僕
を
動かせるもの
レイは夏樹の左隣に立って、どうしたと問いかけた。だが、夏樹は答えるどころかそちらを見ようともしない。レイの心底楽しそうな笑い声が、誰もいない静
かな礼拝堂に響いた。
「帰らないのか?」
「無駄なことは嫌いだと、何度言わせる気だ」
腰かけたまま、胡乱気にレイに視線を突き立てるも、それは少しも効いてはいないようだった。それどころか、ますますレイの機嫌を良くさせてしまったよう
で、夏樹はいっそ溜息でもついて気を紛らわせたい気分になった。
最悪の事態である。
「まだ僕にそう言うという行為は無駄だと思われていないのか。光栄だな」
夏樹は返事を返さない。
「機嫌を損ねてしまったか? 素直な奴だ」
不意にぎぃと扉の開く音がして、ひたひたと歩いてくる足音。レイがそちらを向くと、マヤの姿があった。
「お前、まだここにいたのか」
マヤはそう言って差し出されたレイの腕に素直に抱かれた。嬉しそうなレイの横顔に、夏樹は呆れかえる。視線に気づいたのか、レイが夏樹を見た。それは夏
樹にとって予想外の出来事で、考えるより先に視線を外してしまって、驚く。
レイがマヤの鼻に小さくキスを落とした。
「ナツキが妬いている。抵抗しなくていいのか?」
そう言ってちろりと夏樹を見る。
「それともマヤが妬かれる方か?」
夏樹は左のポケットからナイフを取り出して、くるりと回した。夏樹は決して両利きというわけではなかったが、ナイフだけはどちらでも使えるようにしてあ
る。
「いっそお前のことを殺したら、そのすっとぼけた性格ともおさらばできるだろうに、やってみるか?」
首元に突きつけられた刃の切っ先にも少しも動じる様子はない。相変わらずなレイの様子に、夏樹は本気でそれを付き立ててみたくなった。しかし、それなら
やはり喉がいい。そのためにはレイの正面に回る、もしくはレイを自分の方に向かせなくてはならない。それは面倒だ。
やはりやめるかと思ったその時、レイが口を開いた。
「例え魂だけになろうとも、僕はナツキから離れるつもりはないから、それは無駄な行為だな」
あまりの嫌悪感に、夏樹はナイフを降ろした。
「気持ち悪いことを言うな」
「本気なんだが」
「真顔で言うな、寒気がする」
少しもそう思っているようには見えない無表情で夏樹が言い放った。レイは小さく笑ってマヤの頭を撫でた。くすぐったそうに笑うマヤに、レイは目を細め
る。するりと首を撫ぜ、それに五指を絡めようかとして、やめた。そんな気分ではなかった。
「こんなことを冗談で言えると思っているのか?」
遅すぎる答えに応じる気はないらしく、夏樹は口を開こうとしない。もうレイを見てすらいない夏樹は、その視線をぼんやりと白いマリア像に向けていた。ま
るで母の姿を追い求めるキリストのよう。レイは僅かながら眉をひそめた。すり寄ってくるマヤに何も返そうとはせず、じっと夏樹を見つめ続ける。
「神に祈りたいことでもあるのか?」
長い沈黙に耐えきれなくなったのか、レイが問いかけた。ないかと思っていた応えは、意外にもすぐに返ってきた。
「主よ、どうか永久にこの私の目の前からこいつを消し去りたまえ」
レイは声をたてて笑う。マヤを放すと、まるで中世の騎士であるかのように夏樹にむかって片膝をついた。ご丁寧に頭まで垂れてみせる。
「お前が望むなら」
「心にもないことを言ってみせるな」
それに応えることもなく、レイはナイフを握ったままの左手からそれを解きとり、鈍く光る銀に口付けた。レイの手から落ちたナイフがかつりと音を立てる。
そして、空いてだらり
と垂れ下った夏樹の手の甲にも同じようにキスを落とした。
不意に夏樹が立ち上がった。鋭い視線がレイを貫く。それをレイは満足気に見上げた。
「どけ」
「仰せのままに」
眉をしかめた夏樹にレイがやわらかい笑顔を向ける。
「冗談だ」
レイは立ち上がって歩きだした。その隣に夏樹も並ぶ。二人分の足音が暗い棺桶の中に響き、そしてそれは遠ざかっていった。
誰もいなくなった礼拝堂で、取り残された一匹の猫が小さく鳴き声をあげた。