空は晴天。
心は…嵐。
U.天使の奇想曲 〜Angel Capriccio〜
後悔先に立たず。何でこんなことになってるのだろう…。冷静とも決していえないが、落ち着いてないともいえない。
違う。落ち着く…なんて問題じゃない。
「降ろしなさいっ!!」
「えー、楽しいのにー」
レナの、今の状況。
自称天使のリヴァにつれられ…というより、無理矢理つれてこられた…の方が正しいのだが、只今空の上を飛行中である。にこぉと笑うリヴァに、下を見られ
ないレナ。
非科学的なことは、信じない。否、信じられない、のにだ。この状況はいったいなんだろう。
「飛ぶなら一人で飛べばいいでしょう! こんなところ…誰かに見られでもしたらどうするの!」
「見えないよー。飛んでるときは」
どんな理屈かわからない。反論したかったが、頭がうまくまわらない。
空中にいるレナを支えるのはリヴァの細い腕。その背中に真白の羽。こんなところから落ちたら、確実に死ぬ。考えただけでぞっとした。移動はゆっくりだ
が、上空の風は、地面に足がついていないという状況は、自分の身体の下に直接大地があることは、かなり恐ろしい。
とにかく、この状態をどうにかしなければ。
「リヴァ。もういい。いいから…っ」
「楽しいでしょう?」
「えぇ、そうね…」
かなり引きつった笑み…だが、リヴァは気付かないようだった。
「リヴァ、本当に人間の世界にいるんだね」
いきなり何事かと、とリヴァを見上げるレナ。そんなことはどうでもいい。聞けというなら地上で聞きたいと切に願った。
「リヴァね、すごく嬉しいの」
リヴァは、レナを見ていなかった。遠くの、天空を見ている。それがいたたまれなくて、レナは視線を逸らした。
「…そういえば…どうやって来たの? ここへ」
レナは自分で言って驚いた。これではまるで、自分が彼女を天使として認識しているようではないか。今、リヴァといるのは彼女の正体を暴くためではなかっ
たか。
「わかんない」
「―――え?」
意味がよくわからず、聞き返そうとしたレナだった―――が。
「う……っ」
ガクリ、と少し身体が落ちる。―――リヴァごと。
「ど…どうしたの?」
「お、もい……っ」
「…っ悪かったわ……ね…っ?」
女として絶対に言われたくない言葉にキッとリヴァを見つめた、その瞬間。身体が、軽くなった気がした。
「え……?」
軽くなるわけがない。頬をなぶる強い風。地面が、あれほど望んだ地面が近づいて―――そう、落ちているのだ。
レナは一瞬にして青ざめた。
「きゃ―――っ!」
「れ、レナっ!」
さすがにあわてるリヴァだが、レナの落ちるスピードに、リヴァの飛ぶ速さが追いつかない。
「っ、!」
キン、と黒く空が光る。光のもとは、空ではなく―――…リヴァだった。
「え…?」
だが、それに気をとられているわけにはいかなかった。刻一刻と迫ってくる地面。
レナは瞳を硬く閉じた。
(死にたく―――ない!!)
痛みは、感じなかった。再び感じる浮遊感。
(あ・・・れ?私・・・もう、死んじゃったの・・・?)
「大丈夫か」
低めの声。それは、男性のもの。
「え、はい」
反射的に答えてから、ハッとした。
目の前にいるその人は、黒い服に、黒い―――羽。見覚えは、あるはずがない。
「―――誰?」
自分でも、かなり間抜けな声だな…と思う。だが、そんな声しか出なかった。
「リヴァは俺をマキヤと呼ぶ」
「は…?」
しばし沈黙。ゆっくり、思考の波が戻ってくる。
「あたし…生きてる・・・?」
「遅いな」
「うるさいわねっ」
確かに遅いかもしれない。だが、ショックとパニックは簡単に収まるものではなかったとレナは思った。
地上から・・・数センチ。レナはマキヤに、抱きかかえられていた。しかも、横抱き。ハッとマキヤを見上げるとばっちりと視線が合った。
「怪我はないか?」
またも反射的に頷く。どうも、いつもの調子が戻らない。あんな事があった後だ、当然といえばそうなのであるが。
「では、俺は元に戻るぞ」
「元…って?」
地に降ろされるレナ。
キン、とまた光。だが、それは先ほどとは違い、白かった。
「レナっ大丈夫?」
覗き込んでくるその顔は、確かにリヴァで。
「リヴァ…あんた、一体…?」
リヴァは困った顔をした。
自分が知らないだけで、天使とはそういうものなのか―――だが、その考えはリヴァの答えに打ち砕かれる。
「私も、わかんない」
「え?」
「自分が危険になったときとか、誰かが危険になったときとか。あれになるの」
あれ―――とは、やはりマキヤのことだろう。
「マキヤのことは…リヴァも、よくわからないの」
「わからない…って?」
「なんで、マキヤになるのか」
リヴァの瞳が揺れる。わからないままに自分の身体が違う人になる―――それがどういう感覚なのか、レナには想像することすら出来ない。
「普通はならないの?」
「ならないの」
レナは、なんと言えばいいのかわからなかった。笑い飛ばすこともできただろう。だが、それは―――できるわけがなかった。
リヴァの暗い瞳。はじめてみる哀愁の漂った表情。ただ事ではない。事情を知らないレナでもわかる。それが、直感でしかなくても。
「黒羽はね。堕天使の印なの。マキヤは…堕天使なのかなぁ」
遠い遠い、高い高い空を見上げるリヴァ。その瞳は、レナに向けられてはいない。
チガウ―――直感で思ったその言葉に、何の力がある? 下手に言っても、逆にリヴァを傷つけるだけだ。自分は、何も知らないのだから―――……。
「あの、ね。私には天使なんてわからない。だけどね、堕天使だったら、私を助けるはずないでしょう」
「でも……」
そう。このくらいのコトバに、何の力もないことなど、わかっている。だが、それでもレナの唇は動いていた。声は確かに、リヴァに届いていた。
「でもね!嫌じゃないんだよ?だって、もし、マキヤがいなかったら―――私、レナを助けられなかったし!」
レナの暗い雰囲気に気付いたのだろう。
明るく言う。だが、それは、とってつけたようで…。
笑う。だが、それは、とても引きつっていて―――…。
なんと言えばいいのか、わからなかった。
「にっ!?」
だからレナは、リヴァの頭をパシッと叩いた。そう痛くはないはずだ。
「“にっ”じゃない。帰るよ」
きょとんと呆けているリヴァに、笑みを向けるレナ。
「帰……る…?」
「行くとこ、ないんでしょ。来ないなら、いいけど?」
「行くっ」
ぱあぁ、と笑みを作って空を舞う白羽の天使、リヴァ。
「あのね、リヴァ」
後からついてくるリヴァに背を向けたまま、レナは言う。
「空飛ぶの、悪くはなかったよ。急には嫌だけどね」
レナに、そのリヴァの表情は見えなかったけれど。こくりと、頷いた―――気がした。