エメラルドの瞳は何処辺に

「いつもいつもすまないねぇ、ナティ」
「いいっていいって。あたしにどーんと任せといてよ」
 石畳の道路を歩く利発そうな少女と、お腹の大きな婦人。婦人は妊婦だったので、少女は婦人の買い物を代わりに持っていた。
 二人が住んでいるアリスブルクの小さな村は、王都ルシュイアナから東に遠く離れた場所にある。その割には人口もそこそこに多い、牧畜が盛んな村だった。
 北の大国シッキム帝国は、冬になるとその土地の大半が雪に覆われる。アリスブルクもやっと長い冬を終えようとしていた。
「ねぇ、おばさん? もうすぐ女王が来るって本当?」
「さぁ、みたいなことをうちの旦那が言ってたけどね」
 婦人の夫はアリスブルクの地方役所に勤めている。村の情報源だった。
 シッキム帝国の王は、つい半年ほど前に代替わりしたばかりであった。今の帝位は十七歳のリルマリンが女性ながらについている。
「おばさん、見たことあるんでしょ?」
「えぇえぇ、昔、都に行ったときに遠目にね。まさか、こんなに早く女王になるなんて思わなかったけどねぇ」
 ふぅんとナティことナターシャはしばらく考え込んでいた。婦人は微笑んでナターシャを見つめていた。
「きれいな人だった?」
「さぁ、そこまで目はよくないさ。けど、あれは銀色というのかねぇ、髪が太陽にきらきら輝いててね。本当に綺麗だった。それだけは覚えてるよ」
 ナターシャはそっかと笑って話題を変えた。ちらっと幼馴染みのことが思い浮かんだが、慌てて振り捨てた。
「ありがとね、ナティ。助かったよ」
 婦人の言葉にハッとしてあたりを見渡すと、いつの間にか自分の家の近くに来ていた。ナターシャは婦人の荷物を彼女に渡した。
「気にしないでよ。こういうときはお互い様! じゃあ、おばさん、身体に気をつけてね!」
 大きくて手を振って走り出す。ナターシャもお遣いの途中だったのだ。
 ナターシャは五人兄弟の一番上だった。弟が三人と妹が一人いる。早く帰っておやつでも作ってやろうと、ナターシャの足取りは軽い。
「ナティ! 大変大変!」
 だから、友人のシルヴィスが血相を変えて走ってきたとき、思わず身構えてしまった。

 時は数時間前に遡る。
 アリオスは親の言い付けで隣町での用事を終えて帰ってくるところだった。
 後ろから馬の足音と聞きなれない音を聞いて、アリオスは思わず振り向いた。
「馬車だ!」
 アリオスは馬車など見たことはなかったが、父親から話だけは聞いたことがあった。
 いわく、車輪のついた箱が馬に引かれて走っている。荷車を馬が引いているだけじゃないのかと思っていたが、確かにそれは父の言うように箱だった。しかも、アリオスが想像していたよりずっときらびやかな箱だった。しかも、馬に運ばれているだけあって、速い。
「すげぇ……!」
 小さかったそれは、見る見るうちにアリオスに近づいてきた。好奇心旺盛な男の子には大変興味を惹かれるもので、アリオスも例外なく瞳を輝かせて馬車を見つめていたのだが、それはあっという間にアリオスの目の前まで迫ってきた。
「何だよこの大きさっ」
 慌ててアリオスは道路の端に寄った。これにぶつかられたら死んでしまうと思ったのだ。父親は人がひとりふたり乗るためのものだと言っていたが、それは父親の勘違いだと思った。これの半分ほどしかない荷車だって人は三人は確実に乗れる。荷物を乗せることが主なので、はたして荷車であってもどれだけ人が乗れるのかアリオスにはわからないのだが。
 すると、馬車がアリオスを少し追い越して止まり、アリオスは自分の言っていたことが聞こえてしまっていたのかと軽い恐怖に襲われた。
「そこのあなた」
 馬車の中から声がした。少し高慢な女の人の声だ。アリオスはムッとしたので返事をしなかった。
「お前だ」
 御者もアリオスを見た。それでもアリオスは応えない。
「テルーズ、カロル」
 息を呑むほどきれいな女の人が聞こえて、アリオスは思わず「箱」を凝視した。これほどにきれいな声は、今まで聞いたこともない。
 そのままじっと見ていると、扉が開いて女の人が降りてきた。
 アリオスは目が離せなかった。銀であるのか、金であるのか、色素の薄い髪の間に風が通り抜け、ふわりと浮いた。娘はやわらかい微笑を湛えている。この人は、本当に人なのだろうか。もしかして、天上から舞い降りてきた天使なのでは?
「この近くの民ですか?」
 問いかけられても、しばらくアリオスは返事ができなかった。
「小僧!」
 御者の罵りに意識が現実へと戻ってくる。
「小僧じゃない!」
「カロル、やめなさい」
 娘が御者を見て、困ったように笑った。そしてアリオスに向き直る。
「あなたはこの近くに住んでるの?」
「陛下!」
 一番初めの女の人の金切り声が聞こえ、思わずアリオスは顔をしかめた。
「テレーズ」
 名前を呼ばれた女の人は、渋りながら口を閉じる。
「教えてくれないかしら?」
 やわらかな声が自分に問い掛けているのだとわかった瞬間、アリオスはうなずいていた。
「アリスブルクという街をご存知?」
「それ、俺の街だ!」
 まぁと娘は楽しげに微笑んだ。
「では、案内していただける?」
 小首を傾げて頼んでくるきれいな人に、アリオスは勢いよくうなずいた。

「ちょっと、何なの、シルヴィー?」
 ナターシャはシルヴィスに向かって怒った顔をして見せた。だが、いつもはそれを咎めてくるシルヴィスがそれをしてこない。変だな、とナターシャは思った。
「何なの? どうせ、大したことないんでしょっ?」
「違う違う! 大したことあるもん! アリオスが……アリオスが、馬車に乗ってきたの!」
 聞きなれない馬車という言葉に、ナターシャは首をかしげた。どこかで聞いたような気もするけれど。
 しばらく考えて、他でもないアリオスが無駄にきらきらした瞳でずっと前に語っていたような気もする。よくわからないとナターシャが素直に言うと、これだから女はと怒っていた記憶がある。あまり楽しくない思い出に、ナターシャの気分は急降下し始めた。
「勝手にさせとけばいいじゃない。あたし関係ないもん!」
「すっごい綺麗なんだよ! ねぇねぇ、あたしナティ呼びに来るためにちゃんと見ないで来たんだよ!」
 綺麗。男の子が走る馬車に興味があるなら、女の子は止まっている馬車に興味を持つものだ。ナターシャも少しだけ興味が湧いた。
「ねぇねぇ、一緒に見に行こうよ! ね?」
 甘えるようなシルヴィスの行動に、ナターシャも仕方ないという風を装った。
「行ってあげてもいいよ……」
「やったぁ! だからナティ好き!」
 笑いあう少女の片割れは、手にもっている買い物袋のことなどすっかり忘れてしまっていたのだった。手をつないだ少女たちは先を争うように走っていった。
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