サファイアの空は誰が為に

不思議なほどあなたの言葉に


「休憩しろよ、そろそろ」
 アストリスが顔を上げる。そこにはちょっと困った顔をしたアリーシアが立っていた。
「それほど、時間がたった自覚がない」
 アリーシアがため息をついた。
「ここに篭ってから五時間は経ったぞ」
 心底驚いて目を見開くアストリスに、再びため息をつく。
「……アスト?」
「なんだ」
 全く、アリーシアらしくない。何を戸惑っているのか、アストリスと視線を合わせようとせず、続けようとする意思は見えるものの、言葉は続かない。
「どうした、アリス」
「…その、お茶でも…飲むか?」
「あぁ、そうだな」
 アリーシアがほっと息をつく。
 アストリスは今更気付いたのだが、アリーシアの隣にティーポットとお菓子が置かれている。
 たまにこちらを意識しながらお茶を入れるアリーシアを、アストリスはほほえましく思いながら見ている。しかし、その間に机に置かれていた本を片付けるの も忘れずに。
 すっと差し出してきたティーカップを受け取り、アストリスはアリーシアにありがとうとささやいた。
 この書庫に新しく入った本で調べ物をしていた、すぐ終わるつもりだったのに。
「…?」
「…アスト?」
「いつものと、味が違うな」
 ぴくっとアリーシアが顔を上げた。
「おいしくない…か?」
「いや、こっちの方が好きだ。アリスが淹れたのか?」
 すると面白いようにアリーシアが慌て始めた。
「や、その…ヒナが、たまにはって言うから…」
 嘘ではない。ただ、ずっと書庫に篭ったままのアストリスを不満に思うアリーシアを見ていたヒナが、会いに行ったらと勧めたのだが、それでうなづくアリー シアではない。邪魔になるからと明らかにそちらを意識しながらいうアリーシアに、ヒナは苦笑して、それならお茶でも入れていってさしあげたらどうですかと 提案したのだ。
「そうか。俺はたまにでなく毎日がいい」
 ほんのすこし、アリーシアの頬が赤く染まる。
「わかった」
 自然に笑みがこぼれてきた。アストリスが目を見開いて固まる。
「…アスト?」
 アストリスがアリーシアに向かって手招きをした。アリーシアは首をかしげながらもテーブルを避けてアストリスの隣に立つ。
「わ…っ?」
 ぐっと手を引かれる。
 唇が、触れ合う。目の前に目を閉じたアストリスの顔。
「アスト…っ」
 困惑して、アリーシアの声が震える。
「お前の全てが―――」
 愛おしい。
 じっと見つめられてささやかれた言葉。アリーシアは耳まで真っ赤になった。
「アスト!」
 どうしてそうなる、といくらか涙目になりながら訴えるアリーシア。
「そう思ったから、言っただけだ」
 アリーシアはため息をついた。普段必要な事なんて何も言ってくれはしないのに、どうしてこういった愛の言葉だけは簡単にささやくのだろう。そう思ってア リーシアは再び赤くなる。
「アリス」
「なんだよ」
「他の者には淹れてやらないでくれ」
 もう、一体どれだけアストリスに赤面させられたらいいのだろう。いい加減慣れればいいと思うのに、アリーシアの心も身体もそれを許してくれない。
「アリス? 聞いているのか?」
「聞いてるっ」
 アストリスが笑った。もう一度掠め取るように唇を合わせられた。
 ―――綺麗だよ、アリーシア。
 ふと、兄の言葉を思い出す。美辞麗句のオンパレードだったそれら。
「アリス?」
「…なんでもない」
 ―――綺麗だ、アリス。
 慌ててアリーシアは首を横に振る。思い出すだけで、また顔に熱が集まってくる。重症だと思う。けれど、どうにもならないのだ。
 そう、きっと―――彼の言葉には、誠実でまっすぐな想いが込められているから。そのアイスブルーの瞳に込められた重い全部が、一つ残らず伝わってくる。 まっすぐに、まっすぐに。
 昔から、もしかしたら…とアリーシアは思う。本当は、欲していたのかもしれない。こんなにまっすぐな言葉を。兄は確かに優しい言葉をくれたけど、あれの 中には確かにからかいが含まれていた。けれど、アストリスは違う。魂の全てを込めて、アリーシアにささやくのだ。
 それからアストリスが本当にアリーシアの淹れた紅茶しか飲まなくなって、ヒナをはじめとした侍女たちに呆れられるようになるのは遠い未来の事ではない。


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