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088  あの日の芽吹きをもう一度
(旭 川浩孝&旭川遼哉&早坂千里&森川美並)
「わぁ…綺麗なとこやね」
 シンプルでいて、どこか高級感を漂わせるそこは、美並に気に入られたようだった。
「ここ、高いんちゃうんか」
 少し浮き足立つ美並を横目に、遼哉は千里に尋ねた。
「や、そんなことあらへんよ。聞いた限りではそんな高くない」
 女の子が喜びそうなレストラン。バイト三昧だと苦笑していた勇太が教えてくれた店だった。
「四名様でよろしいですか?」
「はい」
 美並がにっこりと答える。
「ではこちらへどうぞ」
 促された席は窓際だった。外はもう薄暗い。それでも真冬よりずっと日が長くなっていた。
「ごゆっくりどうぞ」
 軽く頭を下げて応える美並は、実年齢より大人びて見える。環境が彼女を大人にしたのかもしれないけれど。
 注文して料理が出るのを待つ間、なんとなく話は弾まなかった。四人が高校生だった頃―――何を話していただろうかと困ってしまうほど。それは、一年とほ んの少し前であるだけであるはずなのに。それがその時より少しだけ大人になったからではないと知っているからこそ、この静けさは痛かった。
「ひろ君、明日は頑張ってね」
 美並がほほえんだ。
「ん、ありがとう。頑張るわー。絶対受かってみせるで、美並ちゃんにも教わったんやしな」
 浩孝が笑って答えるのを、千里は直視できずに少しだけうつむいた。
 楽天的に言っているのとは、一年前の、深く考えずに大丈夫だと高をくくっていたあの頃とは違う。厳しさは、一年前の合格発表の日に嫌というほど知った。 それでも、やはり遼哉や千里と同じところを、と思うのは変わらなかった。それだけの思いがある。それだけの思いで、一年間離れてやってきた。
 本当に大丈夫なん、一年前だったら千里はそう言って呆れた顔で笑っていただろう。そう思うと、現状がとてもつらい。いざ話しかけようとすると、浩孝に何 を言っていいのかわからなかった。
「まぁ、頑張れよ」
 遼哉は苦笑して言った。
「あ、疑っとるやろ、俺の言葉」
「いや。そんなことはあらへん」
 堪えきれず笑みを漏らす遼哉に、美並は苦笑した。
 千里は膝の上で握った手が温かなぬくもりに包まれるのを感じた。手だ。美並の。
 ハッと隣に座る美並を見る。美並は一瞬千里を見てきょとんと首をかしげ、やがてにこりと笑った。千里は深く目を閉じ、一度うつむいて息を吐き出した。顔 を上げる。同時に目を開く。ちらりと千里に視線を向けた浩孝と一瞬目が合った。逸らしたのは、浩孝の方。
「何よ」
「……別に」
 千里はあからさまに嘆息した。
「そっちこそ、何やねん」
「別にぃ?」
 自然と千里は破顔した。ふわりと千里の顔にのったそれは、浩孝を惹きつける。浩孝は変な声を出さなかった自分に拍手喝采だ。
「―――頑張りよ」
「―――誰に口聞いとん」
 千里はそれ以上何も言わなかった。否、言えなかった、の方が正しいかもしれない。ただ言えることは、そのとき千里の頭には、浩孝の事しかなかった。だか ら知らない。遼哉と美並がそっと視線を合わせて一方は苦笑を、一方は微笑を浮かべていた事を。

308 幼く愚かな僕ら
(旭川浩孝&旭川遼哉&早坂千里&森川美並)
「えぇとこやったね、あそこ」
 そういって笑うのは美並だ。その美並の隣には当たり前のように遼哉がいる。そんな二人をぼんやりと眺めながら、千里は久しぶりに浩孝と並んで歩いてい た。
「あぁ」
 そう、千里が勇太に教えてもらった店。教えてもらっただけだ。それだけなのに、どうして罪悪感を感じるのか、千里は考えたくないと思った。
 なんだかまだ、気まずい。勇太の事を思い出すと、胸がつきりと痛んだ。自分の気持ちがわからない。自分が好きなのは、誰なのか……それとも、誰の事も 想っていないのかもしれない。恋をしたいと思う気持ちがこんな勘違いをさせているのかもしれない。そう思うと、千里はどうしようもなく不安になった。
「……千里?」
 浩之が恐る恐る話しかけてきた。
「……何?」
「いや……何も、あらへんけど。なんや、いつもの千里とちゃう」
 身体が、心臓が、一瞬凍りついた。泣きたいのか怒りたいのか、よくわからない焦燥。
「そんなん……なんであんたに言われなあかんの!」
「……千里?」
 千里の叫びに、先を歩いていた美並が振り返った。ハッと千里が視線を逸らす。
「……一年も離れとったら、知らん人や」
 隣にいる浩孝にすら、聞こえるか聞こえないかの声。それでも、それはあまりにもはっきりと浩孝に聞こえていた。浩孝を、何も言えずにただ目を見開くこと しかできなくさせるほどには。
 だが、言った本人である千里も、あまりの出来事に目を丸くし、慌てて口元に手をやった。
「おい?」
 立ち止まった遼哉が訝しげに眉をひそめている。美並も不思議そうに首をかしげる。
「何でも……あらへん」
 答えたのは浩孝だった。けれど、言葉のわりに声が震えている。
「……お前らの問題に、口出す気ぃなんか全くあれへんけど」
 そう言って、一度遼哉はため息を吐き出す。
「心配、かけさせんなよ」
 美並をはじめとした三人が、同時に目を見張って遼哉を見る。遼哉は視線をさまよわせると、美並の手を取っていくぞと声をかけて歩き出した。取り残された 千里と浩孝はまだ呆然としている。
「……照れとる?」
 美並がくすくすと笑いながら言った。顔を覗き込むようにすると、案の定視線がはずされる。
「……うるさいわ」
 美並はもう一度くすりと笑って、小さなため息をこぼす。
「二人に、悪い事したやろか」
「……あれはあの二人の問題やろ」
 遼哉は後ろを振り返らない。美並は何も言わない。
「生まれてからの付き合いやで? 大丈夫や」
 何かを失ったとしても、必ず残る何かがある。共有しているものは、それだけ多い。そしてそれは、きっとこれからも増えていくはずのもの。
「俺らが……何をしても、結局は何にもならんのや」
 美並はうつむきがちだった顔を上げた。繋がれていた手を、ぎゅっと握り返す。
「せや、ね」
 どうにかしようとしてもがいているのは、皆同じなのかもしれない。美並は後ろにいるはずの友人たちを想う。

026 ハルモニア
(旭川浩孝&早坂千里/旭川遼哉&森川美並)
 部屋の前で、遼哉は美並に耳打ちした。美並はしばらく視線をさまよわせると、ほほえんでうなづく。
「浩孝、お前しばらく千里んとこ居れ」
「え……」
 美並が浩孝に苦笑を贈った。
「話がしたいの。少しだけでいいから……ね?」
 美並にまでそう言われては、浩孝もうなづくしかない。元々、浩孝にもふたりを邪魔するつもりなどないのだから。
「仲良くしとけよ?」
 部屋のドアを開け、美並を先に入れて、遼哉は浩孝と千里を見た。少しだけ笑って、自分も中に入る。ドアの閉まる音が、やけに耳に響いた。
「……入る?」
「ん」
 浩孝が、東京の千里の部屋に入るのはもちろんのことだがこれが初めての事だった。

「大丈夫かしら?」
「あのままにしとってもしゃあないやろ」
 美並専用となっているマグカップにカフェオレを淹れて渡す。受け取った美並はありがとうとほほえんだ。
「……今日行った店、な」
 唐突に切り出された話題に、美並がマグカップを口元に持ってきたまま、半ば上目遣いに遼哉を見た。
「千里が、ある奴に紹介してもらった店やねん」
 カフェオレを一口飲み下した美並は、テーブルにマグカップを置いて、話を聞く体制へと入った。
「仲谷勇太……て覚えとるか?」
「……どんな人?」
 名前で聞く限り、美並には聴き覚えがなかった。
「宮野の彼氏が退院した時に、祝いしたやろ。そこにおった奴なんやけど」
「……カフェの店員さん?」
「や、ない方」
 思い当たる。確かその後にも会ったはずだ。
「わかるけど……」
「千里は、多分……そいつが好きやねん」
 言いづらそうに告げられた言葉。美並は目を見開き、思い至る。そういえば、あの時。あのファミリーレストランで会った時、千里はどことなく変だった気が する。
「ひろ君のこと、好きなんやと思てた」
 美並がぽつりと零す。
「好きやと思うで。やから、多分……」
 いくら待っても続けられない、続き。美並がそっと繋いだ。
「戸惑っとるんやね?」
 遼哉は肯定も否定もしない。美並はそっとマグカップに手を伸ばした。
「寂しかったんかもしれんね」
 まだほんのりと湯気の立つそれを両手で包む。
「そうかもしれんって、多分、千里も思っとるんちゃうやろか」
 遼哉は何も言わない。ただ、丸いテーブルの斜め隣に座っていた美並を引き寄せた。マグカップの中の、ほとんど中身の減っていないカフェオレが揺れる。美 並が驚いて遼哉を見上げた。
「どんな結果になってもえぇ。ただ、あいつらの泣くような事にはならんでほしいと思う」
 美並は力を抜いて遼哉に身体を預けた。きゅっとカップを持つ手に力を込める。
「うん」

「なんか、飲む?」
「ほんなら、コーヒーがえぇ」
 千里が少しだけ顔をゆがめた。
「……飲めるようになったんや」
 千里の知っている浩孝は、コーヒーなんて飲めないのだ。
「牛乳と砂糖があったら、な」
 その返答が、あまりに浩孝らしくて、笑った。すると浩孝もほっとしたように笑う。
「遼兄には、有り得ん量やって言われるんやけどな」
 遼哉はコーヒーはブラックでしか飲まない。唯一の例外は身体に気遣って少しだけミルクを入れた、それも美並が淹れたものだけ。眉間にしわを寄せながらも 文句を言わずに飲む遼哉を見て、千里は本気で恋の凄さを思い知ったものだが。
「ちぃとは、大人にならんとなぁ」
 ふたり分のコーヒーを淹れながら、聞こえた言葉にどきりと鼓動が跳ねた。
「なぁ、千里」
「な……何?」
「俺な、今度こそ、受かってみせるから。だから、そん時はな?」
 浩孝が一度言葉を切った。
「聞いてほしいことがあんねん」
 浩孝のまっすぐな視線を感じながら、千里はただ横を向くだけのその行為が、浩孝を見返すだけの事が、出来なかった。手が、震える。
 浩孝はもう何も言わない。黙ってコーヒーを差し出すと、浩孝も黙って受け取った。
 一口含んで、浩孝はむせた。
「にがっ! 千里、砂糖とってやぁ」
「……結構、入れたと思ったんやけど」
 ぽつりと零して、本気で半端ないのかもしれないと思う。
「あ、牛乳も」
 それ以上入れたらフィフティーフィフティーを超えるはず。心なしか気持ち悪くなってきた千里は、そこまで無理してコーヒーを飲む意味がわからなかった。

108 あなたの為だけに笑おうか
(早 坂千里&旭川浩孝/旭川遼哉&森川美並)
「どうや、出来たか?」
「んー、まぁまぁやと思う」
「さようか」
 前を歩く遼哉と浩孝を見て、美並が楽しそうに笑っている。
「なぁ、美並」
「うん?」
 やわらかいほほえみ。それには幾度も助けられてきた。
「美並は、りょうのこと、好きなんやろ?」
 美並が一瞬目を見開いた。頬が薄紅に染まる。
「うん」
 随分と大人っぽい笑みで、美並はうなづいた。同性である千里ですら、ドキッとするような。
「何で? 何で、りょうなん?」
 美並はただ、ほほえんだ。
「美並……?」
「理由なんか……あらへんよ。好きになったんが、りょう君やったんやもん。それだけやで」
 視線を遼哉の背中へと向ける。好きだという感情など、美並にはいまだによくわからない。ただの錯覚なのかもしれないと、一体何度思っただろう。けれど、 やはり遼哉が愛しいと思うし、今ではもうそれだけで良いのだと思っている。
「もう、つきあっとるん?」
「……ううん」
 わずかに首をふる。美並は深く息を吸い込んだ。
「わかっとるんよ、こんなんやあかんって。けど……甘えとる、んやろうね」
 どうしてこんなに自分のことをわかってくれている人を、信じて受け入れられないのか、本当に自分でもわからない。理由がわかってはいても。
「千里は。こんなんじゃあかんよ」
 ぴくんと千里の肩が跳ねた。
「うちは……」
 美並がほほえんだ。何も言わなくていいのだと、その笑みは語る。もしかして、知っているのだろうか。千里はそう思ったけれど、とても聞けなかった。
「考えたって、あかんところはあるけどね?」
 蚊の鳴くような美並のつぶやきは、千里には聞こえていなかった。

「ほんなら、またなぁ」
「気ぃつけて帰れよ、美並」
「あ、ちょお、遼兄、無視かいな!」
 遼哉と浩孝の漫才のような会話に、美並がくすくすと笑う。とても幸せそうな、笑みだった。
「また来るね」
「おぅ」
 駅のホームで、遼哉と千里は大阪へと帰る浩孝と美並を見送っていた。
「着いたら連絡せぇよ」
「りょうかーい」
 答えた浩孝に、遼哉は顔をしかめる。
「お前からのはいらん」
 文句を言い始める浩孝を、千里はそっと見つめる。美並がほほえんだ。
「先、乗っとるね。ほな、りょう君、また」
「……おう」
「わ、ちょ、美並ちゃん待ってやぁ! ほな、な」
 浩孝は千里に向かって笑った。背を向けて乗り込もうとする浩孝に、はじけるように千里が声をかけた。
「っ、ひろっ」
「……何?」
 振り返った浩孝は、千里の見たこともないような大人っぽい表情で笑っていた。
「待っとるからっ……」
 千里の言葉に目を見開いた浩孝は、あふれる笑顔でうなづいた。

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