この世に、“カミサマ”なんて、存在しないんだ。
 この世に、“テンシ”なんて、存在しないんだ―――……。


1.天使の狂詩曲 〜Angel Rhapsody〜



「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「…え?」
 ソラからコエがした。―――…空から、声がした。
 頭に何かが落ちてきた。
「…羽?」
 白い白い羽だ。
「鳥?」
 ―――違う。鳥の羽にしては、あまりにふわふわしている。
 空を仰ぎ見た。
「―――……」
 帰ろうかなぁ、なんてレナは思った。
「危ない―――!」
 白い羽を背中に生やした、同い年かと思われる女の子が、空から落ちてくる。
「あぁ…幻覚が……」
 レナは頭を抱えた。

「痛…」
 彼女は顔をしかめて腕を擦っていた。レナはじっとそれを見つめる。自然とこぼれるため息。
「…帰ろ」
『それ』は幻覚というにはあまりに生々しい。
『それ』は夢というにはあまりに矛盾がない。
 だが、レナには―――いや、おそらくはこんな場面に遭遇したなら誰もが思うだろう。
 ありえない。疲れてるのかもしれない。何かの間違いだ―――だって『それ』は。
「変なもの見たなぁ、羽の生えた女の子なんて」
「あや? リヴァが見えるの?」
(―――話しかけてきた……)
『それ』は、空から落ちてきた『それ』はおかしいなぁ…と呟いて首をかしげている。
(あんな高いところから落ちてきて、動けるなんて…脅威だわ)
 多少論点がずれているような気もするのだが…そう思うのだから仕方がない。
 それとも何かの特撮だろうか。それにしてはカメラなんて見当たらないし、本当に人が落ちてくるわけがない。
「うーん。普通の人間には見えないはず…」
 レナは一人でぶつぶつつぶやくその子を無視しようとする。関わりたくないと思った。
「わかったー! あなたも天使なんだー!」
 ひどく、ひどく楽しそうな声。
「……は?」
 レナの動きがぴたりと止まる。しまったと思ったときにはもう遅い。だが、いきなり天使呼ばわりされて動揺しない人間なんて居るだろうか。
「天使…?」
 眉をひそめてへらへら笑う『それ』を見た。
 話の流れからすれば、『それ』は天使だということになる。だが、この世界に、この現実というリアルワールドに、『天使』という存在は実在しないはずであ る。それは昔の人々が創った幻であり、ファンタジィの生き物だ。
 何かのドッキリか何かなのだろうか。
 信じられるわけがない。たとえ目の前に『それ』が存在したとしてもだ。レナは確かにリアルワールドの住人で、さらに言えばファンタジィを信じていない人 種だ。神様も仏様も、幽霊さえも信じた事がない。この世界で生きていくには自分の力しか頼れないのだと思っているのに、だ。
「あれー? 違うのー?」
 『それ』は笑う。こちらの意思とは関係無しに。
「あたしはね、天使なんて信じた事がないわ。あなたが何をしたいのかまったくわからないけど、相手が悪かったわね」
 もし自分がいつの間にか眠っていたとして、これが夢であったなら、随分と滑稽だと冷静に思う。だが、夢の不自然さはひとつだって感じない。それが夢の中 に居るという証拠なのか―――…。
「えぇと、じゃあ、あなたは人間?」
 ごく当たり前のことを問われる。鼻で笑ってしまいたくなってしまった。彼女はいったい何者なのか…だんだんそれは恐怖へと変わりはじめていた。
「あなた、いったいなんなの?」
「リヴァ? リヴァは天使だよ?」
 なんだろう。彼女は何がしたい? 何が言いたい? このまま走って逃げてしまおうか。いや、そもそもここにとどまっている理由など、ひとつとてないの だ。
「あ。あたし、リヴァ。よろしくね」
「何…?」
「だって、自己紹介まだだったから…」
 無邪気に笑う。それはレナには悪魔のそれにすら見えた。
「ねぇ、あなたはなんていうの?」
 リヴァと名乗った『それ』はレナに問いかける。
 怖い、怖い怖い怖い怖い。
「名乗る名前なんてないっ!」
「どうして? リヴァ…何か、気分悪くさせた?」
 レナが言葉に詰まる。足ががくがくと震え始めるのがわかった。
「あのね…リヴァ…リヴァは…人間の事よくわからないの…。リヴァは天界から見てただけだから…」
 うつむくリヴァに、気がつけばレナは手を伸ばしていた。途中で気付いてハッと引き戻す。
「あなた…天使なの?」
 信じられない。信じたくない。今まで持っていた概念を全て、覆される事。イエスの答えが怖かった。
「うん、そうだよ?」
 だけどそれは当たり前のように訪れた。これが夢なら早く覚めて欲しいと思った。
「ねぇ、あなたの名前を教えて?」
「聞いてどうするの?」
「え…だって、呼ぶ時に困るでしょっ?」
 彼女は笑って答えた。
「リヴァね、人間のお友達が欲しいんだ。ずっと憧れだったから!」
 目の前の天使は言う。にこにこ笑う、いえば笑っているだけの彼女に拍子抜けした。
 もしこれが現実なのだとしたら―――レナの頭が冷静に回り始める。目に見えないものは信じない。それは、逆を言えば自らの目で見たものは何であれ、信じ ざるを得ないということ。
 だとしたら事態はもっと簡単な事なのかもしれない。この世界に、天使という生き物が存在しているのだとすれば?
 それだけの事。たったそれだけの事だ。昔の人が天使を創造したのは偶然ではなく、誰か見える人が居たからだとすれば?
 『天使』は羽を持ち、天上の国に住んでいる。空を飛んで―――ならば真実はどこまで真実なのだろう。
「どうしたの?」
「天使って…何なの?」
「何、って?」
 問い返される。レナは笑った。くだらない。とてもくだらない問いだった。所詮は問い返されるだけの。
「ねぇ、あなたが現実に居るっていうんなら、あたしに証明してよ」
 リヴァは言われた意味がわからなかったのかきょとんとしている。
「あたしはレナ。天卯麗那。ねぇリヴァ、これから行くとこあるの?」
「え? ううん、無い…」
 反撃開始。これが現実なら、どこまでがリアルなのか確かめる。これが夢なのなら、いつでも覚めるがいい。どんな結果だって、受身であるのはつまらない。
「じゃあ、うちに来たら?」

 目覚めたら、朝だった。
「夢……」
「おはよう、レナ」
 聞き覚えのある声。
「リヴァ……」
 どうやら、夢の可能性は低い。
 レナは、はぁっとため息をついた。昨日の意気込みはどこへやら。本当に冷静になったなら、ただ厄介なものを拾ってしまっただけなのでは。昨日とまったく 変わらない様子のリヴァに、もう一度だけ、ため息をついた。

top next