エメラルドの瞳は何処辺に
女王リルマリンが村長の別宅に滞在していることは、村の誰もが知っていた。ナターシャは髪が乱れるのも構わずに、全力で走り続けた。
「アリオスっ!」
息も絶え絶えに村長の別宅に辿り着いたナターシャは、その扉の前に項垂れたアリオスを見つけた。精一杯叫んだけれど、それはひどくかすれてしまっていた。
「なんだよ、何しに来たんだよ」
ナターシャは息を整えながら、ほっと胸をなでおろした。アリオスが落ち込んでいるということは、リルマリンは彼の願いを聞き入れなかったということにな
る。しかしここでナターシャは首をかしげることとなった。ナターシャにとって「厄介者」であるアリオスがいなくなるということは、非常に喜ばしいことであ
る。はずである。なのに、どうしてアリオスがいなくなることを止めようなんて思ったのだろう。
「別にっ、用なんてないわよっ」
「ふん、どうせ俺が落ち込んでるのを見に来たんだろ」
アリオスがふてくされて横を向いた。けれど憎まれ口を叩かれても、ナターシャは怒る気にはなれなかった。何か、もっと大事なことがあるような気がしたのだ。尤も、それが何かなんてわからなかったのだけれど。
「……ねえ、あんた、本気なの? ルシュイアナに行きたいって」
「悪いかよ。俺はもっと多くのものを見てみたい。あの馬車、すっごかったよなぁ。あんなもんが、ルシュイアナにはもっといっぱいあるんだぜ。そういうの全部、見てみたいと思わねぇか?」
段々とアリオスの表情が輝いていく。ナターシャは溜息をついた。
「あんたね、馬鹿じゃないの。あたしもあんたも、子どもなんだよ? 子どもがどうやってひとりでルシュイアナで生きていくのよ」
「俺は、騎士になる。騎士には宿舎があって、そこで暮らすことができるんだ」
ナターシャは頭を抱えた。これだから男の子は、夢を見すぎて困る。腰に手を当てたナターシャは、大きく息を吸い込んで。
「馬鹿っ! あんたわかってんの、騎士になるってことは戦いになったら戦場に行かなきゃいけないってことなのよっ」
出来る限りの大声で叫んだ。アリオスも思わず耳をふさぐ。
「馬鹿はお前だろ、耳元で叫ぶなっ!」
「ふふふ、本当にあなたたちは仲良しねぇ」
柔らかい声が聞こえて、アリオスとナターシャは同時にその方向を見上げた。そして固まる。そこには女王、リルマリンがいた。楽しげに笑って、ふたりを見て
いる。そういえばここは村長の別宅で、ここにはリルマリンが滞在しているはずで。かあっとナターシャの頬が赤くなった。
「ご、ごめんなさいっ」
「あらあら、咎めてなんていないわ」
リルマリンは楽しそうに笑っている。その微笑は本当に綺麗で綺麗で。同じ女であるはずのナターシャでさえ、嫉妬を覚える前に見とれてしまう。こんな女の人になりたいなとナターシャは素直な気持ちで思った。
本当は、アリオスの気持ちもわかるのだ。ルシュイアナには、このアリスブルクにはない何かがある。もっと凄いもの。もっと綺麗なもの。そんなものがたくさ
んあるんだ。もっとたくさんの人がいて、もっとたくさんの物があって、この辺鄙な田舎では経験できない何かを得ることができるんだ。本当はナターシャだっ
て、そういったものをたくさん見てみたい。アリオスと同じように、広い世界へ飛び立ってみたい。
だけど、できない。
だって、ナター
シャは五人兄弟の一番上のお姉さんなのだ。たくさんの家畜たちの世話をしたり、毎日苦労ばかりを重ねても、それでも何とか家族が食べていけるほどしか取れ
ない畑を耕したりと何かと忙しい両親や祖父母を助けて、弟や妹たちの面倒を見てやらなくてはいけなくて。ナターシャがいなければ、家は回っていかない。自
分の好きなことだけをやっているわけにはいかないのだ。ましてや家を出るだなんて。やっぱり弟も妹も可愛いし。だけど。
「まあまあ、どうしたの、ナティ」
どんなに頑張っても、やっぱりナターシャはまだまだ子供でしかなくて。目に涙をいっぱいに溜めて、ぎゅっとスカートを握るナターシャに、リルマリンは困っ
たように首をかしげた。そんなことすら絵になるようで、ナターシャはますます泣きたくなってしまった。悲しい気持ちはぐるぐる回る。そう、だって、どんな
に憧れたって、頑張ったって、ナターシャはリルマリンにはなれないのだ。結局は、毎日泥や子どもの鳴き声や叫び声にまみれて、ばたばたと忙しい毎日を送る
しかないのだから。
だから、悔しかった。羨ましかった。素直にルシュイアナに行きたいのだと言ってのけ、実行しようとすらしていたアリオス。どうせアリオスは子どもだから、と負け惜しみを思ってみても、気分なんて少しも晴れなくて。
それでも、女王陛下の前だから、泣くわけにはいかなくて、ナターシャはぐいっと涙を拭って首を横に振った。
「ねえ、ナティ。私はね、子どもは、子どものうちは、感情のままに生きてもいいと思うのよ。悲しい時は泣けばいい。その代わり、楽しい時は思いっきり笑うの」
リルマリンは膝を折ってナターシャと視線を合わせた。
「人間はね、いつか嫌でも大人になるわ。そうしたら、泣きたい時に泣けなかったり、笑いたい時に笑えなかったりする。だからこそ、大人になるまでは、好きなだけ泣いて、笑って、怒ればいい」
じわじわとまた溢れてくる涙を、それでもまだ、ナターシャは素直には受け入れることはできなくて。でも、止めることもできない。うまくコントロールができなくてぐちゃぐちゃで、どうしていいのかわからない。そんなナターシャの髪を、リルマリンは優しく撫でた。
「ナティはまだ、子どもでいてもいいと思うの。少なくとも、ここではね。だって、ここには私とアリオスしかいないわ。私はナティが子どもでいることが悪いことだとは思わない。きっとアリオスもそうよ。だって、ナティが先に大人になっちゃったら、アリオスはきっと悲しいわ」
ね、とリルマリンはアリオスに微笑みかけた。アリオスはおずおずと頷いた。本当に意味がわかっているのかはわからないけれど。いつも威張りたがりのアリオスがおどおどしているのがおかしくて、ナターシャは涙をためたまま笑った。
そして、本当に、心から、リルマリンのことをすごいと思った。もっとこの人の傍にいてみたいと思った。そうしたらきっと、幸せなのになと。悲しいくらいにそう思った。
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