通して違うやつ見てたな」 優しく、髪をなでる。それにあわせて胸の奥から何かがあふれ出してくるようだった。そして思う。気付かれていたのだと。 「俺は何も聞かないし、千里ちゃんの思うとおりにやってくれていいと思う。たださ、言えるのは……俺にとって千里ちゃんってちょっと特別でさ。なんていう か、妹みたいな感じ?」 今度は千里が黙って聞く番だった。いつの間にか手は止まって腰掛けているベンチの背に移動していたけれど、そんなことは気にならなかった。 「和真の退院祝いの時に、なーんか千里ちゃんがひとりぼっちみたいな気がして、それからかな。放っておけなくて、でも俺にとってそれは恋じゃなかった」 少しだけ千里の胸が痛む。それに戸惑っていると、勇太が苦笑を向けてきた。 「今の彼女だって放っておけないって思ったけど、それはその子が誰かが傍にいなきゃ駄目なんだって思ったからだ。結構相談とか受けてたしな。好きになった のそのときだと思うし。ってこんな話じゃねぇ、そうそう……千里ちゃんはさ、すっげぇ頼りにしてるやつがいるんだよな? そいつがいなくて寂しいって…… まぁその時はそこまでわからなかったけど、誰かを探してる目、してたんだ。自分じゃ気付かなかっただろうけど」 千里はうなずいた。あの頃は本当に自分の中のいろいろなものがごちゃごちゃになっていたような気がする。 「んで、そこになーんか人を放っておけない人間が現れちゃった。そいつもわかってながらやっぱり放っておけない。これじゃあ、千里ちゃんがそんな風に思っ ても全然仕方がないよな」 「勇太さん……」 千里は缶コーヒーを両手に包んだ。 「でもさ、今でも頼って欲しいって思ってる。そんなに頼りになる人間じゃないけどそれでも……俺に出来る事があるんだったら、俺は千里ちゃんを助ける。だ から、頑張って決めた事最後まで貫き通しな?」 勇太が立ち上がった。慌ててそちらに視線を送ると、勇太が振り返ってきた。 「さーそろそろ帰るか。身体冷えてきただろ。送ってくよ。ってこういうのが駄目なんだよなぁ。けどやっぱ放って帰るわけにも……」 「……えぇですよ、今日だけは付き合ったげます。うちの一番の願い事、もうちょっとで叶うはずやから」 勇太が苦笑いした。 「千里ちゃんにまでそう言われ始めたかー」 千里は近くに停めていた自転車を持ってくると、勇太の横に並んだ。こうしてきちんと並んでしまったら、彼は本当に兄のようだと思った。 「えぇやないですか、身内でしょ?」 「まぁ……最初に言い出したの俺だしな……」 笑えるんだ。そう、千里は思った。そしてこれからも笑えるだろう。彼の隣でだけではない、大切な幼なじみの隣でも。 |
102
それは愛しさ故の行為なのです (旭川遼哉&旭川浩孝) |
合格発表の日。美並が専門学校があったために行くことができなかったので、浩孝はひとりで東京まで出てくるこ
とになった。迎えに行くはずだった千里も急にバイトのシフトが入ったために行くことができず、遼哉がひとりで迎えに行くことになった。最初はひとりでこら
れるだろうと嫌がっていた遼哉だったが、美並にさすがに一度では家も覚えられないだろうと説得されたのだ。 「やばいわぁ、緊張してきた」 口調は軽々しいが表情にはそれほど余裕は見られない。 一年前。緊張して泣きそうにすらなっていた千里とは逆に、浩孝は何とかなるだろうとへらへらと笑っていた。遼哉はそれにため息をつきそうになりながら も、それでもやはり受かっていてほしいと思っていた。結果、受かっていたのは千里だけだったのだが。 「結果はもうきまっとるんや、はよ行くで」 この一年で、この従弟はかなり成長したと思う。やはりいろいろと悩みを抱えていたのは千里のほうだったような気がするが、東京と大阪に離れている間に浩 孝は別人のように変わった。 「厳しいなぁ」 「お前に優しくする義理なんかあらへんわ」 浩孝は肩をすくめた。 「俺……だめやったら大阪残るわ」 「……ほうか」 トーンの落ちた声。遼哉はそれにもただそれだけの言葉で答えた。 「もうっ! それだけなんっ?」 「はぁ?」 「もうちょい、寂しいとかぁ……なんかないんっ」 遼哉はため息をついた。まったく、この従弟殿は。 「いつでも会えるやんか」 「せやけど。そういうことやなくて」 遼哉は本当は浩孝の望む言葉が何であるのかわかっていた。けれど、それはどうしても、言えなかった。 「俺はな。お前がうちの大学落ちたとき、正直少し嬉しかったんや」 「え……?」 話しておかなければならないと思った。今のこの時に。浩孝がひどく不安そうにしていることにも気づいていたが、あえて無視する。というより、遼哉はこう いうときにどんな言葉をかければいいのか、それを知らなかった。だからただ、先を続けた。 「美並がな。ひとりになるやろ」 「……遼兄」 結局はそれかと、言われてもかまわなかった。どんな言葉で飾っても、真実はそれで、変わりようがないのだから。 「わかっとる。自分の進路は自分で自分が行きたいところ探せって、そう言うたんは俺や。俺の後をついてきてくれるって、お前らが決めてくれた時もな、俺が 選んだ道が正しかったように思えて嬉しかった、それも本当や」 浩孝は返す言葉も見つからず、ただ黙って従兄の話を聞くことにした。めったにない珍しいことだと自分でもわかっていたのだが、それでもどうして、真剣に 話をしている人の邪魔ができようか。 「けどな……気がついたら、美並がひとりやってん。あいつは、それでも大丈夫かもしれん。あれで結構芯も強いしな。けど……俺が、俺が心配や」 所詮は己のため。こうして話しているのも、おそらくは一種の懺悔。 遼哉は美並のために大阪のころうかとも考えた。だが、それで本当に美並が喜ぶはずがないともわかっていた。 たかが四年、されど四年だ。その間に美並がどんなに傷ついても、そばにいてやれないことのほうが、必ずしも多いはず。そんな時、そばにいるのは誰なの か。それすら、知ることができない。それがもし……自分の知らない男なら。考えただけで言い表せない不安に襲われる。 「まぁ、千里も今回は受かっとるはずやて信じとるみたいやし? これは俺の問題やしな」 そう言って笑う遼哉の顔が、少し寂しそうに見えた。 「……なんや、俺の言葉に惑わされとんか?」 けれどそうして彼が笑うから、浩孝はいかにもむくれています、といった表情を作る。 「何やねん、俺が結構真剣にこれからんこと考えとったのに、もぉ」 「まぁ、あと二年。二年やしな」 意地悪く笑う遼哉に、浩孝は本気で心配するだけ損したのかと思った。そんなわけがないと、わかっているけれど。 「受かっとったらえぇな」 「……うん」 |
052 ミス、キス、レス (旭川浩孝×早坂千 里) |
「……んっ?」 千里の背に、嫌な汗が流れた。いつものようにマンションの鍵をあけてドアノブを引く。なのに、開かない。開かないのだ。鍵を閉めた後に一度ドアを引いて 確かめる、それは癖にしたはず。忘れていたのだろうか、今日に限って。 とりあえずもう一度鍵を、と思ったところでがちゃりと中から鍵を開ける音がした。 「千里?」 よく聞き知った声と、鈍い音が重なる。 「おぉ?」 「いったぁ……。もぉ……ひろっ?」 ぶつけた鼻を押さえ、中から出てきた幼馴染みの姿に驚く。 「何でここに……」 まさか隣の遼哉の部屋と間違えたのかと思ったが、鍵は合っていた。 「もしかして……りょうに開けてもらったん?」 千里は合鍵を遼哉に渡しているのだ。 「おん。なんか遼兄これから出かけるからって」 それはいい。だが、どうしてまた勝手に人の部屋に上げさせるのか。いくら幼馴染みだろうが、千里は女の子なのだ。美並以外は部屋に上げたくない、そんな かわいらしい理由であるはずはもちろんないはずだ。実際この前受験に来た浩孝が泊まったのは遼哉の部屋なのだから。 「そのうち千里が帰ってくるやろうからって言うてたで」 その言葉に千里が頭を抱えたくなったのは仕方がないことのようにも思える。 「あぁ、もうえぇわ、なんでも。ほんで、あんたまさか鍵開けたまま部屋ん中おったん?」 「んー? まぁ」 軽くめまいを覚えながらも、千里は靴を脱いで我が家へと入った。 「あんなぁ。普通、閉めとくもんやろ?」 「けど、すぐ帰ってくるって遼兄が言うてたから」 開けといたほうがえぇかなって。そう言って笑う浩孝に、余計なお世話やとも言えず、千里はただ乾いた笑みをこぼした。 「あ、そうや」 今度は何だとつい千里は身構える。 「コーヒー貰ろたけどよかった?」 「あぁもう好きにして……」 バイトより疲れるという言葉を飲み込み、千里は自分用のコーヒーを入れようとキッチンの上に備え付けられている棚に手を伸ばす。 「取ったろか?」 「別にえぇよ」 特別千里も身長が低いわけでもないので普通に手が届くのだが、浩孝は基本的にフェミニストなのだ。だが、今までに自分に対してこんな風に言ってもらった ことはあっただろうか、とそこまで考えてハッとする。 「あんた! なんかへらへら笑ろうてるけど、結果は?」 「え? 受かっとったで」 なんだかさらりとあっさりと。しかもやはりどこか気の抜けた笑みで。もっと喜んだらどうなん、と思わず千里が叫びそうになったのも無理はない。 「そ……そうなん、おめでとぉ」 「おう、ありがとう」 なんだか気が抜けてしまった千里は、もうコーヒーなどどうでもよくなった。糸の切れたマリオネットのように浩孝の座っているテーブルの横にへたり込む。 「あれ、コーヒー淹れるんやなかったん?」 「もうどうでもえぇ」 ふうんと相槌を打った浩孝は、やがてぽんと手を打ち。 「俺が淹れたろか?」 そう、笑顔で言った。しばらく考えた千里は、乾いた笑みを漏らす。 「恐ろしいことになりそうやからえぇわ」 先日浩孝に淹れてやったコーヒーが、とてもコーヒーとは言えない代物になったことはまだ記憶に新しい。 「そう?」 「うん」 むしろ淹れないでくれと頭の中で懇願する。浩孝はおとなしく引き下がった。 「あ、そんでな?」 「んー?」 テーブルにぐったりと身を任せた千里は生返事を返す。 「俺な、千里が好きやねんけど」 がばっと千里が身を起こす。 「い、今なんて……」 「え? やから、俺千里が好きやの」 見つめ返した浩孝の目は、千里が思っていたよりずっと真剣だった。思わず鼓動がどきりと跳ねる。 「何でそんなん、こんな時に……」 「何がやの。俺、ちゃんと受かったら聞いてほしいことがあるって言うたやん」 そう、確かに言っていた。確かに少し期待はあった。期待というよりも願望に近かったが。今日は本当に調子を狂わされてばかりだ。 「本当はな。一生、言うつもりはなかってん。恋人とかな、そういうんやのうても、幼馴染みやって一生近くにおったってえぇやろ? 幼馴染みやもんな」 それは千里も思っていたことだった。否、千里もまた、そうしようと思っていたのだ。 遼哉と美並が楽しそうに笑っている、それをそばで見ていながら、うらやましいと思っていたのも本当だ。彼ら自身こそ付き合ってはいないというけれど、そ れはそれ、周りから見れば二人は仲のいいカップルのものだ。千里も浩孝も、彼らがそう思うのも無理はない。 けれど、それより強く心にあったのは、告白して駄目だった時のその後を憂う心。もし付き合えたとしても、先に待っているであろう別れ。それを思えば、こ のままで十分だと思えた。 「けどなぁ。一年間。たった、一年間やで? 一年間会えんかっただけで、もうほんま、どうなることかと思た。これで美並ちゃんがおってくれんかったら、俺 勉強どころじゃなかったで」 そんな、嘘か本当かわからない訴えに苦笑する。 「あきらめきれへんねん。ちゃんと終わりがこうへんと、いつまでも千里のこと引きずる。次なんか考えられへん。やからな、千里。ちゃんと俺のこと、振っ て?」 最後の言葉に、千里は頭の中が真っ白になった。身体中を寒気が襲う。 「千里?」 「……何で……?」 千里が何とかひねり出せたのは、ただそれだけだった。 「そんなん……理由は言うたやろ?」 千里よりもずっと、浩孝のほうが泣きそうになっていた。だが、千里が泣けるはずもない。激しすぎる感情の波は、千里から正常な思考能力を奪っていた。 「……何で、何でそんな勝手なこと言うん? そんなん……うちやって、ひろのこと好きやのに……っ」 ぽたりぽたりと握り締めた手の甲に己の涙が落ちる。それは千里の涙だった。 「え、え……ちょぉ、待って……? 今、何て……」 「阿呆っ! うちも好きやの! あんたのことが好きなんよっ」 もう、流れ落ちてくる涙は止めようもなくて、それでもそんな姿は見られたくないから拳でそれを拭う。その手を、浩孝が取った。濡れた千里の目元に唇を寄 せ、そっと口付ける。ぴくっと千里の肩が震えた。 「俺が言うとるのは、こういう意味やで? 恋愛感情の……」 言いかけた言葉を、千里の唇がふさいだ。伏せられたまつげの下から透明な涙が一筋流れ落ちたのを、浩孝は見た。 千里は何も言わない。すっかり下を向いてしまった千里の顔を持ち上げ、今度は浩孝からキスする。 「疑ってごめんな?」 「馬鹿」 「ちょお……俺、関西人やで?」 けれど咎めるその声は優しい。浩孝は力いっぱい千里を抱きしめた。 |
093 君を手繰り寄せる (旭川浩孝×早坂千 里) |
「あ、もしもし? ひろ君? 受かったんやってね、おめでとう」 電話の向こうで、美並は本当に嬉しそうに笑っていることだろう。 「ありがとう。これも美並ちゃんが勉強教えてくれたからやわぁ」 「いいえ、どういたしまして。でもがんばったんはひろ君自身やろ? ほんまにお疲れ様」 顔がにやけとる、と千里は呆れる。確かに美並はかわいい。さらに言えば今更美並を溺愛する浩孝をどうこう言うつもりはない。むしろ勝手にやってろな気分 である。嫉妬心など、不思議なほどまったくなかった。否、対象が自分に回るなど考えたくもない。想像しただけで気持ちが悪い。 「あ、後なー美並ちゃん、俺と千里恋人同士になってん」 「ぎゃーっ! あんた何さらっとそういうこと言ってんねん!」 無視を決め込もうとした矢先の出来事だ。つい叫んでしまった千里の声は、電話の向こうの親友にも聞こえていたことだろう。 「やから報告ー」 「人の話聞けやーっ!」 たった一年だ。離れていた時間はそれだけなのに、まるで別人ではないか。彼は、こんなにもあっさりと物事を受け流せる人だっただろうか。 「あは、千里声聞こえとるて」 「そ……そんなん、わかっとるわっ」 浩孝が意地悪く笑った。マイク部分を手で押さえ、千里を手招きする。嫌な予感がして後ずさろうとした千里の手を捕らえ、無理やり近くへ来させると、浩孝 は千里の耳元でささやいた。 「顔真っ赤やで」 「ひろっ!」 先ほどよりも大きな声。さすがに浩孝も耳をふさいだ。 「何……っ、あんた、意地悪うなってへんっ?」 「えーっもう、美並ちゃん聞いてやぁ、千里が俺のこと意地悪や言うねんけどー」 動揺しているのは千里ばかりだ。もしかしたら美並もそうなのかもしれないが。 「もぅ、勝手に……」 勝手にしろ、言いかけた言葉は浩孝の笑顔にかき消される。 唇の動きだけで、ごめんと告げられる。再び頬に熱が集まっていくのを感じながら、千里は浩孝に背を向けた。これ以上顔をあわせてなどいられない。どこま でが自覚してやっているものなのか知らないが、心臓に悪いのは確かだ。 そのうち、浩孝のうん、じゃあなんて声が聞こえて、電話が終わったのだと理解する。 「千里? 怒った?」 ご機嫌伺いの甘えた声。それにすら、心は簡単に反応してしまって、もう駄目だと思う。 「そういうんや……」 「やってぇ」 あ、と思った時にはもう、引き寄せられていて、背中が暖かいぬくもりに包まれていた。ポニーテールにした自分の髪とは違う、少し硬い髪が首筋に当たって いる。くすぐったいと思ったが、口には出せなかった。 「なんや、嬉しいんやもん」 きっと、浩孝は今とてもきれいな笑みで微笑んでいることだろう。とても見上げることなどできないけれど。 「なぁ、千里? 美並ちゃんが言うてたこと、ほんまなん?」 「は……?」 千里の声は、少しだけ震えていた。 「さっきな、電話で。おんなじ願掛け、してたんやって。美並ちゃんが……」 「え……?」 浩孝の腕が、千里を抱擁する力を強めた。 「願い事叶えるんには、一番大事なもん我慢するんがええんやって」 そう。千里も美並にそう言われた。まさかそれが浩孝自身だとは、さすがの美並も思っていなかったのだろうが。 「俺のこと、一番大事やて、思ってくれた? 今でも?」 それはすがりつくような声だった。 「当たり前やん……。もう、いつからかわからん頃から、あんたのこと好きやってんで?」 千里は顔を上げた。泣きそうな浩孝の顔を見た。 「もう、何て顔しとん」 笑ってやると、浩孝も笑った。 「あのな。俺も、いつからかわからん頃から千里んこと、好きやった」 それが、いつか梨華の言っていた遠回りのことなのか、今でもまだわからなかったが、もしかしたらその頃から恋人という立場であったなら、ここまで待って いられなかったと思う。 「うん」 |
229 天然少年 純情少女 (旭川浩孝×早坂千里/旭川遼哉) |
隣の部屋の鍵を開ける音に逸早く反応したのは浩孝だった。 「遼兄のとこ行ってくるわ!」 「は? あぁ、いってらっしゃ……てまさか!」 快く、というより何も考えずに浩孝を送り出そうとした千里は、ひとつの予感のような、それでいてどこか確信に近いものにぶつかってあわてて浩孝の後を 追ってドアへと向かった。 「遼兄、あんな!」 「わーちょお待ちひろ!」 嬉々とした浩孝と大いに慌てた千里を一瞥し、遼哉は一言。 「知っとる」 それだけを告げ、呆然としているふたりをそのままに、遼哉は自分の家へと入っていったのだった。しばらく何も言えずに固まっていた浩孝と千里だったが、 ドアの鍵のかかる音で我に返った。 「どういうこと、遼兄!」 浩孝がドアに駆け寄って叫ぶ。千里がやばいと思ったのは直感だった。これはドアを叩いて大声でわめきだすに違いない。幼馴染みとしての経験が語る。浩孝 を羽交い絞めにしようとした、その瞬間。 「近所迷惑やろ」 遼哉の声と鈍い音が同時に聞こえた。先刻の自分と同じ目に遭った幼馴染み兼恋人を哀れむ気持ちは、千里にはなかった。それよりも千里の意識は遼哉にいっ ていた。そして思う。 (……従兄弟や) 偶然といえば偶然。更にいえば遼哉はそこに浩孝がいることを承知の上でドアを開けたには違いないのだろうが、それはそれ。千里の目には当事者と傍観者の 違いはあれ、それはデジャヴにしか見えなかった。 「美並が嬉々として報告してきたで。まぁ仲良うせぇよ」 あまりの出来事と痛みに声を失っていた浩孝が再び何か言い出す前に、遼哉はそれだけ言ってまたドアを閉めた。そう、あっさりと。再び放心した浩孝と千里 が戻ってきたのは前回と同じく鍵の掛かる音がした瞬間だった。 「……戻る?」 「うん。鍵かけられたしな。って俺の荷物遼兄のとこなんやけど……」 まだ外は寒い。 「……顔合わす気力、うちにはあらへん」 「うん、俺も」 どうにでもになれ気分のふたりは、疲れを肩に乗せたまま千里の部屋へと戻ったのだった。 「あ、なぁなぁ千里。俺ちょお気になっとったんやけど。この写真のかわえぇ人誰?」 浩孝は千里がコルクボードに張っていた写真を指差した。 「あ、その人? かわえぇやろー? あんたには絶対教えたらん」 緩んだ笑みから一転、千里が意地悪く笑った。 「え、何嫉妬?」 が、浩孝も負けていない。 「あほか。あんたになんか紹介するんもったいないだけや。減る。絶対減る」 ところが千里は頬を染めるでもなんでもなく呆れた目で浩孝を見たどころか、こぶしを握って力説した。一瞬不満を抱いた浩孝だったが、続いた言葉に別の不 満を募らせた。 「なんやのそれ! 減らへん、絶対減らん!」 外野が見ればかなり馬鹿らしい言い合いだったが、両者至って真面目だった。 「あかんあかん。あんたになんか教えたらなんか穢れそうやもん」 「ちょお、千里俺のことなんやと思ってんのんっ?」 ふたりは知らない。隣の部屋で幼馴染みがため息をついていたことなど。 「そういう存在」 「もぉ、俺一応千里の彼氏やろっ? 扱い酷うあらへん?」 彼氏という単語に、千里が赤くなる。それを見た浩孝も赤くなる。隣で後十分は続くであろう言い合いに、頭が痛いと思っていた幼馴染みが急の静寂を不審に 思って隣家へ乗り込むべきなのか本気で悩んでいたことなどつゆ知らず、ふたりは気まずい沈黙を漂わせていた。 それでも、事の原因となった写真の中の宮野梨華は相変わらずの笑顔で微笑んでいるのだった。 |