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073  トロイメライ、トロイメライ 
(早 坂千里&仲谷勇太&森川美並)
 認めてしまう、ということは、随分と人を楽にするらしい。別に好きでいてもいいやと思うそれが、単なる逃げな のか、諦めなのか、なんと呼ぶのかはわからないけれど。
 梨華と話をしてから、今までがなんだったのだろうと思うくらい、千里は勇太に会っていなかった。当然だといえば当然だ。接点なんて、きっと梨華の存在く らいなのだから。
 会いたいと思う。すこし、もどかしい。あれだけ会いたくなかったのに、今は話がしたくて仕方がない。それにだんだん苛立ち始めた頃、再会は突然やってき た。
「いらっしゃいませー」
 あれ、どっかで聞いたことある声やなぁと思って顔を上げたその先に。
「あ、千里ちゃん」
 勇太だった。
「こんにちは…」
 それはあまりに突然すぎて、何の心の準備もしてなかった千里はすこし焦った。
「えぇと、バイトですか?」
「そうそう。結構長いよ、ここ」
 ここというのはファミリーレストランの事だ。
「知り合い?」
 千里はハッとした。そうだ、今日は急に講義の入った遼哉の代わりに、美並と一緒に行動していたのだ。もうお昼だし何か食べようか、そういう話になってた またま近くにあったこの店に入ったのだ。
「知り合いって言うか、なんていうか」
「友達友達」
 勇太が笑って言った。
 その言葉に、千里はどきっとした。
「でいいよね?」
「えぇです」
 素直に、嬉しいと思う。
「そうなんですか。あたし、千里の地元の友達なんです」
「へぇ、そうなんだ。あ、やば。席に案内するよ」
 のんびり店の入り口で話をしていると、咳払いが聞こえて勇太はカウンターから出てきた。
「えーっと、二名様でよろしいですか?」
「はい」
 美並が答えた。

「では、ご注文がお決まりでしたらそちらのボタンでお知らせください」
 勇太が下がっていくと、美並があっと声を漏らした。
「思い出した。どこかでみた事ある思っとったんよね。和真さんの退院祝いの時におった方やろ」
「あーそうそう。せや、美並も一回会ったことあってんな」
「そのときはあんまり話さんかったから、全然わからへんかったけど」
 美並がにっこり笑った。
「なんか、すごい人のよさそうな人やね」
「…確かに」
 あぁ、なんだ。全然普通に話ができる。そう安心している千里には、美並が一瞬複雑そうな表情をした事に気付かなかった。
「何食べる?」
「え、あ、そうや…。本来の目的忘れるとこやったわ」
 千里はそう言ってメニューを開く。
「あ、おいしそう。当たりかな、ここ」
 そう言ってメニューから顔を上げ、美並に笑いかける。
「もう、千里ったら…」
 美並が苦笑する。そうして千里はハンバーグセットを、美並はパスタを頼んだのだった。

266 ラ・ラ・ラ
(早坂千里&仲谷勇太&宮野梨華)
 バイトしようかな、そう思ったのはもう少し自由にできるお金が欲しかったから。この時期になんてないかもしれ ない、そう思っていたが、その呟きを聞いた梨華経由で喫茶店勤務の達哉がいい人がいるよと紹介してくれたのは他でもない、勇太だった。
「あぁ、うん、俺が働いてるとこでひとつ、女の子募集してるとこあるぞ」
 すっかり溜まり場のようになってしまったグリーンアイズで、千里は隣に梨華、正面に勇太というメンバーで座っていた。
「コンビニでシフトあり、店長もいい人だし。でも男ばっかでさ、女の子欲しいから誰か誘えとか言われたとこなんだ」
「コンビニって結構、人気なんじゃないの?」
 尋ねたのは梨華だ。
「うーん、ちょっと場所が悪くてさ、近くに交通機関とかないわけ。会社近いから人は来るんだけど」
 だから千里ちゃん、もし来るんだったら自転車いるよ? と続ける勇太。
「あ、それはえぇですよ。もってますし。ほんなら、そこにしよかなぁ」
 どっちかって言うと、面倒な事はしたくない。簡単に決めてしまえるならそこがいいと思う。知り合いがいるなら、なおさら。勇太さんやし、と思って千里は ドキッとした。軽く首をふる。
「どうかした?」
 梨華の優しい声がする。
「なんでもないです、何か寝不足みたいで。ちょっと昨日レポートやってたんですよ」
 嘘ではない。だが、彼が目の前にいるだけで、眠気が吹っ飛ぶほどドキドキしていた。そんなことをわかっているのかいないのか、梨華は無理しちゃ駄目よと ほほえんだ。
「してませんよぅ」
「ははは、梨華ちゃんと千里ちゃんって、姉妹みたいだよね」
「梨華先輩が下ですか?」
 その言葉に、千里が食いついた。
「うーん、確かに微妙。双子にしとこう」
 しばらく迷って、勇太はそう結論付ける。
「でも、歳は私のほうが上よ?」
「梨華幼いところあるからねぇ」
 奥の席から戻ってきた和真が、通りがてらに言った。
「私、そんなに子どもっぽいかしら?」
「純粋って言いたいんだと思うけどね」
 首をかしげる梨華に苦笑して勇太が答える。
 だが千里は思う。確かに梨華の純粋さは天然記念物並だと。それはまだ、穢れを知らない子供のように。
「じゃあ、連絡しとくよ。明日、俺も丁度バイトだし、一緒に行く?」
「え?」
「場所知らないだろ?」
 あぁそういえばそうやと思って、一瞬でも期待した自分が情けなくなる。
「ほんなら、お願いします」
「了解」

「うわぁ、来るのん迷いそうですね」
「あれ、方向音痴?」
 自転車に鍵をかけながら、ふと勇太が顔を上げる。
「いえ、ちゃいますけど。あんまこっちのほうには来うへんから」
 千里は苦笑した。
「そっか。遠いかな?」
「や、これくらいなら大丈夫です」
 今更他のところを考えるのも面倒だ。
 勇太は満足そうに笑って千里を導いた。

098 錆び付いた盾 
(早坂千里&宮野梨華&大友和真&旭川遼 哉)
 バイトにも慣れて、勇太以外の友達もできて、千里は働くのも結構楽しいと思い始めていた。サークルが終わって からがほとんどで、帰るのは暗くなってからということも多かったが、夜の街を自転車で走るのは結構楽しかった。勇太は女の子がひとりで夜に出歩くのは危険 だと顔をしかめているけれど。
 楽しいのは勇太がいるからだ、とは千里は思いたくなかった。そこまで想ってしまうと、後に引けなくなってしまいそうだから。このままで良いと自分に言い 聞かせる。
「ほら、だから梨華はひとりで来ちゃ駄目だって」
 聞き覚えのある声に、千里は顔を上げた。
「大丈夫よ。こんにちは、千里ちゃん」
「あ…こんにちわ、わざわざ来てくれたんですか?」
 梨華と和真だった。
「えぇ、頑張って道覚えようと思って」
「だからそれが無謀なんだよ」
 梨華が困ったように笑った。
「無理って言われるの」
「……すいません、うちも無理やと思います」
「あら、どうして?」
 梨華が方向音痴であるのは千里だってよく知っている。一緒にお茶や買い物に行く時に嫌というほど経験している。それが何故なのか、千里には理解できない けれど。
「遠すぎますよ」
「歩いたら三十分もかからないわ」
 何故自信がもてるのか、和真にも千里にも理解できない。
「……一時間かかっても無理な気が…」
「だよねっ! ほら、梨華行きたい時は一緒に行こう? そんな命とりな真似やめてよー」
 結構必死な和真にも、梨華はけろりとして言った。にっこり笑顔のおまけつきで。
「あら、道に迷ったって死にはしないわよ」
「帰ってこられなくなりそうじゃんかー」
「ほんまですよ、この辺交番あらへんのですよ」
 あぁもう、俺ホントに泣くよ? と和真に訴えられ、しぶしぶ梨華はひとりで来ないと無理矢理に約束させられたのだった。
「コンビニって結構色々揃ってるのねぇ」
 気を取り直して、梨華がしみじみと言った。
「…コンビニ使わない人?」
 和真が尋ねると、梨華は笑顔でうなづいた。
「だってなんだか、入るのドキドキするでしょう?」
「―――しません」
 なんだそれは、とため息が出そうだ。だが、和真は梨華の知らない面を知れた事には嬉しく思う。
「さすがにお野菜は置いてないのね」
「…スーパーじゃないからね…」
 楽しそうなふたりを、カウンターから眺める。少し、羨ましかった。美並と、ではなくて、幼なじみとやっていたあの掛け合いが、ひどく懐かしい。少しも気 兼ねしないで言葉を声に乗せていた。会わなくなってから、遼哉にすら気を使うようになった気がする。
「梨華にはあんまり買うものないでしょ」
 インスタント食品を買わない梨華には、品揃えが悪いと映るところだろう。
「そんな事ないわ、みどりにお菓子買ってきてって言われてるから」
「うわぁ、何このメモ! 全部お菓子でこんなに書けるかなぁ普通」
 余裕がないな、と千里は思った。いつもは微笑ましいと思うのに、そう思えないなんて。

「千里?」
 自転車を止めて部屋に戻ろうと階段に足をかける。そこで遼哉に声をかけられた。
「あれ、りょう。どしたん…って、買い物帰り?」
 基本的に遼哉は外に出ない。美並が絡まなければほとんど出ない。千里が引きこもりと称したこともあるほどだ。だから、こんな夜へ向かう夕方に外に出てい るのは珍しい。しかも、スーパーの袋なんて持って。
「おぅ。まぁな。あぁ、明日美並そっち泊まるで」
「……リピートプリーズ」
「お前なぁ…何やその片仮名英語」
 深いため息。だが千里は誤魔化されなかった。
「いやいやいや。ちゃうやろ。美並が、泊まる? お泊り? うちに? 何故に」
「何故ってうちは布団ふたつしかあらへんぞ。受験生に布団貸さんわけにはいかんやろ。んで、もうひとつが美並か? 俺はどこで寝るっちゅうねん」
 遼哉にしては随分長く離したものだ。もっとも最近はよく話すようになってきたと千里も思うのだが。
「今日はよくしゃべりますね。って何やて?」
「やから美並が泊まるて…」
 至極真面目な顔をしているけれど、応えは千里の期待していたものじゃない。
「わざと? わざとやろ、その見当違いの答えは。誰の影響や言うてみい」
 十中八九、梨華だろうけれど。しかも演技だろうけれど。やっぱりそっちの才能あるんちゃうかな、と考える千里。
「そういう問題ちゃうやろ」
「ってそうや、受験生って…」
 遼哉の部屋に泊まるような受験生なんて、ひとりしか思いつかない。
「阿呆、明日うちの大学の二次試験やないか」
 千里の動きが止まった。しっかりとその人物に照準が当たった。―――浩孝だ。
「ま、うちは宿代わりやな。美並はついで。あぁそうや、明日の夕方明けとけよ。美並が皆で夕食食べに行きたいんやと。お前どっか考えとけよ」
 皆で。その言葉に千里の思考回路はショートした。
「美並やけど、明後日の朝そっちに迎えに行くからよろしゅう。って逆か」
「何が」
 復活した千里はお前ら一日デートするつもりやな、と思ったがそこは口に出さず。動揺しているままに尋ねた。
「お前世話される方やろ」
 その瞬間、千里の頭から浩孝がデリートされた。
「待て待て待てぃ」
「何や」
 当の遼哉はけろっとしている。
「めっちゃ失礼やで」
「今更やな」
 遼哉がふっと笑った。もう部屋の前。
「ほな、明日な」
 なんやねんもう、とぶつぶつつぶやきながら部屋のドアを閉めた千里は、皆で夕食、の言葉を思い出してどさっと手に持っていたかばんを落とし、しばらく玄 関で動揺していた。

「情緒不安定やな」
 遼哉はスーパーの袋を机に置き、ため息をこぼした。最後に何とかいつもの調子を戻させる事には成功したが、いつまでもは持たないだろうと思った。

204 錠は解き放たれた 
(早 坂千里&旭川浩孝&旭川遼哉&森川美並)
「なんでうちまで…」
 遼哉と千里はふたりで駅まで美並と浩孝を迎えにきていた。
「夕食何処にするんか決めたんか」
 遼哉は千里の不平不満には無視を決め込み、自分本位に話を進める。
「はぁ、何やそれ」
「昨日言うたやろ」
 はた、と千里は考える。そう言われてみればさらっとそんなことも言われたような気もする。
「あ、阿呆! 何でそんな大事な事ちゃんと言わんの!?」
「言うたで」
 そう言われてしまえば確かに返す言葉もない。言われたのは事実、だがわかりにくかったのだと無理にでも主張したい。
「あーもう、どないしよ。梨華さんかなぁやっぱり」
 それでもそんなことを言っている暇などないと良い店を知っている人を考える。
「あいつ外食せんやろ」
 キッと千里は遼哉を睨む。こっちは真剣に考えているのだと目で主張。ただしさらりとかわされた感はぬぐえないのだが。
「あ」
 検索に引っかかったかのように、一人の人物が思い当たった。どきりと千里の鼓動が主張する。千里は横目で遼哉を窺ったが、遼哉は前を向いたままだった。 どうやら不振な事はしていないようだ、と千里は安心する。
「まだ電車来うへんやろ? 電話してもえぇ?」
「好きにしいや」
 相変わらず無愛想な答えだが、いつものようにつっこむだけの余裕は千里にはなかった。
 ちらりと遼哉が千里を盗み見る。気付かれないようにため息をついた。何も、言うつもりはないけれど。
「あ、もしもし、千里です。いきなりなんですけど、今日うちの友達が来るんです。そんで、夕食一緒に食べるんですけど、どこかえぇとこ知りません?」
 少し硬い声。遼哉はただ、美並と浩孝が出てくるはずの改札口を睨んでいた。
 しばらくして、遼哉の隣でピッと電話を切る音がした。
「教えてもらった、えぇとこ」
「さよか」
 遼哉は千里を見ない。
「ちょっと遠いけど、レストラン。そこでえぇ?」
「おう」
 居心地の悪さが、千里を襲った。どうしても言い訳がしたくなって、千里は何を言おうとしているのか自分でもわからないまま口を開いた。
「―――なぁ、りょう…。あの、今の人は―――」
「おった」
 だが、それは遼哉の声にさえぎられる。
「え?」
 千里が遼哉の視線の先を追っていくと、そこには、楽しそうに会話している親友と―――幼なじみがいた。ズキリ、とわけのわからない痛みが千里を襲う。
「あ! 遼兄!」
「…恥ずかしい奴やな…」
 深い、遼哉のため息。耳には入ってくるけれど、すぐに抹殺されていった。ふたりの姿が、近づいてきて、改札を抜ける。
「りょう君…千里。お迎えに来てくれたん?」
「どうせ暇やからな」
 美並のほほえみすら、千里を和ませてはくれない。
「遼兄、ひさしぶりー。…千里も」
 浩孝が、笑った。背が少し伸びたように思う。
「…うん」
 悔しいと千里は思った。浩孝は、こんなにも普通なのに、自分ばかり声が震える。笑えない。きっと誰もが、変だと思っているだろう。
「行くで。とりあえずうち戻って荷物置いてからやな。浩孝、見学は?」
「あ、行く行く。もう覚えてへんし」
 遼哉と浩孝が先に歩き出す。後に美並が寄ってきて、千里の隣に立って歩き出す。
「何か久しぶりやねぇ。最近こっち来てへんかったし。千里全然里帰りしてくれへんねやもん」
「あー確かに。里帰り、してへんなぁ」
 千里はちらっと自分の斜め前を歩く浩孝を見る。帰れば必然に、会ってしまうと思っていたから。だから、ほとんど帰らなかった。
「ねぇ、大学のほうはりょう君に任せて、久しぶりにふたりで買い物行かん?」
「あぁ、明日はりょうとデートやもんな?」
 からかうと、美並は少しだけ頬を染めて困ったようにつぶやいた。その視線は遼哉へと向けられている。
「付き合ってへんってば」
 千里は少しだけ苦笑した。あまり、笑える気分ではなかった。
 どうして会わないと決めてしまったのか―――少しだけ後悔する。会った時に気まずくなると、どうしてあの時考えなかったのだろう。でもまさか、彼が合格 する前に会おうとは思わなかったけれど。
「ねぇ、千里。いろいろ思うところはあると思うけど―――声、かけてあげてね」
「え?」
 美並の言葉に、千里はハッと美並を凝視した。
「明日、本番やろ? きっと、ひろ君は誰よりも千里からの言葉、待っとると思うから」
 美並はにっこりと笑った。千里は何も答えられず、ただ視線を浩孝の背中へと移したのだった。

199 ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ
(旭 川浩孝&旭川遼哉&早坂千里&森川美並)
「じゃあ、七時に待ち合わせな」
「…何かあったら連絡入れぇよ」
 遼哉の言葉に、わかったとうなづいたのは美並。浩孝と千里はずっと黙ったままだった。
「ちゃんと美並案内せぇよ」
 ぽんと千里の肩を叩いた遼哉は、浩孝を促して背を向けた。いつものように怒ったような口調の反論もできず、かといって素直にうなづくでもない千里は、後 ろを振り向いた浩孝と一瞬視線が合った。すぐに浩孝が前を向いてしまったけれど。どきりと跳ねた鼓動は、自分にだけは誤魔化しようがなかった。胸の奥をく すぶるような罪悪感。それが何からくるものなのか、思い当たる事などひとつしかない千里はますますやりきれない想いをもてあました。
「千里?」
 美並の不思議そうな声が聞こえて我に返る。遼哉も浩孝も、もう遠い背中しか見えなかった。
「なんでもあらへん。行こか」
 ひねり出した笑みは、変に思われなかっただろうか。心配になったけれど、口に出す事はできず美並からすら視線を逸らしてしまう。
「そやね、どこ行く?」
 美並が笑う。慕っている先輩―――梨華とはまた違った、安心のできる笑み。それが無性に痛かった。隠し事を、しているせいかもしれない。ナイフで抉られ たような痛みが心臓を襲ったが、千里にできるのはそれを存在しなかった事にすることだけだった。

「―――何しに来たんや」
「…え?」
 深いため息と共に、半ば独り言のような言葉が浩孝の耳に届いた。
「遼兄?」
 浩孝が訝しげに自分より少しだけ背の低い遼哉を見やる。けれど遼哉は何も言わない。
「…そんなん。そんなん、受験に決まっとるやん」
 だから返事を返したのに、遼哉はただため息をつくだけ。
「何考えとるんや、お前。今」
 えっと問い返そうとして、ひとつだけ思い当たる。
「俺……」
 当たり前のように受験に来たと遼哉には告げたけれど、自分でもそれが当たり前だと思い込んでいたけれど、東京についてから―――否、東京に来る前から ずっと、胸をくすぶる受験の不安の火を感じながらも、考えていたのは千里の事ばかり。そのことは、聡い従兄には言わなくてもわかる事実だったのだろう。
「…ごめん」
「謝られても困るわ」
 じっと遼哉は前を見つめていた。浩孝はずっとうつむいていた。そうなったのはきっと、この時からではない。幼い頃から見えない透明なカーテンを見るかの ように感じていた、この性格の違いとも考え方の違いともとることのできるふたりの違いは、一年前から明確になってしまった気がする。浩孝にはあこがれる事 しかできない、遼哉の生き方は、こんな時浩孝を抉る。
 ちらりとも浩孝を見ない遼哉。歳を重ねて、今の彼に追いつけば自分もそうなれるだろうといつからか漠然と考えていた。なのに、どんなに歳を重ねても、結 局のところ追いつく事のできない歳の差のように、いつまで経っても追いつけない。
「お前は、考えすぎや」
 浩孝はそこに立ちすくんだ。動けと命令を出しても動かない足。引き離される距離に恐怖を感じた。
 遼兄、と叫ぼうとした瞬間、遼哉が立ち止まって振り向いた。呆れた顔で浩孝の元まで戻ってくる。
「どないしたん」
 両手をズボンのポケットに入れたまま、ぶっきらぼうに遼哉は浩孝に問いかけた。荒々しいのに、それはとても優しくて、浩孝は不覚にも涙を流しそうになっ てしまった。いつか、まだ浩孝が遼哉を見上げなければならなかった頃のことが思い出された。
「…変わってへんやん、俺。あの頃から…」
「はぁ?」
 自分に呆れて苦笑した浩孝を、遼哉は眉をひそめて見やった。
「んーん、何でも」
 少し笑って、自然と浩孝の足は動き出す。相変わらず呆れた顔の遼哉の隣を追い抜いて、浩孝は歩き出す。後ろから聞きなれてしまったため息が聞こえて、や はり泣きそうになってしまう。
 浩孝の歩調が緩まってきたからなのか、普段は浩孝よりずっとゆっくり歩く遼哉が追いついてきた。そういえば、浩孝はいつも遼哉に合わせさせていたような 気がする。浩孝には合わせた覚えはないから。本当にどうしたことか、そんなことでまた涙腺は緩もうとしていて、浩孝はただ自分に呆れるしかできなかった。
「何をとろとろ歩いてん」
 全く怒気を含まない遼哉の声に反射的に顔を上げた。
「はぐれるで」
 浩孝はじっと遼哉を見つめた。遼哉が眉をひそめる。
「浩孝?」
「何でも!」
 笑って遼哉に追いつく。
「何やねん、お前そればっか…」
 遼哉の言葉が止まる。浩孝は勢いのままに遼哉の腕を取って、日が射したように笑った。
「はよ行こやぁ、遼兄。俺、ちゃんと顔、あげるから」
「は?」
 わけがわからないとしかめた顔で訴える遼哉に笑いかけ、何でも、と繰り返す。
 何かを言われたわけではない。強いて言えば、考えすぎだと言われただけ。もしかしたら、遼哉にとってそれは、なんでもない言葉なのかもしれない。何かを してくれたわけではない。強いて言えば、立ち止まった浩孝の元に戻ってきてくれただけ。遼哉にとってそれは、特別に何かを考えてとった行動ではないだろ う。けれどその全てが、浩孝に早く追いついて来いと促す遼哉の想いだった。
「ちゃんと俺の前、歩いてくれんと俺、はぐれるかも」
「お前なぁ…。誰かに聞けば道なんか誰でも教えてくれるで」
 浩孝は笑った。
「そんなん嫌や。遼兄やないと、俺あかんから」
「はぁ?」
 何を迷う事があろうか。浩孝の前には、明確に前を歩いてくれる人がいるのだから。なのに、あこがれるだけで終わるなんて、なんて馬鹿なことをしていたの だろう。いつだって、一歩踏み出せなかったのは浩孝自身。
「なぁんや、わかってしもたらなんでもあらへんなー」
「…お前、ほんま何しに来たんや…」
 てっきり千里のよそよそしさに落ち込んでるものとばかり思ったら、急に笑い始める浩孝の様子は、とてもではないが遼哉には理解できない。けれどきっと、 美並がこの場にいたならば、それで良いと言うだろう。ただ今はそんな存在が近くにいないだけの事で、けれどそれはだからといって変わってしまうものではな い。
「そんなん、受験に決まっとるやん。俺、絶対受かるで、待っとってな」
 遼哉の腕を放して、今にも鼻歌を歌いだしそうなまでの雰囲気で歩き出した浩孝を見、遼哉はこっそりとため息をつくのだった。心配するだけ無駄だったと。

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