wait you

153  ハニートリック
(大友和真 &宮野梨華/旭川遼哉&森川美並)
「いらっしゃいませー」
 ドアに取り付けたベルの音に反射的にそう言って顔を上げる。そこに和真は梨華の姿を認めた。
「こんにちは」
「あ、梨華ちゃん、いらっしゃい」
 にっこり笑う達哉に梨華も微笑を返し、今日はひとりじゃないのとカウンターに座った。
 再びベルの音。
「あ」
 和真が小さく声を出した。ばっちり彼―――遼哉と目が合う。
「おぉ、久しぶりやな」
 それだけ言って当然のように梨華の隣に座る。
「あ、彼と一緒だったんだ?」
「そうなの」
 遼哉の名前を覚えていない達哉が彼、と言うと和真がびくっと肩を揺らした。達哉はそれに気付いてため息をついたが、梨華は気付いていないようだった。
「達哉ー」
 奥から聡志の声がした。
「呼ばれてるから行ってくるね、ここよろしく」
 和真がうなづいた。
 遼哉は携帯電話を開いている。どうやらメールを打っているらしい。
「すみませーん」
 奥のボックス席から声がかかり、和真はふたりの様子が気になったが返事をしてカウンターを出て行った。
 突然隣から舌打ちの音がして、梨華は一瞬おびえた。
「…あぁ、悪い」
 そしてため息をついて立ち上がった。
「電話するから外出るわ。まだ居るんか?」
「うん、じゃあ、待ってるね」
 一瞬視線を宙に泳がし、考えた様子の遼哉だったがわかったと言って出ていった。
「あれ? 帰ったの?」
 コーヒーカップを下げてきた和真がひとりで座る梨華を見る。
「ううん、電話かけてくるって、外に」
「ふぅん」
 ふと梨華が首をかしげた。
「かずくん? 機嫌悪いの?」
梨華の言葉にハッとする。何を疑っているんだろう。疑う事なんてひとつだってないはずではないか。
「梨華は隠し事できないから」
「え?」
 和真は静かに笑った。
「なんでもない。ねぇ梨華、今日梨華の家寄って行ってもいい?」
「えぇ、どうぞ」
 ほら、こうして彼女は何の迷いもなく。

 あ、もしもし遼兄? 明るいふざけた声。こちらはそれどころではないというのに。ため息をついて話を切り出す。
「何やねん、わざわざ電話やないとあかんって」
『うん、それなんやねんけど』
 浩孝の声が硬くなる。浩孝はなかなか先を言おうとしない。
「どないしてん」
『俺―――な。これから受験終わるまで、東京いかん』
「元から来とる場合やないやろ」
 浩孝が乾いた笑い声を漏らした。だがそれにすら覇気がない。
『相変わらずきっついなぁ。それが遼兄やけど。…せやからな、俺…あいつと会わん』
「あいつって…千里か?」
『おん。せやから、遼兄、あいつの事、頼むわ…』
 遼哉はとっさに答えられなかった。けれどやっと、わかってきた気がする。
「言われんでも、千里は俺らの大事な幼なじみやろ」
『うわぁ、遼兄からそんな言葉出てくるなんか思わへんかったわぁ』
「……」
『あ、怒った? うん、まぁ、ほんま頼むわ。俺……絶対受かったる』
 仕方ないなと遼哉は笑った。
「当たり前やろ。次はないで」
『おん……わかっとる』
 こんな入れ知恵をするのは美並しかいない。何て傍迷惑な。そう思うが、彼らには必要だったのかもしれないと思う。それはまだ、わからないけれど。
 電話を切ってグリーンアイズの中に入る。今日はもう帰ろう。美並に連絡をしなくては。

193 地獄の創造者
(早坂千里→仲谷勇太)
 一番辛い時期はとっくに越えたと思っていた。なのに、どうして。
「梨華さーん、一緒に帰りません?」
「あ、でも…りょう君まだ終わってないし」
「えぇですって。久々にお茶して帰りましょうよー」
 後残っている今日の撮影は遼哉のものだけ。他の人は終わり次第帰ってもいいと言われたのだ。
「じゃあ…りょう君に先に帰るって言ってくるわね」
「え……」
「終わった時に探させてしまったら悪いもの」
 千里の複雑な表情に気付いたのか気付いていないのか……おそらくは後者であろうが、梨華は千里の返事も聞かず走っていく。
「……梨華さん、そんなに走ったらこけますよ……」
 今日の撮影。走ってくる梨華のシーンで、それは起きた。自分の足に躓いて、皆があっと思った瞬間には時既に遅し。幸い梨華に怪我はなかったものの、それ はしっかりとビデオに納められていた。
「千里ちゃ……っきゃっ」
「梨華さ……!」
 かわえぇ人やなぁと思い出し笑いしていた千里は梨華の自分を呼ぶ声にハッと意識をそちらに向ける。そこには再び転びそうになって何とかとどまった梨華の 姿があった。
「……今日、災難ですねぇ」
「……そう、ね……。あぁ、もう……恥ずかしいわ」
 ほんのりと朱に染まった頬を両手で包み、ため息をつく。
「……先輩? さっき台本、持ってませんでしたっけ」
「こけそうになった瞬間に手放してたで」
 パシッと梨華の頭上から音がした。
「あぁっ! りょう! 梨華さんになんてことすんねん!!」
 梨華の背後には撮影をしていたはずの遼哉、その手には宮野梨華と名前の書かれた台本。先ほど梨華の頭を叩いたのはそれだったらしい。
「大丈夫よ、痛くなかったもの」
「……いや、そういう問題やないでしょう」
 痛いとか痛くないとかいう前に、叩かれたという事実はどうするのか。にっこり笑う梨華に、遼哉の深いため息が聞こえてきた。
「どうしたの?」
「あ?」
 人が聞けば怖いと称される返され方だが、梨華には通用しない。
「ため息ついたでしょう」
「……千里、早よ連れて帰れ」
「……今回ばかりはそうするわ」

「何か梨華先輩、今日は機嫌がえぇですね」
「えぇ、だってね、千里ちゃんもりょうくんもなんだか元気になったから」
 千里が目を見開く。
「あっちゃー。心配、かけてましたか」
「あら、私が勝手にしてる事だわ」
 心が不安定なのだと自己分析して、落ち込むだけ落ち込んで、美並に電話する。たいした事でない事を他愛もなく話し、もうしんどいっと思ったときには気分 が晴れていた。
「先輩、うち、後もうちょっと……頑張ろうって決めたんです。せやから、それが終わったら、うちの話、聞いてくれますか?」
「えぇ、いつでも」
 思っていたのはどうしようもない幼なじみのことだけで、もう大丈夫だと、そう、思っていた…のに。
 ふと、目に付いたその人に、千里の心は大きく揺さぶられた。
「あ……勇太さん?」
 梨華が何気なく口に出した名前に、ますます。
「あ、梨華ちゃん。奇遇じゃん、最近よく会うなぁ」
「えぇ、でも丁度よかった。あのね、この前きちんと紹介していなかったから」
 知りたくないと思った。知らない人同士のほうがずっといいと。なぜこんなことを思うのかすら、わからない。
「仲谷勇太です。よろしくー」
 笑った彼に―――言葉で表すなら、ときめいた。
 どうして出会ったのか。どうしてこんな想いになるのか。
 苦しみたくなんてないのに。今までの全てを否定したくなんてないのに。認めたくないのに。
「千里ちゃんって呼んでもいい?」
 あなたは、あなたは、あなたは―――…。

273 それはくだらない僕のエゴ
(早坂千里→仲谷勇太)
 なぜか、今日はボックス席で、千里の隣には梨華が、そして前には勇太がいた。
「へぇ、大阪出身なんだー」
 この笑顔は曲者だと千里は乾いた笑みの裏側でため息をついた。
 客もだんだん引いていく。ウエイター姿の和真が梨華の隣を通り、ふたりがそっとほほえみあうのに気付いて千里の胸が少し痛んだ。
「あ、和真ー、お代わりー……って無視かこら!」
「淹れなおしてくるだけです」
 にっこり、和真は笑ってカウンターに戻っていった。
「くっそーあいつ無駄に達哉に影響受けやがって……俺が出会った頃はあんなじゃなかった……!」
 本気なのか冗談なのかわからないギリギリのラインで顔をしかめ、拳を握り締める勇太に、千里はつい笑ってしまった。それに勇太がしばし固まる。
「……あのぉ?」
「えーっと。こういうことって言わないほうがいいのかもしれないけど、俺の性格上言わずにはいられないっていうか」
 勇太が頭に手をやって視線を宙に泳がせた。
「話がまったくわからへんのですけど……」
「あぁ、だから、やっぱりホントに笑ってたわけじゃなかったんだなぁさっきまでって思ったっていうか……うん」
 千里は驚きに目を見張った。そして徐々に下に顔をうつむかせる。
「知り合ったばっかの俺が言うのもあれだけどさ、千里ちゃん笑顔似合うんだから、無理して笑わなくていいと思うぞ?」
「あーっ! 勇太が千里ちゃん口説いてるっ! 達哉ーっ」
 いつの間にか客はいなくなっていた。和真の野球で鍛えた声がグリーンアイズに響く。
「ってこらこらこら! ちょっと待て! 口説いてない! 達哉呼ぶな! わーっ達哉、来なくていい何もねぇって!」
 すごい勢いで立ち上がり、あたふたとよくわからない身振りを始めた勇太を、千里は困った顔で見つめていた。

 誰にも言えない。まして美並になんて。遼哉にもだ。
 電話の着信音。梨華が慌てて立ち上がり、部屋の隅へと移動した。
「あ、勇太さん?」
 何気ない一言に自分でも驚くほど過剰な反応をしてしまった。
「えぇ、あ、じゃあ明日渡しに行きます。え? でもそんな。……じゃあ、はい、お願いします」
 パタンと携帯電話を閉じ、顔を上げた梨華と目が合った。慌てて逸らす、前に梨華ににこりとほほえまれた。
「……なにかあったんですか?」
「えぇとね、かずくんの、昔の記録が欲しいって」
「記録?」
 困ったように笑いながら、高校生時代の野球の、と梨華は答えた。
「仲谷さんって、野球部なんですか?」
 梨華は首を傾げてたっぷり考え込んだ。
「そういえば……どうなのかしら?」
 その言葉に、少しだけ残念だと思ったのは、何だったのだろう? いけない、駄目だ。
「千里ちゃん? 気分悪い?」
「え……いえ。ちょお、考え事してて。すんません」
 梨華が笑った。だが少し眉根を寄せている。また心配をかけるかもしれない。千里には、そういうときの対処の仕方がわからない。だから、出来るのは心配を かけないようにすることだけ。
「あら? 私、勇太さんからだったって言ったかしら?」
 心臓がはねた。ちらりと遼哉に視線を走らせた。こちらを見てすら、いない。ホッとする。だがその自分の行動に気付いて再び早鐘となる心臓。
「先輩……言うてましたよ、電話出た時に」
「あぁ……そうだったかしら? よく聞いてるのね」
 梨華に他意はない。わかっているけれど、辛い会話だった。

「野球部? 俺違うよ、頼まれただけだし。俺サークル入ってないから。バイトしてるんだ」
 次の日、勇太は梨華の大学までそれをとりに来た。
「けど本当よくもってたよな、梨華ちゃん」
「記録は全部……無くなっちゃったらいけないからコピーしてて……」
 大学生になったとき、他の人のものは全て捨ててしまったけれど、どうしても和真の分のコピーだけは捨てられなくて、現在に至る。
「ごめんな、本当は本人に取りに来させるべきなんだけどさ、やっとあいつ投げれるようになったもんだから……」
 梨華がにっこりと笑った。気持ちはわかるから、それでいいと梨華は思う。
 仲のよさそうなふたりに、千里はちらちらと何度か視線を向けていた。話すだけの勇気は無い、それでも気になって仕方がないのだ。
「じゃあ梨華ちゃん、また今度」
「うん、またね」
 勇太が出て行く、それにほっとする反面―――すこし、寂しかった。
「―――」
 遼哉は、思う。あの、眼。
 黙って部室を出る。梨華の隣を通り抜けた瞬間、彼女の驚いた顔が見えた。
「……おい」
「……? 俺?」
 勇太が周りを見渡し、自分を指差した。
「せや」
 遼哉が強い瞳を向ける。だが勇太はきょとんとしたままただ立っていた。
「名前は?」
「え……仲谷勇太……」
「仲谷か。お前―――」
 言いかけて、ハッと口を噤む。何を言おうとしたのだろう。ただ、衝動的に。
「え……っと?」
「……なんでもない。引き止めてすまんかった」
 千里に、近づくなと。お前は、似ているんだと。
 ―――どうして、言えようか。そんなの彼の勝手だ。自分たちの事情を、押し付ける気なのか。
「……そういう顔してないのにか?」
 厄介だと思う。そういうところが、いつもへらへらしてそうで、実は全然そうでもないところが。
「俺は……旭川や。なんかあったら、俺に連絡せぇ。梨華経由でつながる」
「いや、意味わかんねぇし」
「あぁ……俺も、そのままわからんでいて欲しいわ」
 だが確信はある。千里は彼に惹かれる。いや、惹かれているのだと―――……。

139 息もつかせぬ、ナインティーン
(早 坂千里&森川美並&旭川浩孝)
 きっと、次に会ったときにはもう、駄目だと―――わかっていた。
「あ……」
 千里の動きがハッと強張った。天気がよかったからなんとなく嬉しくなって、買い物に行こうと思い立って外に出た。それだけだった。偶然だったのに、全 て。視線はすぐに彼を見つけた。
 勇太はなにやらそわそわしている。たまにあたりを見渡して。
「―――あ」
 勇太の視線が、千里にとまった。しまったと思った時には遅かった。気付かれる前に、背を向けているべきだったのだ。そうすればきっと、何も手遅れなんか にはならなかっただろうに。
 勇太は困ったように笑った。
「……こんにちは」
「あ、こんにちは。久しぶり」
「お久しぶりです」
 これくらいの挨拶は普通だろう。そう考えて、そう考えてしまった事に気付いて愕然とする。
「えーっと、買い物?」
「はい。天気がえぇから、思い立ってもうて」
「そっか」
 仲谷さんは、と千里は聞けなかった。明らかに誰かと待ち合わせしている。彼女と…だろうか。そんな事関係ないはずなのに、どうしても―――考えてしま う。
「あー……っと」
「勇太君っ?」
 横からかわいらしい女の子の声がした。千里はとっさにそちらを振り向けなかった。
「美緒ちゃん……」
「その人……っ」
「あー違う違う。……その……」
 とても、かわいらしい子だった。泣きそうになっているその表情すら。
「梨華ちゃん、覚えてる? よな、やっぱ。彼女の、後輩なんだ」
 今そこで会ったんだと言って、笑って勇太は美緒の頭をなでた。
「あ……っと、うち、ほんならそろそろいきますわ」
「あ、うん。何か引き止めちゃって、ごめんな」
「急いでへんですから。ほな」
 千里はぺこりとお辞儀をして踵を返した。元来た方向だったが、それより平常心を保って歩く事のほうに意識がいってしまっていた。後ろから、じゃあ行こう かなんていう勇太の声が聞こえた。
 十分離れたことを、一度だけ振り返ってふたりの姿が見えないことで確認して走り出した。
「ひろ……っ」
 変だ。おかしい。こんなにも、あいつの事が好きなのに。なのに、どうしてこんなにも彼に―――勇太に惹かれるのだろう?
 買い物になんて行く気分にならなくて、千里は自分の部屋に飛び込んだ。

 チャイムの音がして、美並はエプロンをはずすと玄関へと向かった。
「はい」
「美並ちゃーんっ」
 そこには、半ば泣きそうな浩孝がいた。
「浩君?」
「もうほんまにあかんっ! ここ教えてっ」
 浩孝の手には数学の問題集があった。
「えぇよ、どうぞ」
 美並は浩孝を中に促す。
「もう俺無理かもしれん……」
「浩君。一年間、今まで頑張ってきたやろ?」
 美並はそう言って紅茶淹れてくるからと立ち上がった。
「美並ちゃん」
「うん?」
 キッチンから美並の返事が返ってきたのを確認して、浩孝はおずおずと切り出した。
「俺、ほんまに受かると思う?」
「うん、思うよ」
 美並は少しの間もなく、一点の曇りもなく答えた。
「美並ちゃん……」
「あたし、信じとるもの」
 紅茶のポットとカップを載せたお盆を持って美並が浩孝の隣へとやってきた。
「どんな時やって、あたしは浩君なら大丈夫やて思っとる。やから、不安になってもえぇんよ。その分私が信じとくから。ね?」
 浩孝はくしゃっと笑った。
「ん。ごめんな、美並ちゃん」
「何が?」
「助けてもろてばっかりやから。あーぁ、あかんなぁ。俺、遼兄に美並ちゃんの事は任せてって言うてもうてんのに…」
 美並が困ったように笑った。手馴れた手つきで紅茶を淹れる。
「助けられとるんは、同じよ? あたしな、わかったんよ。こんなあたしでも、ちゃんと人の役に立てるんやなぁって」
「何言うてんのっ! 美並ちゃんは、いつやって人の事ばっかり考えて…もうちょっと自分の事考えたらえぇって俺も千里も―――」
 ハッと浩孝の声が止まる。だが美並はまるで気にしないで―――それは単なる見せ掛けだったかもしれないが、笑った。
「ありがとう。あたしやってな、あたしのこと考えてくれる人がおるから、人の事考えられるんよ。今は」
 東京で、何かが起こっているのはわかっていた。何かとまではわからないけれど、頻繁に途切れるようになった千里からの連絡も、どこか落ち着きのない遼哉 の様子も、それを裏付けていた。千里に何かあったのだと、だけど向こうから伝えてこないのならば、見守っていようと美並は思う。
 ―――あいつの……浩孝の事、頼むわ。
 この前遼哉が戻ってきた時にぼそりと伝えられた言葉。そこにどれだけの重さがあるのか、遼哉はきっと、美並にはわかっていないと思っているのだろうけれ ど。美並は笑って分かったと答えたから。
「美並ちゃん?」
「あ、ごめん……」
「んーん。なんか、すごい優しい笑顔で笑っとったから。なんかあった?」
 美並は首を横に振る。
「誰にも言うてへんから、秘密」
 それでも、と美並は思う。遼哉と浩孝と千里、どんな事になっても、きっとこの三人の関係は変わらない。それは確信にすら近い。だって、こんなにも自分が 羨ましいと思っているのだから。
「勉強、しよ?」
「あー……そうやった……」
 落ち込む浩孝を見る。この一年、千里がいなくなってから、浩孝のあの過剰とも言えるスキンシップはすっかりなくなった。
「えっと、ここやねんけど」
「ここ?」
 きっと彼女が隣にいるから、良くも悪くも本当の自分を見せられるのだと、美並はそう思う。今の浩孝が無理しているとか、作られたものだとは思わない。け れど、本当にきらきらしている浩孝は千里の隣にいる彼だと思うから。
「解答見てもわからへんねん。これ、何で出てくるん?」
「えっと、これはね、えぇと……この公式を使ったら……」
 神様は少しだけ、彼らに試練を与えたのだと思う。離れなくてはわからないこともあるから。そうしてまた会った時、今まで以上のものが手に入れられるはず だから。遼哉と“距離”をおく美並は思う。
「……ごめん、もー一回……」
「うん。えっとね」
 それでも超えられる想いなら、きっとずっと続けられる。まだ、自分には自信がもてないけれど。

208 言の葉の花束を抱きしめて 
(早 坂千里&宮野梨華)
「梨華先輩…うち、もぉどうしてえぇか、わからないんです…っ」
 何も事情なんて知らない梨華。それでも、頼れるのはもう、彼女しかいなかった。知られてはいけない。遼哉にも、美並にも。だって―――。
「千里ちゃん、落ち着いて。今から私の家にいらっしゃい」
 電話越しに梨華の優しい声がする。千里は電話を切るなり電車に飛び乗った。

「ごめんね、今紅茶きれてるの。ココアでいい?」
「あ…そんな、気ぃ遣わんといてください」
「だって、千里ちゃん体冷えてるでしょう」
 梨華は笑ってココアの入ったマグカップを二つ持ってきた。
「今日みどりはバイトなの。当分帰ってこないからくつろいでね」
 気付かれていたのかどうかはわからないが、梨華は千里の一番気になっていた事について言及した。ほっとした顔をマグカップからたちのぼる湯気で隠す。
 しばらく沈黙が続いた。
「―――梨華さん」
「なぁに?」
 いざ話そうとすると、何からどこまで話していいのかわからない。梨華はただ、ずっと待っていてくれる。
「仲谷さんと、友達なんですよね?」
「えぇ、お友達よ」
「―――あの人…恋人さんとかおるんですか?」
 梨華は困ったように笑った。
「えぇ」
 コトッとマグカップをテーブルの上に置く。膝の上に置いた拳が震えているのを他人事のように眺めた。
「千里ちゃんは、勇太くんのこと好きなの?」
「…うち、好きな人おるんです。ずっと好きな人。ちっちゃいころから、ずっと」
 はっきり思い出そうとしてもなかなか出来ない。思い出はたくさんあったけれど、映像にするのは難しい。
「そいつ、うちと同い年で、うちの大学一緒に受けました。けど、あいつだけ落ちて…地元で浪人してます…」
「うん」
「待ってるんです。そいつを」
 だから会わないんだとか、電話もしないんだとかは言わない、言えないけれど。今でもまだ、こうなってすら、やはりこの願掛けは捨てられない。
「なのに、惹かれてまうんです―――」
「―――絶対ね、無理だって思ってたの」
 ぽつりと隣から梨華の声がした。ハッと顔を上げると、梨華はしっかりと前を向いていた。
「だから、別れようって。一年なんて長すぎるって思ったわ」
 梨華が和真のことを言っているのはわかった。だが、なぜ今それを言うのかがわからない。それでもきっと意図があるんだろうと自分を押し込めて、千里は 黙って聞く。
「あの人は高校生で、私は大学生でしょう? 一年間受験を背負っていく人を、私は待ってあげられるのかなって思ったら、絶対無理だって思った。私はね、諦 めたの」
 千里ちゃんと逆ね。
 梨華はそこで初めて千里を見た。
「一年間、野球の応援は行ったけど、会わなかったし電話もメールもしなかった。そうして一年過ぎて、二年過ぎて、勇太さんが私にね、彼が待ってるって教え てくれたの」
 あの映画の天使の笑み、だけどそれはあの時よりずっと本物に近かった。
「再会して、また付き合ってね、わかったの。あぁ、遠回りも大切なんだなって。今でも時々―――私の知らない彼がいて、戸惑うし、知らないんだって思った ら絶望すらするの」
 だって彼女は、本当に天使だから。大友和真という人の、彼だけの天使。
「でも、それでもね、もう離れたくないなって思うの。ねぇ、千里ちゃん。今すっごく苦しいでしょう。だって千里ちゃんは、その人を想うこと、諦めようとし てないものね」
「でも…っ! うちは、あの人のこと…」
 梨華は首を横に振った。
「ねぇ、千里ちゃん。もし、あなたが本当にその人のことを忘れようとするのなら、勇太さんに、もっと…その…アプローチ、してるんじゃないかな」
 和真が、美緒と付き合っていたように。
「でも、今のままじゃ、千里ちゃんすっごく苦しいでしょう?」
 千里は素直にうなづいた。
「じゃあ、もっと勇太さんのこと知ってみたらどうかな」
 千里の眉がひそめられた。梨華がほほえむ。
「千里ちゃんは勇太さんのどこが好きなの?」
 それは、あの…笑顔が。どうしようもなく、千里を惹きつけるのだ。
「相手を好きになるのって、突然でしょう? きっかけなんて何なのか、その瞬間まで…もしかしたらその後だってわからないかもしれないじゃない。相手の全 てを知って好きになる人って、そうそういないでしょう? 千里ちゃんはどう?」
「うちは…あの人のこと、全然知らへんて、思います…」
 梨華の手が、千里の膝の上で固まった拳の上にそっと置かれた。
「だったら、わからないでしょう? どうして、千里ちゃんが勇太さんの事好きになったのか」
「…どうして?」
「えっと、つらいこと、言うかもしれないけど。えぇとね、仲谷勇太っていう人間を好きになったのか、それとも…千里ちゃんの本当の好きな人に似ているよう に見えるから好きになったのか」
 梨華の言葉は千里の胸を抉る。本当にきつい言葉だった。違うと叫んでしまいたい。きっとそうしても、梨華は笑って許してくれるだろう、だけど…そんなこ と、したくはない…だから抑える。
「かずくんは、ね。私と別れていた間にひとり彼女さんがいてね、その人と付き合ったのは、私の代わりだったんですって。あ、でも全然似てなくてね、ずっと いい人なんだけど…。だから、そういうことだって、あるってこと」
 梨華は困った顔をした。
「えっと、だから…私が言いたいのはね、勇太さんのこと、好きでいてもいいと思うな、ってことなの」
「でも彼女さんおるんでしょう?」
「そう認めるのは、大事だと思う。できるなら、二人の幸せ壊したくないものね。でも、だからって無理矢理自分の思いを押さえ込んでも、つらいだけだと思う から」
 恋愛って楽しいだけのものではないけれど、それでも出来るならつらいことは少ないほうがいい。
「恋人がふたりもいるのは困ったものだけれど、女友達なら何人いてもいいわけだし。その女友達がね、自分のこと恋愛対照で見てるんだって知っても、勇太さ んはその人のこと遠ざけるような人じゃないと、私は思うの」
 だって、千里ちゃんが好きになるような人だものね。
 梨華の言うことば全てが理解できるわけでもなければ、納得できるわけでもなかった。それでも、千里はこれで満足した。
「うち…あの人と、友達になってみます。とりあえず好きやとかそういうの置いといて、仲谷さんのこと、知ってみよかなって」
「千里ちゃんがそうしたいなら、きっとそれが一番いいんだと思うよ」
 どんな素敵なアドバイスだって、本人が納得しなければ意味がない。梨華は後の全ての選択を千里に任せ、冷えかけたココアを口にした。

TOP   NEXT